晉書卷三十九 列傳第九 荀勖

荀勖は長く中書を掌握し、賈充の娘を皇太子妃に立てることを画策した。

年表(2件)

荀勗

  • 荀勗、字は公曾、潁川潁陰の人、漢の司空・荀爽の曾孫。祖父の棐は射声校尉、父の肸は早世。勗は母方の伯父のもとに身を寄せて育ち聡明で成人し十余歳で文を能くした。母方の祖父・魏の太傅・鍾繇は「この子は曾祖に及ぶだろう」と評した。長じて博学となり政務にも通じた。魏に仕え大将軍曹爽の掾に召され中書通事郎に遷った。爽の誅殺後、門生故吏の誰もが弔問に赴かない中、勗だけが赴き、これにより人々も従った。安陽令となり驃騎従事中郎に転じた。勗の遺愛を慕い安陽の民は生祠を建てた。廷尉正に遷り文帝の大将軍軍事に参じ関内侯を賜り従事中郎・記室に転じた。
  • 高貴郷公が変を起こそうとした際、大将軍掾の孫佑らが閶闔門を守っていた。帝の弟・安陽侯榦が難に加わろうとしたが佑は「まだ入った者はいない、東掖門から回れ」と告げた。榦が遅れて到着したため状況を訴えると、帝は佑を族誅しようとしたが、勗は「孫佑が安陽(榦)を通さなかったのは深く責められるべきだが、事には順逆があり刑は喜怒で軽重を左右すべきでない。成倅は刑がその身にとどまったのに佑だけ族誅するのは義士の私議を招くだろう」と諫め、佑は庶人に落とされるにとどまった。官騎の路遺が刺客として蜀に入りたいと求めた際、勗は帝に「明公は至公をもって天下を治めているのに、刺客の手で賊を除くという名目は、四海に刑を示し徳で遠人を服させるという理念にそぐわない」と進言し、帝はこれを是とした。
  • 鍾会の謀反が発覚する前に外部からの告発があった。帝は会を厚遇していたため信じなかったが、勗は「会は恩を受けても義理を弁えるかどうかは保証できない、速やかに備えるべき」と述べた。帝は長安に出鎮し、主簿の郭奕・参軍の王深は勗が会の甥で幼少期を舅の家で過ごしたことから帝に勗を退けるよう勧めたが、帝は聞かず勗を陪乗させ元通り扱った。先に勗は「蜀討伐には衛瓘を監軍にすべき」と進言しており、蜀中の乱に際し瓘の働きで事態は収まった。会の平定後、洛陽に戻り裴秀・羊祜と共に機密を管掌した。
  • 呉に使者を送る際、当時の文士に孫皓への書を作らせたが、帝は勗の作を用いた。皓が和親に応じると帝は勗に「君の書はかつて呉を従順にさせた、十万の兵に勝る」と語った。帝が晋王に即位すると勗は侍中となり安陽子・邑千戸に封じられた。武帝受禅後、済北郡公に改封されたが、勗は羊祜に譲るとして固辞し侯にとどまった。中書監を拝し侍中を加えられ著作を領し賈充と共に律令を定めた。

荀勗の政治手腕

  • 充が関右に鎮する際、勗は馮紞に「賈公が遠くに出れば我らは勢いを失う、太子の婚姻がまだ定まっていない、もし充の娘が妃になれば充は留まらずとも留まったも同然だ」と語った。勗と紞は帝に隙を伺い「充の娘は才色絶世、東宮に納めれば必ず君子を輔け『関雎』の后妃の徳を備える」と称え、婚姻が成った。当時の正直な者にはこれを疾まれ佞媚の譏りを受けた。まもなく光禄大夫に進む。楽事を掌り律呂も修め世に行われた。
  • かつて勗が路上で趙の商人の牛の鈴の音を聞き分けたことがあり、楽を掌る際に音韻が調わず「趙の牛鐸を得れば調和するだろう」と言い郡国に牛鐸を集めさせたところ果たして調和するものが見つかった。また帝の宴席で食事を進めた際「これは労薪(使い古した薪)で炊いたものだ」と述べ皆信じなかったが膳夫に確かめると「実は古い車の腳(部品)を使った」と判明し、世はその明察に感服した。まもなく秘書監を領し中書令の張華と共に劉向『別録』に依拠して記籍を整理した。書博士を立て弟子に鍾繇・胡昭の書法を教習させた。
  • 咸寧初、石苞らと共に佐命の功臣として銘饗に列した。王浚が呉討伐を上表した際、勗は賈充と共に固く反対したが帝は従わず呉は果たして滅んだ。専ら詔命を掌った功で子一人が亭侯・邑千戸に封じられ絹千匹を賜り、孫の顕も潁陽亭侯に封じられた。
  • 汲郡の塚から古文竹書が得られた際、詔で勗にその整理を命じ『中経』として秘書に納められた。
  • 王公を藩国に赴かせる議が起こった際、帝が勗に問うと、勗は「諸王公は既に都督であり、藩国に赴けば方任が廃れる。郡県を割けば人心は本を恋しがり必ず騒然とする。国はそれぞれ軍を置くことになり官兵は国に還されるため辺境の守りが欠ける」と答え、さらに帝が再考を求めると、都督を古の方伯選才に准じ軍国を都督に随わせる案には賛成しつつ、封疆を正すことは親疎の別が明らかになる一方で旧土の分割は人心を騒がせる恐れがあるため慎重を期すべきと述べ、五等制度は実質的に旧来の郡県郷亭とさほど変わらず、急に改めれば恨みを買うだろうと諭した。帝は勗の意見を妥当とし多くをこれに従った。

荀勗の議論と晩年

  • 州郡県の吏員の半数を省いて農事に充てる議に対し、勗は「吏を省くより官を省き、官を省くより事を省き、事を省くより清心を先とせよ」と論じ、蕭何・曹参の清静な統治、漢文帝の無為の治、光武帝の吏員合併、魏太和・正始の吏員削減などを引きつつ、篤義敦睦の風を尊び偽行を退け、敬譲・止足を重んじれば上下相安んじ遠近が相信じるようになると説いた。地位は進取で得られず名誉は朋党で求められないようにすれば是非は妄りにならず、奇技異説を抑え旧を変えて非常の利を求める者を必ず誅せば官業は常道を保つとし、事を留めれば政が滞るため職務に励むこと、簡潔な政令で百姓を煩わせないことなどを詳しく述べた。勗の議論はこの類が多かった。
  • 太康中、詔で勗の功を讃え光禄大夫・儀同三司・開府辟召、守中書監・侍中・侯位はそのままとされた。太尉の賈充・司徒の李胤が薨じ太子太傅も欠員となった際、勗は楊珧を東宮輔佐に、尚書令の衛瓘・吏部尚書の山濤のいずれかを司徒に推薦し、帝はこれに従った。
  • 翌年秋、諸州郡に大水があり兗州は特に甚だしかった。勗は都水使者の設置を進言した。門下が通事令史の伊羨・趙咸を舎人として文法を対掌させようとした際、詔で問われた勗は、漢文帝の獣圏嗇夫を用いなかった張釈之の諫言や邴吉が獣圏の争いより陰陽の調和を重んじた故事を引き、小吏の実務に頼りすぎることを戒め、増員より省官を求める昨今の風潮を批判した。
  • 帝は太子が暗愚であることを知り後の乱を恐れ、勗と和嶠を遣わして観察させた。勗は戻ると太子の徳を盛んに称えたが、嶠は太子は変わらないと述べたため、天下は嶠を貴び勗を賤しんだ。帝が賈妃を廃そうとした際、勗は馮紞らと共に諫めて廃止を止めさせた。当時、勗は朝廷を傾け時を害する者として孫資・劉放の類と評された。しかし性格は慎密で、詔令の大事は既に公布された後も決して口外せず、自分が関与を知られることを望まなかった。族弟の良が「公は人情に大きく背いている、進んで人を推挙すれば恩を感じる者も多くなるはずだ」と勧め、婿の武統も「何か営みを持ち、帰属する者を作るべき」と説いたが、勗は黙して応じず、退いて子らに「人臣は密でなければ身を失い、私党を作れば公を裏切る、これは大戒である、お前たちも人間関係の中で栄達するだろうがこの意を心得ておけ」と語った。のち尚書令を守った。
  • 勗は長く中書にあり機事を専管していたが、これを失うと大いに悵恨した。祝う者がいると勗は「鳳凰池を奪われたのに私を祝うのか」と言った。尚書での在任中、令史以下の才能を試験し、法文に暗く疑問を決しかねる者は即座に退けた。帝は「魏武帝は『荀文若(彧)の善への勧めは進まねば止まず、荀公達(攸)の悪の退けは退かねば休まない』と言った、二令君の美徳をあなたにも期待している」と語った。母の喪で印綬を返上しようとしたが帝は許さず、常侍の周恢を遣わして諭され、勗は詔を奉じて職に復した。
  • 勗は長く機密を管掌し才思に富み、人主の微意を汲み取り、顔を犯して忤らうことがなかったため終始その寵禄を全うできた。太康十年に卒し、詔で司徒を追贈され東園秘器・朝服・銭五十万・布百匹を賜り、御史を遣わして喪を護らせ諡を成とした。勗には十人の子があり、輯・藩・組が名を知られた。
  • 輯が嗣ぎ衛尉に至った。卒し諡を簡とし子の畯が嗣いだが卒し諡を烈とし、嫡子なく弟の子・識を嗣とした。輯の子・綽は博学で才能あり『晋後書』十五篇を著し世に伝わった。永嘉末、司空従事中郎として石勒に没し勒の参軍となった。

子・藩

  • 藩、字は大堅。元康中、黄門侍郎となり父が制作した鐘磬を完成させるよう詔を受けた。斉王冏討伐に従った勲功で西華県公に封じられた。累進して尚書令に遷る。永嘉末、司空に転じたが拝命前に洛陽が陥落し密に奔った。王浚は承制で藩を留台太尉として奉じた。愍帝が皇太子となると藩に遠近の統括を委ねられた。建興元年、開封で薨、享年六十九、その場に葬られた。諡を成とし太保を追贈された。二子は邃・闓。

藩子・邃、闓

  • 邃、字は道玄、音楽に通じ談論を能くした。弱冠で趙王倫の相国掾に召され太子洗馬に遷る。長沙王乂は参軍とした。乂の敗北後、成都王が皇太弟となった際、精選した僚属に邃を中舎人とした。鄴城陥落後、藩に従い密にいた。元帝が丞相従事中郎に召したが道の険しさで赴かなかった。愍帝が左将軍・陳留相に加えたが、父の喪で去職。喪明けの後、封を襲った。愍帝が邃の娘を納れようとしたため散騎常侍に先に召されたが、邃は西都の危険を恐れて命に応じず東渡し、元帝は軍諮祭酒とした。太興初、侍中を拝した。邃は刁協と姻戚関係にあり、協が権を握っていた頃に吏部尚書にしようとしたが邃は強く辞退した。まもなく王敦が協を討ち協の党与は皆難に遭ったが、邃だけは協と疎遠であったため免れた。敦は廷尉に推薦したが病で拝せず、太常に遷り尚書に転じた。蘇峻の乱に際し邃は王導・荀崧と共に天子に石頭で侍った。峻の平定後に卒し金紫光禄大夫を追贈され諡を靖とした。子の汪が嗣いだ。
  • 闓、字は道明、名声があり京都では「洛中英英荀道明」と語られた。大司馬・斉王冏に掾として召された。冏の敗北後、その屍が三日晒されても誰も収葬しない中、闓は冏の旧吏・李述・嵇含らと共に上書して葬儀を求め、朝議もこれを聞き入れ論者はこれを称えた。太傅主簿・中書郎を経て邃と共に渡江し丞相軍諮祭酒を拝した。中興建国後、右軍将軍に遷り少府に転じた。明帝が王暠に「二荀(邃・闓)兄弟のどちらが賢か」と問うと暠は闓の才明が邃に勝ると答えた。帝がこれを庾亮に伝えると亮は「邃の真粋さもまた闓の及ばぬところ」と答え、議者は兄弟の優劣を決められなかった。御史中丞・侍中・尚書を歴任し射陽公に封じられた。太寧二年卒し衛尉を追贈され諡を定とした。子の達が嗣いだ。

藩弟・組

  • 組、字は大章。弱冠で太尉の王衍がこれを見て「夷雅で才識がある」と評した。初め司徒左西属となり太子舎人に補せられた。司徒の王渾に従事中郎として召され左長史に転じ、太子中庶子・滎陽太守を歴任。
  • 趙王倫が相国となり海内の徳望ある士を選ぶ際、江夏の李重と組を左右長史とし、東平王堪・沛国の劉謨を左右司馬とした。倫の簒位後、組は侍中となった。長沙王乂の敗北後、恵帝は組と散騎常侍の閭丘沖を遣わし成都王穎の軍を慰労させた。帝が長安に西幸すると組は河南尹となった。尚書に遷り衛尉に転じ成陽県男を賜り散騎常侍・中書監を加えられた。司隷校尉に転じ特進・光禄大夫を加えられ常侍はそのまま。当時天下は既に乱れ、組兄弟は貴盛でありながら世に容れられないことを恐れ、大官にありながら諷議にとどめていた。
  • 永嘉末、再び組は侍中・領太子太保となった。拝命前に劉曜・王弥が洛陽に迫り、組と藩は共に脱出した。懐帝が蒙塵すると司空の王浚は組を司隷校尉とした。組と藩は天下に檄を移し琅邪王を盟主とした。
  • 愍帝が皇太子と称すると組はその舅であり司隷校尉・行豫州刺史事も領し、藩と共に滎陽の開封を保った。建興初、詔で藩に留台事を行わせた。まもなく藩が薨じ、帝は改めて組を司空・領尚書左僕射とし司隷も兼ね留台事を行わせ、州征郡守は皆その承制を受けた。臨潁県公に進封され太夫人・世子印綬も加えられた。翌年、太尉に進み豫州牧・仮節を領した。
  • 元帝の承制で組は司州諸軍を都督し散騎常侍を加えられた。まもなく尚書令に任じられたが表して辞退した。西都陥落後、組は天下に檄を送り勧進を促した。帝が組を司徒にしようとし太常の賀循に問うと、循は「組は旧望が清重で忠勤が顕著、五品の教化を任せるにふさわしい」と答え、組は司徒を拝した。
  • 組は石勒に逼られ自立できなかった。太興初、許昌から属官数百人を率いて渡江し千兵百騎を給され、組の旧配下はそのまま統率した。まもなく詔で組は太保・西陽王羕と共に録尚書事となり各々班剣六十人を加えられた。永昌初、太尉に遷り太子太保を領したが拝命前、享年六十五で薨、諡を元とした。子の奕が嗣いだ。

組子・奕

  • 奕、字は玄欣。若くして太子舎人・駙馬都尉を拝し東宮で侍講した。鎮東参軍として出て行揚武将軍・新汲令となった。愍帝が皇太子となると中舎人に召され散騎侍郎を拝命したがいずれも赴かず、父に従い渡江した。元帝の践阼で中庶子を拝し給事黄門郎に遷った。父の喪で去職、喪明けの後、散騎常侍・侍中に補せられた。
  • 宮城修繕の際、尚書が陳留王に人夫の供出を命じたが、奕は虞の賓(禅譲された前王朝の後裔)の礼、『詩経』「有客」の詩などを引き、陳留王は位を三公の上に置かれ太子の右に座し表書は「書」、賜物は「与」と特別扱いされてきたことから人夫役を免除すべきと駁した。尚書の張闓・僕射の孔愉は宋が周への築城役を拒んだ故事を『春秋』が譏った例を挙げ反論したが、奕は当時の宋と周は列国の権を持つ関係であり、陳留に対する晋は列国とは違うと重ねて反論し、詔はこれに従った。
  • 元会の際、帝が司徒王導に敬礼すべきかの議論が起こった際、博士の郭熙・杜援らは礼に臣に拝する文がないとして敬礼不要としたが、侍中の馮懐は天子が三老に拝礼する辟雍の礼、先帝の師傅への礼を挙げ敬礼すべきと論じた。奕は三朝の首では君臣の別を明らかにすべきで敬礼は不要、他日の小会なら礼を尽くしてよいとし、詔文の用語(頓首・敬問・制命)の違いからも大会と小会は同一に扱うべきでないと論じ、詔はこれに従った。
  • 咸和七年卒し太僕を追贈され諡を定とした。