立身と司馬懿の評価
- 字は仲容、渤海南皮の人。度量があり容姿に優れ、「石仲容、美貌無双」と称された。県吏、謁者陽翟郭玄信の御者を経て、玄信に「後に必ず卿相に至る」と予言された。鄴の市場で鉄を売買していた際、市長趙元儒に人物を見出され、遠大な器量を評された。吏部郎許允に小県への赴任を求めた際も「君は我らの同輩、朝廷に引き立てるべきだ、なぜ小県を望むのか」と評された。
- 景帝(司馬師)の中護軍司馬に累遷。宣帝が石苞の好色・軽薄を景帝に告げると、景帝は「石苞は細行に難があるが経国の才略がある。斉桓公は管仲の奢僭を許してその功績を取り、漢高祖は陳平の汚行を許してその奇策を取った」と弁護し、宣帝も納得した。鄴の典農中郎将として、王侯を含む権勢家の不正を摘発して評価を高めた。東莱・琅邪太守を経て徐州刺史。
軍功と武帝朝
- 東関の戦いで文帝(司馬昭)が敗れた際、石苞は独り全軍を率いて退却した。文帝は「持っている節をお前に授けられなかったのが悔やまれる」と評した。奮武将軍・仮節・監青州諸軍事に累進。諸葛誕の淮南挙兵に際し青州諸軍を統率し、呉の朱異・丁奉らの援軍を撃破する功をあげた。鎮東将軍・東光侯・仮節を経て揚州諸軍事を代行。文帝から高貴郷公の様子を「非常な主にあらず」と評し、数日後に成済の変(高貴郷公弑逆)が起きた逸話がある。征東大将軍、驃騎将軍を歴任。
- 文帝崩御の際、葬礼をめぐり賈充・荀勖が定めかねていたところ、石苞は慟哭して「これほどの基業を人臣のまま終わらせるのか」と述べ、葬礼が定まった。陳騫と共に禅譲を促し、力を尽くした。武帝践祚後、大司馬に進み楽陵郡公に封じられ、侍中・羽葆鼓吹を加えられた。
淮南鎮撫と冤罪疑惑
- 諸葛誕討伐後、石苞は淮南を鎮撫し、勤勉と威徳で治めた。淮北監軍王琛は石苞の微賤な出自を軽んじ、「宮中大馬、幾んど驢と作る、大石之を圧して舒するを得ず」との童謡を根拠に石苞と呉との内通を密告した。呉軍が攻め寄せるとの予兆や噂も重なり、武帝は疑念を強めた。石苞が堤を築いて水を堰き自衛の構えを取った際、羊祜は誤解であると弁じたが帝の疑いは晴れなかった。石苞の子石喬が召還に応じるのが遅れたことも重なり、帝は謀反を疑って討伐を計画し、義陽王司馬望に大軍を率いさせた。石苞は掾の孫鑠の計により兵を退かせ都亭で処分を待った結果、帝の疑いは解け、公として自邸に戻された。石苞は無実であったが弁明せず恥じる様子もなかった。
- 鄴の奚官督郭暠が石苞の弁護を上書し、帝は「石苞は忠実で経世の才があり、教化を担うべき」として司徒に任じた。有司は反対したが、帝は「昔の鄧禹も関中で失策があったが最終的に漢室を輔けた、一度の過ちで大徳を覆ってはならない」と退けた。石苞は農桑の賞罰制度を整えるよう上奏し、詔でその功が称えられた。
晩年と遺言
- 泰始8年(272年)薨去。厚い礼遇(秘器・朝服・銭30万・布100匹)を受け、葬儀は魏の司空陳泰の故事に倣った規模で行われ、武帝自ら東掖門外で見送った。諡は武。咸寧初年、王功として銘饗に列せられた。
- 生前に定めた終制(葬送の遺言)で「延陵(季札)の薄葬は孔子が達礼と称え、華元の厚葬は『春秋』が不臣と非難した」と述べ、時服のまま簡素に葬り、飯含(口に玉を含ませる儀礼)も床帳・明器も用いず、墳墓も築かないよう命じた。子らはこれをよく守り、親戚故吏の祭祀も断った。6子(越・喬・統・浚・俊・崇)があり、統が嗣子となった。
石苞の子たち
- 統は字を弘緒といい、射声校尉・大鴻臚を歴任。子の順は尚書郎。
- 越は字を弘倫といい、早世した。
- 喬は字を弘祖といい、尚書郎・散騎侍郎を歴任。石苞召還騒動の際に召還に応じるのが遅れたことで石苞の疑惑を招いたため、石苞に廃されて終生仕官を許されなかった。さらに不品行のため頓丘に流され、弟の崇と共に害された。2子(超・熙)は逃げて助かった。超は成都王穎の挙兵に従い折衝将軍として孫秀を討ち、その功で封侯。振武将軍として荊州の李辰の乱も討った。司馬穎と長沙王乂の抗争では先鋒を務め中護軍に累進。恵帝の北伐に際し鄴に逃げ戻り、蕩陰の戦いで恵帝を圧迫、鄴宮に幸させた。王浚が鄴を攻めた際は右将軍として抗戦したが大敗、洛陽・長安への遷幸に従った。河間王顒のもとで北中郎将として東海王越と対峙したが、范陽王虓に討たれ斬られた。熙は逃れ、永嘉中に太傅越の参軍となった。
- 浚は字を景倫といい、清廉で人物を敬愛し、黄門侍郎に至る名士であったが早世した。
- 俊は字を彦倫といい、若くして名声があり、陽平太守に至るが早世した。
石苞の子・崇(石崇)――出仕から荊州刺史まで
- 崇は字を季倫、青州生まれのため小名は斉奴。聡明で勇謀に富んだ。石苞は臨終の際、諸子に財を分けたが崇にだけ与えず、「この子は幼くとも後に自ら得るだろう」と述べた。20歳過ぎで修武令として名声を得、散騎郎、城陽太守を経て呉討伐の功で安陽鄉侯に封じられた。
- 兄の統が扶風王駿と対立し弾劾された際、崇は上表して弁明し、事態を収拾させた。累進して散騎常侍・侍中に至った。武帝は崇を功臣の子で器量があると重んじた。元康初年、楊駿輔政期の恩賞乱発を批判する上奏を惠帝に行ったが容れられなかった。南中郎将・荊州刺史・南蛮校尉・鷹揚将軍として赴任し、鴆鳥の雛を得て後軍将軍王愷に贈った逸話があるが、鴆鳥の越境が禁制であったため摘発され、都の街で焼却処分にされた。
石崇――財力・奢侈と王愷との争い
- 荊州在任中、旅商人を襲って財を蓄えたと伝わる。大司農、太僕、征虜将軍・仮節・監徐州諸軍事(下邳鎮守)を歴任。河陽の金谷(梓沢とも)に別荘を構え、送別の宴を盛大に催した。徐州刺史高誕との酒席での争いで免官、のち衛尉に戻り、潘岳らとともに賈謐に阿諛し「二十四友」と称された仲間の一人となった。
- 財産は膨大で、後房の女性百数十人は絹を纏い金翠を飾り、音楽・食膳も極めて贅沢であった。外戚の王愷・羊琇らと奢侈を競い、王愷が飴で釜を洗えば石崇は蝋燭を薪代わりにし、王愷が紫の絹の歩障40里を張れば石崇は錦の歩障50里で対抗し、王愷が赤石脂で壁を塗れば石崇は椒(香料)で壁を塗った。武帝は王愷に加勢し、高さ2尺余りの珊瑚樹を下賜したが、石崇は鉄如意でこれを打ち砕いた。王愷が惜しんで怒ると、石崇は「大したことではない、返そう」と述べ、高さ3、4尺の珊瑚樹6、7株を含む多数の珍品を示し、王愷を圧倒した。
- 豆粥を瞬時に用意する術、冬に韮の若芽を得る術(実は乾燥豆や韮根と麦の芽の加工技術)、牛車を速く走らせる術(御者に手綱を緩め馬の自由な走りを許す技法)を持ち、王愷との競争に用いた。これらの秘密は帳下の従者を買収されて漏れ、石崇はこれを知ると告げ口をした者を殺した。
- 王敦と共に太学で顔回・原憲の像を見た際、「彼らと同じ域に至れるなら人と何の違いがあろう」と述べた石崇に、王敦が「子貢の境地なら君に近いだろう」とからかうと、石崇は「士たる者は身も名も泰らかであるべきで、貧窮に甘んじるべきでない」と応じた。劉輿兄弟が王愷に殺されかけた際、石崇はこれを察知して救出した逸話も伝わる。
石崇――綠珠と最期
- 賈謐誅殺に連座して免官。趙王倫専権期、石崇の甥欧陽建が趙王倫と不和であった。石崇の妓女綠珠は美貌と笛の才で知られ、孫秀がこれを求めたが、石崇は多くの侍妾を示しつつも綠珠だけは譲らなかった。孫秀は怒り、趙王倫に石崇と欧陽建の誅殺を勧めた。両者はこれを察知し潘岳と共に淮南王允・斉王冏に趙王倫・孫秀打倒を勧めたが、計画が漏れ偽詔により捕縛された。
- 兵が門に到った際、石崇は綠珠に「私は今お前のために罪を得た」と告げ、綠珠は「あなたの前で命を捧げます」と応えて楼から身を投げて死んだ。石崇は「流刑で済むだろう」と述べたが、刑場へ護送される途中「奴らは我が家の財を狙っている」と嘆くと、押送する役人に「財が害を招くと知りながら、なぜ早く手放さなかったのか」と切り返された。母・兄・妻子ら合わせて15人が皆殺され、石崇は享年52。
- 崇の家では地に落ちた米飯が一夜で螺(にな貝)に変わったといい、人々はこれを一族滅亡の予兆と見た。有司は水碓3所、蒼頭(奴隷)800余人ほか莫大な財宝・田宅を検分した。恵帝復位後、卿の礼で改葬され、崇の従孫石演が楽陵公に封じられた。
苞の曾孫・樸
- 石苞の曾孫、字は玄真。謹厚な人柄だが特別な才芸はなく、胡(異民族政権下)に没した。石勒は同姓であり共に河北の出であることから宗室として優遇し、司徒にまで至らせた。
附伝:歐陽建
- 字は堅石。代々冀州の名族。理知と文才に優れ北方で名を馳せ、「渤海赫赫、歐陽堅石」と称された。公府の招聘に応じ山陽令・尚書郎・馮翊太守を歴任、名声を得たが、石崇と共に禍に遭い30余歳で没した。臨終に哀切な詩を残した。
附伝:孫鑠
- 字は巨鄴、河内懐の人。若くして県吏となり、太守呉奮に主簿として抜擢された。低い身分から昇進したため周囲の反感を買ったが、司隸校尉劉訥に評価され、呉奮の推挙で石苞の掾となった。石苞討伐軍が密かに差し向けられていた際、汝陰王から内々に危機を知らされ、寿春に急行して石苞のために策を立て、石苞を難から救った。尚書郎に累進し、在職中の議論で当時称賛された。
史論
- 史臣は、鄭沖が経学において師として恥じぬ人物であり、王祥が孝を体現した人物であることを述べ、何曾が親孝行のみならずその親族にまで礼を尽くしたことを称える。
- 夏・殷の礼制の変遷、身分に応じた祭祀の規範に触れつつ、驕奢が政治を損なうことを説き、石崇の博学でありながら悔い改めぬ性質を批判する。四豪・五侯にも劣らぬ富を誇りながら、金谷での宴に興じ、綠珠が身を投げるに至った顛末を、蝉が身近の危険(螳螂)に気づかぬ譬えに重ねて戒める。
賛(要旨)
- 鄭沖の質朴さと王祥の晩成、二人が共に高徳を全うしたこと、何曾・石苞の異なる気質、武帝の治世が奢侈に流れ石崇の心が驕り走ったこと、驕奢の果てに一族離散し害を招いたことを詠む。