晉書卷三十九 列傳第九 荀顗

荀彧の子・荀顗は温厚な人柄で太尉に至った。

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荀顗

  • 荀顗、字は景倩、潁川の人、魏の太尉・荀彧の第六子。幼くして姉婿の陳群に評価された。至孝の性で総角の頃から知られ、博学多聞で思考は緻密であった。魏の時、父の勲功により中郎に任じられた。宣帝が輔政した際、顗を見て「荀令君(彧)の子だ」と評し、擢用して散騎侍郎とし累進して侍中となった。魏の少帝のために経を講じ騎都尉を拝し関内侯を賜った。鍾会が『易』の互体を否定するのに反論し、また扶風王駿と仁孝の先後を論じて世に称賛された。
  • 曹爽が権を専らにした頃、何晏らが太常の傅嘏を害そうとしたが顗が救って免れた。高貴郷公の即位に際し、顗は景帝に「今上が即位し権道は尋常でない、速やかに使者を四方に遣わして徳を宣べ外の動静を察するべき」と進言した。毌丘倹・文欽は果たして服さず挙兵した。顗はこの討伐に功があり万歳亭侯・邑四百戸に進爵した。文帝の輔政期、尚書に遷る。帝が諸葛誕を征する際、顗は留守を任された。顗の甥・陳泰が没すると顗は泰に代わり僕射となり吏部を領し、四度辞退の末に就任した。顗は泰の後を承けて慎み深さを加え名実を精査し風俗を正した。咸熙中、司空に遷り郷侯に進爵。
  • 顗は還暦を過ぎても孝養を篤く行い、母の喪では毀れ果てるほどであった。文帝は漢の太傅胡広が母の喪に服した故事に倣い司空に吉凶の導従を給すべきと上奏した。蜀平定後、五等の復興に際し顗に礼儀の制定を命じた。顗は羊祜・任愷・庾峻・応貞・孔顥と共に旧文を刪改し晋の礼を撰定した。
  • 咸熙初、臨淮侯に封じられた。武帝践阼で公に進爵、食邑一千八百戸。詔で禹が九官を任じ契が五教を敷いた故事を引き、顗の翼亮・佐命の功を讃え司徒とした。まもなく侍中を加え太尉・都督城外牙門諸軍事に遷り司馬親兵百人を置いた。まもなく詔で顗の温恭忠允・行いの純備・博古洽聞を讃え太子太傅を行わせ侍中・太尉はそのままとされた。
  • 当時『正徳』『大予』の雅頌がまだ整っておらず顗に楽の制定を命じたが、事が終わらぬうちに泰始十年に薨じた。帝は哀悼し皇太子が喪に臨み二宮から手厚い賻贈があった。詔で顗の清純な体道・忠允な立朝・内外の要職を歴任した功績を讃え諡を康とし、東園秘器・朝服を賜った。さらに詔で、太尉が私門を顧みず住まいも質素であったことを讃え、家宅建設のため銭二百万を賜った。咸寧初、功臣の顕彰に際し顗ら十二人が太常に功を銘記され宗廟に配饗された。
  • 顗は『三礼』に明るく朝廷の大儀にも通じていたが、質直な操はなく荀勗・賈充に阿諛迎合するのみであった。皇太子の妃を選ぶ際、賈充の娘の徳を薦めたことで世に譏られた。
  • 顗は子なく従孫の徽を嗣とした。中興初、顗の兄の玄孫・序が顗の嗣となり臨淮公に封じられた。序が没しまた絶えたため、孝武帝は序の子・恒を顗の嗣に封じた。恒は没し子の龍符が嗣いだ。宋の受禅で国は除かれた。