晉書卷三十四 列傳第四 羊祜

羊祜(字は叔子、泰山南城の人、?–278年)は魏末から西晋にかけて仕えた重臣で、景献皇后(司馬師夫人)の弟にあたる。荊州都督として長く呉と対峙し、信義をもって融和策を進め呉人から「羊公」と敬愛された。王濬の水軍建造を密かに進めるなど呉討伐の布石を敷いたが、討伐の完遂を見ずに病没した。

年表(2件)
  • 泰始初年尚書右僕射・衛将軍を拝命する
  • 咸寧初年征南大将軍・開府儀同三司の任を得て、水軍建造など呉討伐の布石を進める

出自と若年期

  • 字は叔子、泰山南城の人。代々二千石の官を務めた家柄で、羊祜まで9代清廉の徳で知られた。祖父は羊続(後漢の南陽太守)、父は羊道(上党太守)。羊祜は蔡邕の外孫であり、景献皇后(司馬師夫人羊徽瑜)の同母弟にあたる。12歳で父を亡くし、礼を超えるほどの孝心を示し、叔父羊耽によく仕えた。
  • ある時、父老に「よい人相をしている、60歳になる前に必ず天下に大功を立てる」と告げられたという逸話がある。長じて博学で文章に優れ、容姿・弁舌にも秀でた。郡将夏侯威に見込まれ、夏侯覇の子(甥)の娘を娶わされた。上計吏に挙げられ、州から従事・秀才に、五府からも招聘されたがすべて応じなかった。太原の郭奕は「今の顔回だ」と評した。王沈と共に曹爽に招かれた際、王沈は応じるよう勧めたが、羊祜は「人に仕えるのは容易なことではない」と断った。曹爽失脚後、王沈は旧吏として免官されたが、羊祜の先見を評価した。

魏朝末期の処世

  • 夏侯覇が蜀に降った際、姻戚の多くが縁を絶ったが、羊祜だけは変わらず礼を尽くした。母の喪、続いて長兄羊発の死に遭い、10年余り悲嘆に沈んだ。
  • 文帝(司馬昭)の招聘に応じず、公車で中書侍郎を拝命、給事中・黄門郎に進んだ。高貴郷公が文学を好み群臣が詩賦を献じた際、和逌が意に沿わず疎まれる中、羊祜は親疎いずれにも偏らぬ態度で識者に評価された。陳留王(元帝)即位後、関中侯(食邑100戸)を賜り、侍臣を望まず外任を求めて秘書監に転じた。五等爵制成立時に鉅平子(食邑600戸)に封じられた。鍾会に忌まれつつも、鍾会誅殺後は相国従事中郎として荀勖と機密を掌握し、中領軍として宮中警護の要職を担った。

荊州鎮撫と呉との融和

  • 武帝受禅後、佐命の功で中軍将軍・散騎常侍、郡公(食邑3000戸)に進封されたが固辞し、侯に留めた。泰始初年、尚書右僕射・衛将軍を拝命したが、王佑・賈充・裴秀ら前朝の名望ある人物を敬い、自らその上位に立たなかった。
  • 呉討伐を志す武帝により都督荊州諸軍事に任じられ、南方に出鎮した。学校を開き遠近を懐柔し、呉からの投降者には自由な去就を許した。長吏の死で旧府舎を壊す慣習を止めさせ、辺境の石城守備を計略で撤退させて防備を半減させる一方、開墾により10年分の兵糧を蓄えるなど内政に成果を上げた。軽装で甲を着けず、護衛も少数に留める一方、狩猟に耽り政務を怠ることもあったが、軍司徐胤の諫言(都督の安否は国家の安否に直結するとの言)を受けて改めた。

呉人の信頼と朝廷での立場

  • 車騎将軍・開府の待遇を固辞する長文の上表を奏したが許されなかった(自らの功徳がまだ高位に値しないとする謙譲の弁)。
  • 呉の西陵督歩闡の投降をめぐる戦いでは、陸抗の反撃を受け楊肇の軍が敗れ、部下歩闡も陸抗に捕らえられた。この責を問われ平南将軍に降格された。
  • その後、要害を確保し石城以西を晋の領土とし、呉からの投降者が絶えなかった。呉との交戦では奇襲を避け正々堂々の戦法を貫き、捕虜となった呉の子供を送り返す、戦死した呉将を丁重に葬る、略奪した穀物には代価の絹を送るなど信義に厚い施策を重ね、呉人は「羊公」と敬愛し実名で呼ばなかった。
  • 呉の陸抗とは使者を交わし互いに敬意を示し合った。陸抗が病んだ際、羊祜が薬を贈ると陸抗は疑わず服用し、「羊祜が人を鴆殺するはずがない」と述べた。両者は「彼が徳を専らにするなら我も暴を慎む、戦わずして自ずと服す」という姿勢を貫いた。孫皓がこれを詰問すると、陸抗は「一邑一郷でも信義は不可欠、まして大国はなおさら」と答えた。

政敵と伐呉論

  • 清廉で私心なく邪佞を憎んだため、荀勗・馮紞らに忌まれた。甥の王衍が弁舌巧みに事を陳べた際、羊祜が同意しなかったことに王衍が怒って席を立つと、羊祜は「王夷甫(衍)は盛名で高位に就くだろうが、風俗を乱すのはこの人物に違いない」と評した。歩闡の一件で王戎を軍法で処罰しようとした経緯から、王戎・王衍は羊祜を恨み、「二王が国を治めれば、羊公に徳なし」との評判が立った。
  • 咸寧初年、征南大将軍・開府儀同三司として自ら僚属を招聘できる地位を得た。呉の童謡「阿童復阿童、銜刀浮渡江…」を聞き、水軍の将が功を立てると考え、益州刺史王濬(小字が阿童)を留任させ、密かに水軍の建造を進めさせた。
  • 呉討伐を説く長大な上疏を奏した。要旨は「蜀平定から13年、天下統一の好機は今にある。呉の険阻は蜀に劣らず、孫皓の暴虐は劉禅に勝り、呉の困窮は蜀を上回る。今こそ大挙して統一すべき」との内容で、水陸から呉を包囲する具体的な戦略を含む。帝はこれを深く納得した。
  • 秦涼(西方)での度重なる敗戦の中、羊祜は「呉が平定されれば異民族も自然と定まる、ただ速やかに大功を成すべき」と重ねて上表したが、議論は分かれた。「天下の事、思うようにいかぬことは十中七、八。天が与える機を取らねば、後で悔いる」と嘆いた。

功成らずして没す

  • 泰山南部の5県を南城郡とし、羊祜を南城侯とする詔が出たが、張良の故事を引いて固辞し、鉅平の封を守った。羊祜は常に謙譲を貫き、その名声は朝野に広がり、群臣は台輔(三公)に就くべきと議したが、帝は伐呉の任のため留めた。要職にありながら私利には一切関わらず、進言はすべて草稿を焼いて秘匿したため、その功績の多くは世に知られなかった。「入りては膝を突き合わせて進言し、出でては言葉を濁す、これが君臣の秘密を守る道だ」と自ら語った。
  • 娘婿から私財を築くよう勧められた際、「臣下が私利を図れば公を損なう、大惑いだ」と退けた。従弟の羊琇への書簡では「辺境の事が定まれば隠棲し、質素な死に場所を得たい、疎広(漢の隠士)こそ我が師だ」と記した。
  • 峴山を愛し、酒を酌みつつ「この山は宇宙開闢以来ここにあり、我らのような賢達も皆消え去り忘れられる、死後も魂がここに登るだろう」と嘆じ、従事中郎鄒湛は「公の徳はこの山と共に永く伝わるでしょう」と応じた(後に峴山には羊祜を偲ぶ「堕涙碑」が建てられた)。
  • 呉討伐の功に浴した際、爵封を舅の子蔡襲に譲るよう願い、蔡襲は関内侯(食邑300戸)に封じられた。呉の弋陽・江夏侵攻への対応が遅いと詰問された際は、地理的な事情を明快に説明し、使者は反論できなかった。
  • 病を得て入朝し、景献皇后(姉、羊徽瑜)の喪に深く哀しんだ。帝は病を案じて中書令張華を遣わし方策を尋ねさせると、羊祜は「今こそ天下統一を果たし文教を興すべき、機を逃せば呉が良主を得た場合に長江を越えられなくなる恐れがある」と説き、張華は深く賛同した。「私の志を成すのは君だ」と羊祜は張華に告げた。武帝が自ら軍を指揮させようとしたが、羊祜は「呉討伐に私自ら出向く必要はない、平定後の統治こそ重要」と述べ、功名に固執しない姿勢を示した。
  • 病篤くなると杜預を後任に推挙し、まもなく58歳で没した。武帝は素服で哭き、涙が凍るほどの寒さであったと伝わる。南方の民は市を閉じて喪に服し、呉の辺境の将兵も涙したという。侍中・太傅を追贈された。

清廉と後日談

  • 清廉節約な生活を貫き、俸禄はすべて一族に分配し、家に余財がなかった。遺言で鉅平侯の印を棺に入れぬよう命じた。従弟羊琇らが先祖の墓の隣への埋葬を望んだが帝は許さず、洛陽近郊の陵墓地を与え、諡を成とした。甥の斉王攸の訴えにより、生前の固辞にもかかわらず本来の封を回復する詔が出された。
  • かつて文帝崩御の際、羊祜は傅玄と三年の喪の意義について議論し、漢文帝が喪礼を簡略化したことを惜しみ、武帝が実質的に喪に服していることを評価して古礼の復興を望んだが、傅玄は「上が喪服を除いても天下が除くのは、君臣の別を損なう」と反論し、羊祜も一旦は納得した。
  • 著した文章と『老子伝』が世に伝わった。襄陽の民は峴山に羊祜を偲ぶ碑と廟を建てて祭祀を続け、碑を見る者は皆涙したため杜預がこれを「堕涙碑」と名付けた。荊州の人々は羊祜の諱を避け、戸曹を辞曹と改称するほど敬慕した。
  • 開府後も年を経て招聘した僚属がおらず、初めて招聘を行おうとした矢先に没したため、旧参佐の劉儈・趙寅・劉彌・孫勃らが杜預に書簡を送り、故人の遺志を汲んで招聘予定者を正式に登用するよう求めた。杜預も上表したが、詔は許さなかった。
  • 呉平定の2年後、群臣が祝賀する中、武帝は盃を手に「これは羊太傅の功である」と涙した。功績を廟に告げ、蕭何の故事に倣い夫人夏侯氏に万歳鄉君(食邑5000戸)を封じ、絹1万匹・穀1万斛を賜った。
  • 5歳の頃、失くした金の指輪を隣家の桑の木の中から探し出し、その家の亡くなった子が探していた物と分かって前世との縁を疑われた逸話や、先祖の墓の地相が「王侯の気」を持つが掘れば子孫が絶えると占われながら掘らせた結果、羊祜自身が落馬で腕を折り公位に至りながら子がなかった逸話が伝わる。
  • 甥の羊暨は父の喪を理由に嗣子となることを固辞し、その弟羊伊も詔に従わなかったため、帝は怒って両名を免官。太康2年(281年)、羊伊の弟羊篇が鉅平侯として羊祜の跡を継いだ。孝武帝の太元年間には羊祜の玄孫の子羊法興が鉅平侯(食邑5000戸)に封じられたが、桓玄の党与として誅殺され国は除かれた。尚書祠部郎荀伯子は羊祜の功績に見合う継嗣の必要を訴えたが、上奏は放置された。
  • 羊祜の前母(孔融の娘)が生んだ兄羊発は都督淮北護軍に至った。羊発と羊祜の同母兄羊承がともに病んだ際、母は両方を救えぬと判断し羊発の看病に専念したため羊承は死んだ。羊発の子孫や羊祜の伯父羊秘の子孫についても簡潔な系譜が記される(羊亮は太傅楊駿の参軍として法の厳格化を諫めた逸話があるが、後に劉元海(劉淵)に殺された)。