晉書卷三十五 列傳第五 陳騫
陳騫(臨淮東陽の人、211–292年)は魏の司徒陳矯の子。沈着で知略に富み、諸葛誕の乱鎮圧や呉との戦いで功を重ね、武帝受禅後は大司馬・都督揚州諸軍事に至った。賈充・石苞・裴秀らと並ぶ武帝の腹心とされ、致仕後も高平公として重んじられた。
出仕から軍功まで
- 臨淮東陽の人。父は陳矯(魏の司徒)。陳矯は本来広陵の劉氏の出だが外祖父陳氏の養子となり改姓した。陳騫は沈着で知略に富んだ。父陳矯が尚書令であった頃、侍中劉曄が魏明帝に寵愛され「陳矯は専権している」と讒言した際、陳矯が憂慮すると陳騫は「主上は明聖であり、たとえ意に沿わなくとも免官に留まるだけでしょう」と諭し、後に帝の疑いは晴れた。若い頃、夏侯玄に侮られても平静を保ち、夏侯玄に一目置かれた。
- 尚書郎から中山・安平太守を歴任し名声を得た。相国司馬・長史・御史中丞、尚書を経て安国亭侯に封じられた。蜀の隴右侵攻を尚書持節行征蜀将軍として撃退。諸葛誕の乱では尚書行安東将軍として従軍、壽春平定後は使持節・都督淮北諸軍事・安東将軍として広陵侯に進爵。都督豫州諸軍事・豫州刺史、都督江南諸軍事、都督荊州諸軍事・征南大将軍を歴任、郯侯に封じられた。武帝受禅後は佐命の功で車騎将軍・高平郡公、侍中・大将軍、都督揚州諸軍事・仮黄鉞に至り、呉の枳裏城を攻略、塗中の屯戍を破った。兄の子陳惺は関中侯に封じられた。
胡烈・牽弘への進言と晩年
- 咸寧初年、太尉から大司馬に転じた。入朝の際、武帝に「胡烈・牽弘はいずれも勇敢だが謀略に欠け強引すぎる、辺境の統治に向かない、国の恥となろう」と進言した。当時揚州刺史であった牽弘が陳騫の命に従わなかったため、帝は不和と見て牽弘を召還したが、まもなく涼州刺史に転任させた。陳騫はこれを嘆き必ず敗れると予見し、実際に両名は羌戎との和を失い征討を受けて敗死、討伐が続いて漸く鎮まった。帝はこれを悔いた。
- 陳騫は度量があり、瑕疵を包み隠す性格で、任地ごとに実績を残した。賈充・石苞・裴秀らと共に武帝の腹心であったが、その知略は彼らに勝るとされた。要職を歴任し士庶に慕われた。人臣として極位に至り、致仕を望んで咸寧3年(277年)に骸骨を乞うた。袞冕の服を賜り、大司馬府での留任措置(京城居住のまま職を続けられる優遇)を受けたが、たびたび病を理由に辞位を求め、最終的に保傅と同格の礼遇で高平公として自邸に戻ることを許された。
- 帝に対しては傲慢な態度を取る一方、皇太子には殊更に敬意を示し、諂いと見られた。弟の陳稚が息子(陳輿)と争った際、陳騫の子女の不品行を言いふらしたため、陳騫は弟を左遷させ、世の非難を受けた。
- 元康2年(292年)、81歳で薨去。袞衣を加えられ太傅を追贈、諡は武。葬儀には武帝が大司馬門で柩を見送り涙した。子の陳輿が爵位を継いだ。
陳騫の子・輿
- 字は顕初。散騎侍郎・洛陽令を経て黄門侍郎、将校左軍・大司農・侍中を歴任。叔父との不和により河内太守に左遷された。検束は欠いたが実行力があった。子の陳植(字は弘先)が跡を継ぎ散騎常侍に至った。その子陳粹は永嘉中に遇害し、孝武帝は陳騫の玄孫を跡継ぎとした。さらにその弟の子陳浩之が継いだが、宋の受禅により国は廃絶した。