晉書卷三十五 列傳第五 裴秀

裴秀(字は季彦、河東聞喜の人、224–271年)は魏の尚書令裴潜の子。司馬炎(武帝)の世子擁立に功があり、晋建国後は尚書令・司空を歴任した。地理学者としても知られ、地図作成の六原則を示した『禹貢地域図』18篇を著し、中国最古の系統的地図学理論を残した。

年表(3件)

出自と若年期

  • 字は季彦、河東聞喜の人。祖父は裴茂(後漢の尚書令)、父は裴潜(魏の尚書令)。学問を好み8歳で文章を作った。叔父の裴徽は名声高く客が多く、裴秀が10余歳の頃、裴徽を訪ねた客は帰りに必ず裴秀を訪ねたという。生母の身分が低く嫡母宣氏に軽んじられ、客への給仕を命じられ客が皆立ち上がって迎えたという逸話が伝わる(生母は「幼い頃だからだろう」と謙遜し、後に宣氏はこれを知って態度を改めた)。「後進の領袖に裴秀あり」と評された。

魏朝から晋建国まで

  • 渡遼将軍毌丘倹が大将軍曹爽に推薦した文には「生まれながらに卓越し、学問に通じ孝行が郷里に知られる」と称賛された。曹爽の掾となり父の爵位(清陽亭侯)を継ぎ黄門侍郎に進んだが、曹爽誅殺後に旧吏として免官。廷尉正、文帝の安東・衛将軍司馬を経て軍国の政に信任され、散騎常侍に累進。
  • 諸葛誕討伐に際し尚書僕射陳泰・黄門侍郎鍾会と共に行台として謀略に参画。誕平定後、尚書に転じ魯陽鄉侯に封じられ、常道郷公(元帝)即位の擁立に功があり県侯に進爵、尚書僕射に転じた。魏の咸熙初年(264年頃)の官制改革では荀顗が礼儀を、賈充が法律を定める中、裴秀が官制を担当し、五等爵制の議定にも携わった(600戸以上の騎督以上約600人余りが封じられた)。裴秀自身は済川侯(方六十里、食邑1400戸)に封じられた。

武帝擁立への貢献と司空就任

  • 文帝が後継を定めかねていた時期、舞陽侯司馬攸を意中に置いていたことを憂えた武帝(司馬炎)が裴秀に人相を尋ねると、裴秀はその人相を評して「中撫軍(司馬炎)の人望と天与の相はまさに人臣の相ではない」と文帝に進言し、世子の座が定まった。武帝が王位に就くと尚書令・右光禄大夫を拝命、王沈・賈充と共に開府、給事中を加えられた。武帝受禅後は左光禄大夫、鉅鹿郡公(食邑3000戸)に封じられた。
  • 安遠護軍郝詡が「尚書令裴秀と親しい、利益を期待している」と書簡に記したことが発覚し免官の議が起きたが、詔により裴秀に落ち度なしとされた。司隸校尉李憙が別件(騎都尉劉尚による裴秀名義の官田占有問題)を上言した際も、裴秀の功績を理由に不問とされた。
  • 「三司の任は皇極を助け王事を成す者」とする詔により司空に任じられた。

『禹貢地域図』の編纂

  • 儒学に通じ政事にも心を配り、禅譲の際は納言(尚書)の要職を担い、その裁断はすべて礼にかなった。地官(民政)の職にあったことから、『禹貢』(古代の地理書)の山川地名が時代を経て変化し後世の解釈が曖昧になっている問題に取り組み、旧文を精査し疑わしい点は空欄とし、古今の地名の対応を注記した『禹貢地域図』18篇を著して秘府に納めた。
  • その序文には、図籍の伝統(秦の図籍を蕭何が接収した故事)に触れつつ、当時秘書省には漢代の『輿地図』『括地図』しかなく精度に欠けることを指摘し、蜀平定に伴う実地踏査の成果を活かして『禹貢』の九州と当時の16州の郡国県邑・境界・古の会盟地・水陸の道を網羅した地図18篇を作成したことが記される。
  • 地図作成の6原則(分率=縮尺、准望=方位、道里=距離、高下・方邪・迂直=地形補正)が述べられ、これらを総合して初めて正確な地図が作れると論じる(中国最古の系統的な地図学理論として知られる)。

晩年

  • 朝儀を創制し刑政を広く陳べ、多くが故事として遵用された。司空在位4年、当代の名公と称された。寒食散(薬石)の服用中に熱い酒を飲むべきところ冷たい酒を飲んでしまい、泰始7年(271年)、48歳で薨去。秘器・朝服・銭30万・布100匹を賜り、諡は元。
  • 尚書の36曹の職掌が不明確な問題を改めようとしていたが未奏のまま没した。友人が遺稿から呉討伐を説く上表の草稿を見つけ、これを奏上した(孫皓の暴虐を機に討つべきとの内容)。帝は感慨深く「司空の薨去は痛惜に堪えないが、危篤の中でも王室を思う忠義に胸を打たれる」と応じた。
  • 咸寧初年、石苞らと共に王功として廟庭に配享された。2子(浚・頠)があり、浚が跡を継ぎ散騎常侍に至るが早世。浚の庶子裴憬は病弱のため別に高陽亭侯とされ、浚の末弟裴頠が跡を継いだ。

裴秀の子・頠――出仕と楊駿誅殺

  • 字は逸民。広い見識と学識で早くから知られた。御史中丞周弼は「頠はまるで武庫のようだ、あらゆる才を兼ね備えた傑物」と評した。従母の夫にあたる賈充の推薦(「秀に佐命の功があり、遺児が幼いため才徳ある頠に継がせるべき」)により裴秀の爵位を継ぐよう命じられたが固辞した。太康2年(281年)太子中庶子、散騎常侍に累進。恵帝即位後、国子祭酒・右軍将軍を兼ねた。
  • 兄の子裴憬が無位であったことを憂い、先祖の功績を上奏して高陽亭侯を得させた。楊駿誅殺の際、楊駿の党である左軍将軍劉豫が兵を率いて門にいたところ、裴頠が「太傅は先ほど西掖門で素車に乗り2人を従えて西へ出られた」と偽りの情報で欺き、廷尉へ向かわせて事なきを得た。まもなく劉豫に代わって左軍将軍として万春門を守る詔を受けた。楊駿誅殺の功で武昌侯に封じられるべきところ、裴頠は甥の裴憬への封を願い、帝は次子の裴該に封じた。裴頠は憬が本来の嫡系であることを訴え続けたが果たされなかった。侍中に累進。

裴頠――度量衡改革と太子擁護

  • 天下が一時安定した際、国学を修め碑石に経典を刻む事業や、孔子への釈奠の礼を整えた。荀勗の遺志(律度の整備)を継いで鐘磬を鋳造させ郊廟の礼楽を整備した。
  • 医術にも通じ、荀勖が古尺を検討した際、当時使われている尺が古尺より4分以上短いことを指摘し、度量衡の全面改定、少なくとも太医の権衡(薬の重さの基準)だけは改めるべきと上言した(神農・岐伯の正しい薬量が損なわれ寿命が短くなっている可能性を指摘)が、採用されなかった。楽広との清談で言い負かされずむしろ雄弁を発揮し「言談の林藪(宝庫)」と称された。
  • 賈后が愍懐太子を疎んじていることを憂え、太子の生母謝淑妃の位号昇格や東宮警護の増員(3000人、東宮宿衛を1万人に)を上表し実現させた。昇進のたびに固辞する上表を10余度奏し、古今の成敗を引いて諫めたため、読む者は皆背筋を凍らせたという。

裴頠――賈后廃立の失敗と最期

  • 賈后の乱政を深く憂い、司空張華・侍中賈模と共に廃后と謝淑妃擁立を議したが、張華・賈模は「帝自身に廃黜の意がない、我らが専断すれば認められず、諸王の対立を招き身も国も危うくなる」と反対した。裴頠は「暴君は憚るものがなく乱は目前だ」と危機感を示したが、張華の「せめて禍福を説いて大きな乱を防ごう」との提案に落ち着き、この謀は立ち消えとなった。裴頠は賈后の母広城君に太子への慈愛を説き続けたが、実行に至らなかった。
  • 尚書左僕射に転じた。賈后の親族ながら世評は高く、外戚として登用されたとは見なされなかった。賈模の死後、門下事を専任するよう求められた際も固辞の上表(漢代の外戚専権の弊害を引く内容)を重ねて奏したが認められなかった。陳准の子匡・韓蔚の子嵩が東宮に侍したことに対し、幼く未熟な者を東宮に置くべきでないと諫めた。愍懐太子の廃位に際しては張華と共に強く反対したが果たせなかった(詳細は張華伝にある)。

裴頠――『崇有論』

  • 世俗の放縦と儒教軽視の風潮を憂い、何晏・阮籍らの空虚な清談や、王衍らの高名だが実務を顧みない風潮を批判し、『崇有論』を著した。
  • その要旨は、万物は「有」(実体)に基づいて存在し、外的な資源(外資)に依拠して生きるものであるとし、貴賤・吉凶は現実の関わり方から生じると説く。過度な無為・無欲の教えは制度・礼を軽んじさせ、政治を成り立たなくすると批判する。
  • 「無」を尊ぶ議論の隆盛(老子の「有生於無」を根拠とする風潮)を、一面的な言説に過ぎないと退け、「有」を離れて生を全うすることはできないとする実践的な立場を説く。心は物事ではないが物事を制するのに心が必要であるように、匠は器ではないが器を作るのに匠が必要であるように、「有」を通じてこそ万物は成り立つと論じる。
  • この論に対し王衍らが反論を試みたが誰も論破できなかった。続けて『弁才論』(古今の精義を弁ずる書)を著したが未完のまま禍に遭った。

裴頠――趙王倫との対立と死

  • 趙王倫が賈后に阿ねる様を裴頠は深く嫌い、倫がたびたび官位を求めた際も張華と共にこれを拒み続けたため、深く恨まれた。趙王倫は簒奪を企て、まず朝望のある者を除こうとし、賈后廃位の混乱に乗じて裴頠を誅殺した。享年34。子の裴嵩・裴該も殺されかけたが、梁王肜・東海王越が裴秀の功績(太廟配食)を理由に助命を求め、帯方への流罪で済んだ。恵帝反正後、本官を追復され卿の礼で改葬、諡は成。裴嵩が跡を継ぎ中書黄門侍郎となった。裴該は従伯裴楷の養子となり散騎常侍に至ったが、共に乞活賊陳午に害された。

裴秀の従弟・楷

  • 字は叔則。父は裴徽(魏の冀州刺史)。若くして名を知られ、特に『老子』『易』に精通し、王戎と並び称された。鍾会の推薦で文帝の相国掾、尚書郎に累進。賈充の律令改定に際し定科郎として草案の是非を帝の前で論じ、聴く者を飽きさせぬ弁舌で知られた。武帝が撫軍となった際、参軍事に選ばれた。文帝が鍾会に人材を尋ねた際「裴楷は清く物事に通じ、王戎は簡にして要を得ている、共に適任」と評され、吏部郎に任じられた。

裴楷――「玉人」の評判と武帝の信任

  • 高邁な風格と俊爽な容儀で「玉人」と称され、「裴叔則を見るのは玉山に近づくようで、人を映し出す」と評された。中書郎、侍中を歴任。武帝即位の際、天下の数を占う策(『易』の筮)で不吉な「一」が出て群臣が沈黙する中、裴楷は「天は一を得て清く、地は一を得て寧んじ、王侯は一を得て天下の貞となる」(『老子』の語)と応じて場を和ませ、群臣は万歳を唱えた。以後、散騎侍郎、河内太守、屯騎校尉・右軍将軍、侍中を歴任した。
  • 石崇に交際を拒まれ、長水校尉孫季舒が石崇の宴で無礼を働いた際は「人に狂薬を勧めながら礼儀を求めるのは矛盾している」と石崇を諫めて弾劾を止めさせた。
  • 財に頓着せず、栄達した者を訪ねては珍品を得るとすぐに困窮者に施した。従兄の王衍が別邸を気に入ると譲った。梁王・趙王から年に租銭100万を受けて親族に分配し、批判を受けても「余りを損して足りぬを補うのは天の道」と応じた。
  • 山濤・和嶠と共に高徳の重臣として、武帝から治世の得失を問われた際、「陛下が堯舜に及ばぬ理由は、賈充のような者がまだ朝廷にいるからです」と直言した(任愷・庾純も同様の批判をし、帝は賈充を関中都督として都から遠ざけたが、賈充が娘を太子妃に納れたことで沙汰止みとなった)。呉平定後、太平の政道を論じる場では、三皇五帝の風から漢魏の盛衰までを陳べ、称賛された。

裴楷――政変を生き延びる

  • 子の裴瓚が楊駿の娘を娶っていたが、裴楷はもとより楊駿を軽んじていた。楊駿の執政下で衛尉に転じ、太子少師として無事に過ごした。楊駿誅殺の際、姻戚として廷尉に拘束され処刑されかけたが、侍中傅祗の助力で免れた(ただし免官)。太保衛瓘・太宰司馬亮が裴楷の清廉を称え、臨海侯(食邑2000戸)に封じられた。楚王瑋に代わり北軍中候となったが、瑋が衛瓘・司馬亮を排斥したことへの恨みから裴楷を疎んじたため、裴楷はこれを恐れて拝命を辞し尚書に転じた。
  • 長子裴輿が司馬亮の娘を、娘が衛瓘の子を娶っていた縁から内乱を懸念して外鎮を求め、安南将軍・都督荊州諸軍事に任じられようとした矢先、楚王瑋が偽詔で司馬亮・衛瓘を誅殺した。瑋はかねて裴楷が中候の職を奪ったことや衛瓘・司馬亮との縁を恨み、密かに討伐しようとしたが、裴楷は変事を察知して単身妻の実家王渾邸に逃れ、司馬亮の幼子と共に一夜に8度居を変えて難を逃れた。瑋誅殺後、中書令・侍中として張華・王戎と共に機要を管掌した。

裴楷――晩年と評判

  • 権勢に居ることを望まぬ性格で、王渾は裴楷の一貫した謙退の姿勢(常侍の後は河内太守を、侍中の後は河南尹を、楊駿との不和では衛尉を求めるなど)を評価し、光禄勲への起用を進言したが認められず、光禄大夫・開府儀同三司が加えられるに留まった。病篤くなった際、見舞いに来た王衍を一瞥し「ついに理解し合えなかったな」と述べ、王衍はその気品に深く感嘆した。
  • 人物鑑識に優れ、無名だった楽広を見出して宰府に推挙した。夏侯玄を「粛々として宗廟に入るがごとく、礼楽の器のみが見える」、鍾会を「武庫を見るがごとく矛戟が林立する」、傅嘏を「広々として見渡す限り見える」、山濤を「山に登り下界を臨むがごとく幽然として深遠」と評した逸話が伝わる。
  • 家で黍を蒸した際、米が拳のような塊や血のような色、蕪菁の種のような形に変じたという異変があり、その年に55歳で卒し、諡は元。5子(輿・瓚・憲・礼・遜)があった。

裴楷の子たち

  • 裴輿は字を祖明といい、若くして父の爵位を継ぎ散騎侍郎に至った。諡は簡。
  • 裴瓚は字を国宝といい、中書郎として高邁な風格で敬われ、王綏(王戎の子)に特に重んじられた。楊駿誅殺の際、乱兵に害された。
  • 裴憲は字を景思。若い頃は侠気があったが、成年後は儒学に専念し数年間門を出なかった。謝鯤・庾敳らに「裴憲は剛直で通達しており、父にどこまで似ているか分からないが、世俗に心を煩わされない点はむしろ父を超えるかもしれない」と評された。東宮侍講、黄門吏部郎、侍中を経て東海王越のもとで豫州刺史・北中郎将・仮節、王浚のもとで尚書となった。王浚が石勒に破れた際、他の者が皆謝罪と賄賂に走る中、裴憲と荀綽だけは私邸で泰然としていた。石勒はこれを称賛し「幽州を得た喜びより、この2人を得た喜びの方が大きい」と述べ、両家の質素な暮らし(書籍と少量の塩米のみ)に感心した。裴憲は従事中郎、長楽太守を経て、石勒の即位に伴い朝儀の制定を担当、太中大夫・司徒にまで至った。石虎(季龍)の代にも重んじられたが、子の裴挹・裴㲄が河間の邢魚との私怨で誣告され誅殺された際に連座して免官、後に右光禄大夫・司徒・太傅・安定郡公に復した。実績面での特筆すべき功はないが、名声により重んじられ、石氏のもとで没した。族人の子裴邁が跡を継いだ。
  • 裴楷の長兄裴黎、次兄裴康も知られた。裴康の子裴盾は永嘉中に徐州刺史となったが、長史司馬奧の勧めで厳罰主義をとり民の怨みを買った。東海王越(裴盾の妹婿)の死後、劉元海(劉淵)の軍の侵攻で文武が離散し、裴盾は司馬奧と共に淮陰に逃れたが妻子は賊に捕らわれた。司馬奧は裴盾を欺いて趙固(劉淵配下)に降らせ、趙固は裴盾の娘(自身の妻)に免じず裴盾を殺した。
  • 裴盾の弟裴邵は字を道期といい、元帝が安東将軍だった頃、長史として王導(司馬)と深い交誼を結んだ。太子中庶子、散騎常侍、都督揚州江西淮北諸軍事・東中郎将を歴任し、東海王越に従い軍中で没した。王導は司空拝命の際「裴道期・劉王喬(劉琨)が生きていれば、私一人がこの位に就くことはなかった」と嘆じ、子の王仲豫(裴康と同じ字であったため)の字を敬豫に改めた。
  • 裴楷の弟裴綽は字を季舒、器量広く黄門侍郎・長水校尉に至った。その子裴遐は玄理を語るに優れ、郭象との清談で座を感嘆させた。平東将軍周馥の宴席で酒を勧める司馬に酔って乱暴に扱われても顔色一つ変えず碁を続けた逸話が伝わる。東海王越の主簿となったが、後に越の子司馬毗に害された。
  • 裴氏・王氏の両家は魏晋を通じて栄え、当時「八裴、八王に比す」(裴徽は王祥に、裴楷は王衍に、裴康は王綏に、裴綽は王澄に、裴瓚は王敦に、裴遐は王導に、裴頠は王戎に、裴邈は王玄雲に)と評された。

史論

  • 史臣は、周の「多士」、漢の「得人」の故事を引き、名声の乏しい時代にあって実力によって自ら家を輝かせ国に光を与えた例として陳騫を挙げる。裴秀は僚友の中で抜きん出た存在として領袖と称され、裴楷は明敏な資質で「清通」と評された。共に晋の名臣たるにふさわしい人物であったと総括する。

賛(要旨)

  • 世が人材を求めれば人材もまた世に応えるとし、高平(陳騫)の沈着さ、鉅鹿(裴秀)の学識、裴頠の清廉な規範を継承した姿を詠み、晋の文物制度が整えられたことを讃える。