晉書卷三十四 列傳第四 杜預
杜預(字は元凱、京兆杜陵の人)は魏の尚書僕射杜畿の孫。文帝の妹婿となり、律令の注釈・河橋建設・灌漑事業など内政に功績を残す一方、羊祜の遺志を継いで荊州都督となり呉討伐を主導、江陵を陥として呉を滅亡に導いた。学者としても『春秋左氏経伝集解』を著し「杜武庫」と称された。
出自と若年期
- 字は元凱、京兆杜陵の人。祖父は杜畿(魏の尚書僕射)、父は杜恕(幽州刺史)。博学で興廃の理に通じ、「徳に及ぶことは難しいが、功業や言論は目指せる」と語った。父が宣帝(司馬懿)と不和で幽閉のうちに没したため、杜預は長く登用されなかった。文帝の代になり、帝の妹高陸公主を娶り尚書郎、祖父の爵位(豊楽亭侯)を継いだ。相府軍事に転じ、鍾会の蜀討伐に鎮西長史として従軍、鍾会の反乱で僚佐が皆殺された中、機知により難を逃れ、食邑を1150戸増された。
律令注釈と河南尹
- 車騎将軍賈充らと律令を制定した後、自ら注釈をつけて上奏した(法とは事例の基準であり、簡潔明瞭であるべきとの主旨)。詔により天下に頒布された。
- 泰始年間、河南尹を守り、中央の風化を近郊から遠方へ広める施政を重んじた。官吏の考課に関する詔を受けて長大な意見を上奏した(古の政治は自然に従い簡素だったが、後世は細目にこだわり形骸化したとし、達官に評価を委ね数年ごとに優劣を集計する簡明な考課法を提案する内容)。
西方での挫折と度支尚書
- 司隷校尉石鑒に旧怨から弾劾され免官。西方の異民族反乱に際し安西軍司として派遣され、長安で秦州刺史・東羌校尉・輕車将軍・仮節に転じた。異民族の兵が強盛な中、石鑒(安西将軍)から出撃を命じられたが、杜預は敵が有利な状況を挙げ春を待つべきと具申した。石鑒は怒って別の罪(城門の私的な修繕、軍務の遅延)で弾劾し、杜預は檻車で廷尉に送られたが、皇族との婚姻による特典(八議)で贖罪となった。その後、隴右の情勢は杜預の予測通りに推移した。
- 匈奴の劉猛の反乱に際し、散侯のまま計画立案に従事し、度支尚書を拝命。藉田の実施、辺境防備の強化、新兵器の考案、常平倉の設置、穀価の安定、塩の運送統制、賦課制度の整備など50余の施策を上奏し、多くが採用された。石鑒との不和が続き免官と復職を繰り返した。
河橋建設と学術
- 元皇后(文明王皇后)の梓宮(棺)が峻陽陵に遷される際、旧制では葬儀後に喪服を解くところ、杜預は皇太子だけは古礼に従い喪を続けるべきと主張しこれが通った。
- 暦の誤差を正す『二元乾度暦』を上奏し世に行われた。富平津に河橋を架けることを提案し、殷周の都でも架橋されなかった前例を懸念する議論に対し「造舟為梁」の古語を根拠に反論、橋が完成すると武帝は「君なくしてこの橋は成らなかった」と称え、杜預は「陛下の英明あってこそ、私も微力を尽くせた」と応じた。漢代に伝わっていた欹器(傾き具合で満杯を知らせる器)を復元して献上し、帝に称賛された。咸寧4年(278年)の大雨・蝗害に際しては農政の要諦を説く上疏を奏した(『食貨志』に記載)。内職7年、政務全般に貢献し「杜武庫」(何でも備えている)と称された。
呉討伐と勝利
- 武帝が密かに呉討伐を計画した際、朝議は多くが反対する中、杜預・羊祜・張華のみが賛同した。羊祜の病により後任に推挙され、平東将軍・征南軍司として着任。羊祜の死後、鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となり、呉の西陵督張政を奇襲して大破し(食邑365戸増)、捕虜を返還して張政と孫皓の離間を図る計略も成功させた。
- 討伐時期をめぐり翌年まで待つべきとする帝に対し、杜預は「機を逃せば呉が防備を固める」と即時決行を訴える上表を2度奏した。時に中書令張華と碁を打っていた武帝にこの上表が届き、張華は碁盤を押しやって「陛下の聖明、朝野の安定、国力の充実からして、呉主の暴虐に照らせば労せず平定できる」と進言し、帝は許可した。
- 太康元年(280年)正月、江陵に布陣し諸将を各方面に進め、次々と城邑を陥落させた。牙門管定・周旨らの奇襲部隊による楽郷攻略、呉都督孫歆の捕縛(「一計で戦に当たること万に値す」という軍中の謡が生まれた)などの戦功を重ね、江陵を攻略。沅湘以南から交州・広州まで呉の州郡が次々帰順し、都督・監軍14名、牙門・郡守120余名を斬殺・捕縛した。
- 王濬が先に孫歆の首級を報告し、後から杜預が生きた孫歆を送ったため洛陽で笑い話になった。「暑さと疫病を避けて来冬まで待つべき」との議論に対し、杜預は「今の軍威は破竹の勢い、途中で止める理由はない」と述べて進軍を続け、秣陵(建業)まで無血で進んだ。孫皓平定後、当陽県侯に進爵(食邑9600戸)、子の杜耽も亭侯(食邑1000戸)に封じられ、絹8000匹を賜った。
- 江陵攻めの際、呉人は杜預の頸の腫物(癭)を恐れ、瓠を犬の首に付け「杜預頸」と揶揄する木を各所に立てたが、平定後にことごとく捕らえて処刑した。
荊州経営と学問
- 帰鎮後、代々武官の家系でないことを理由に退任を願ったが許されなかった。天下太平でも戦への備えを怠らず、学校(泮宮)を興し、山夷を討ち、要害に屯営を配し統治を固めた。邵信臣の遺した灌漑事業を復興して1万余頃の田を潤し、公私の利益を調整した功で「杜父」と称えられた。沔漢から江陵に至る水路や、巴丘湖から沅湘に至る楊口の運河を開削し、南方では「後世に叛乱がないのは杜翁のおかげ、知恵と勇気の名を誰が知ろうか」と謳われた。事業は必ず始終を見極めて行い、失敗が少なかった。些事にこだわると評されると「禹・稷の功も、世を救うことを期したまで」と応じた。
- 後世に名を残すことを好み、「高い岸が谷になり、深い谷が丘になる」との言葉通り、自らの功績を刻んだ石碑2基を作り、一つは万山の下に沈め、一つは峴山に立てた(「これが後に陵谷とならないと誰が知ろうか」との言葉を添えて)。
- 武術には長けなかったが、常に軍を率いる立場にあった。礼儀正しく交際し、包み隠さず、人に飽きず教えた。功業の後は経籍に没頭し、『春秋左氏経伝集解』『釈例』『盟会図』『春秋長暦』を著し、一家の学を成した。老いてなお完成させた。『女記賛』も著した。当時は文章が質朴すぎると評されたが、秘書監摯虞のみが高く評価した。王済の相馬の癖、和嶠の蓄財の癖に対し、自らを「左伝癖」と称した逸話(武帝との対話)が伝わる。
最期と遺言
- 在鎮中、洛陽の要人に贈物をする理由を問われ「害を避けるためで、益を求めるのではない」と答えた。宴席で酔って蛇が嘔吐する幻を見られた逸話も伝わる。
- 司隷校尉に召され、特進の位を加えられたが、鄧県に至って63歳で没した。武帝は深く哀悼し、征南大将軍・開府儀同三司を追贈、諡は成とした。
- 遺言では、合葬の慣習に対する私見(古は合葬しなかったが中古以降の慣習を尊重しつつ、各自の意志によるとする立場)を述べ、密県の邢山で見た鄭の大夫祭仲(あるいは子産)の墓の質素な構造(自然の景観を活かし、貴重品を副葬しない様式)に倣い、洛陽城東の首陽山南の土地に自らの墓域を定め、簡素な形式(洛水の丸石を用い、羨道を南向きにする鄭大夫の様式)を指定した。子孫はこれに従った。子の杜錫が跡を継いだ。
杜預の子・杜錫
- 字は世嘏。若くして名声があり、長沙王乂の文学から太子中舎人に累進。剛直な性格で愍懐太子をしばしば諫め、太子はこれを疎んじ、杜錫の座布団に針を仕込んで刺させる嫌がらせをした逸話が伝わる(杜錫は問い詰められても「酔って気づかなかった」と答え、太子に皮肉を返した)。衛将軍長史に転じ、趙王倫の簒位に際し治書御史となった。孫秀の交誼要請を拒んだため恨まれたが、名声の高さから害されずに済んだ。恵帝復政後、吏部郎・城陽太守(不拝)を経て尚書左丞。48歳で卒し散騎常侍を追贈された。子の杜乂が跡を継ぎ、外戚伝に記される。
史論
- 史臣は、泰始年間の伐呉論において羊祜が天地の道理を見抜いていたことを、斉の黔夫・趙の李牧の故事になぞらえて称える。呉との融和と信義の構築を評価しつつ、功成って驕らず質素に生きた姿勢を「幅巾窮巷」の風格として讃える。
- 杜預については、生来の才ではなく努力によって知略を身につけ、儒学と軍略を兼ね備えた人物として、孔門の四科・『春秋』の五伝の一部門を担う存在に比する。一方、愍懐太子の喪礼をめぐる主張(皇太子だけ喪を続けさせた件)については、当代の善良な太子を諸侯の庶子のように扱った変則的な礼と評し、批判的な視点も示す。
賛(要旨)
- 漢中の険、江南の要害を制した羊祜の恩信により百万の民が帰順したこと、杜預が文事(『春秋左氏伝』研究)と武功を兼ね備え「武庫」と称されたことを詠む。