序論
- 乾坤・陰陽になぞらえて夫婦・后妃制度の意義を説く総論。古来、天子は后・三夫人・九嬪など後宮の位を整え、内政を治めさせてきた。
- 后妃の徳が国家の盛衰を左右した例として、聖王の代の賢后(塗山・葛覃の教え等)と、末世の乱れ(褒姒・妲己等)を対比し、魏の甄后・卞后以来の後宮の乱れを批判する。
- 晋の宣帝(司馬懿)創業以来の后妃の功罪―宣穆張皇后の内助、恵帝賈皇后の禍―を概観し、それゆえに歴代の后妃の事跡を本伝として立てると述べる。
宣穆張皇后――出自と司馬懿との関係
- 諱は春華、河内平皋の人。父は張汪(魏の粟邑令)、母は山氏(司徒山濤の従祖姑)。徳行に優れ、聡明であった。景帝(司馬師)・文帝(司馬昭)・平原王司馬幹・南陽公主を生んだ。
- 司馬懿が魏武帝(曹操)の召命を風痺(中風)と偽って辞退していた際、書物を日干ししていたところ急な雨に遭い、思わず自ら取り込んでしまった。目撃した婢女を口封じのため自ら手にかけ、以後は炊事も自ら行った。司馬懿はこれを重んじた。
- のちに柏夫人が寵愛され、張皇后は疎まれた。病臥中の司馬懿を見舞った際「老いぼれが何をしに来た」と言われ、恥じて食を断ち自殺を図ると、子らも同調して食を断った。司馬懿は驚いて謝罪し、収まった。司馬懿は後に「老いぼれ自体は惜しくないが、良い息子たちを困らせるのが心配なだけだ」と漏らした。
- 魏の正始8年(247年)に59歳で薨去、洛陽の高原陵に葬られ、広平県君を追贈された。咸熙元年(264年)に宣穆妃と追号され、武帝受禅(265年)後に皇后と追尊された。
景懷夏侯皇后――生涯
- 諱は徽、字は媛容。沛国譙の人。父は夏侯尚(魏の征南大将軍)、母は曹氏(魏の徳陽郷主)。
- 見識に優れ、司馬師の行動をあらかじめ計画づける助けをした。魏の宗女である立場から、司馬師が魏の純臣でないことを見抜いたため、司馬師に深く忌まれた。青龍2年(234年)、鴆殺され、24歳で峻平陵に葬られた。男子はなく、5人の娘を生んだ。
- 武帝即位当初は追崇されなかったが、弘訓太后(羊皇后)がたびたび進言し、泰始2年(266年)に諡号を追加された。
景獻羊皇后――生涯
- 諱は徽瑜、泰山南城の人。父は羊茞(上党太守)、母は陳留蔡氏(後漢の左中郎将蔡邕の娘)。
- 聡明で才行があった。景懐夏侯皇后の崩後、司馬師は鎮北将軍濮陽の呉質の娘を娶ったが離縁され、羊氏を改めて娶った。子はなかった。武帝受禅後、弘訓宮に住み弘訓太后と称された。泰始9年(273年)、母蔡氏に済陽県君を追贈し諡を穆とした。咸寧4年(278年)、65歳で崩じ、峻平陵に合葬された。
文明王皇后――出自と婦徳
- 諱は元姫、東海郯の人。父は王粛(魏の中領軍・蘭陵侯)。
- 8歳で『詩経』『論語』を暗誦し喪服の礼に通じ、9歳で母の病に付き添い寝食を忘れて看病した。父母の意向を先読みして家事を任され、祖父王朗にも「我が家を興すのはこの娘だ、男でないのが惜しい」と愛された。12歳で祖父が薨じた際、深く哀しみ、父にいっそう重んじられた。
- 文帝(司馬昭)に嫁ぎ、武帝・遼東悼王司馬定国・斉献王司馬攸・城陽哀王司馬兆・広漢殤王司馬広徳・京兆公主を生んだ。舅姑によく仕え、後宮の秩序を保った。父の喪に際しては痛哭のあまり衰弱した。鍾会が才能を評価され重用された際、「鍾会は利を見て義を忘れ事を起こすことを好む。寵愛が過ぎれば必ず乱を起こす、重用すべきでない」と司馬昭に諫言し、後に鍾会は実際に反乱を起こした。
文明王皇后――皇太后としての治世
- 武帝受禅後、皇太后に尊ばれ、宮を崇化と称した。太常の諸葛緒を衛尉、太僕の劉原を太僕、宗正の曹楷を少府とするなど宮卿の人選を重んじた。
- 尊位にあっても質素を守り、自ら紡績を行い、粗食に甘んじた。九族に篤く睦み、万民に心を配り、言動は常に典礼にかなった。
- 泰始3年(267年)、帝は詔して、実母羊氏(早世)に諡号を贈っていなかったことを詫び、平陽靖君を追諡させた。泰始4年(268年)、52歳で崩じ、崇陽陵に合葬された。武帝は自ら哀策を作らせ、これを埋葬に際して奉じた(哀策の全文は長大な韻文であり、亡き皇太后の徳を偲び哀悼する内容)。
- その後も武帝は外曾祖母王朗夫人楊氏や従母らを鄉君に封じ、追慕の情を示し続けた。太康7年(286年)には継祖母夏侯氏に滎陽鄉君を追贈した。
武元楊皇后――出自から立后まで
- 諱は艶、字は瓊芝。弘農華陰の人。父は楊文宗(外戚伝に見える)、母は天水趙氏(早世)。舅の家で育てられ、聡明で書をよくし、容姿も美しく女工に通じた。占相師に「必ず極めて貴くなる」と評され、文帝が世子(武帝)のために娶わせた。
- 毗陵悼王司馬軌・恵帝・秦献王司馬柬・平陽公主・新豊公主・陽平公主を生んだ。武帝即位後、皇后に立てられた。有司が漢の故事に倣い皇后・太子それぞれに湯沐邑40県を与えるよう奏したが、武帝は古典に合わないとして許さなかった。恩義のあった舅の趙俊を顕官に取り立て、その兄の娘趙粲を夫人として後宮に納れさせた。
武元楊皇后――太子選びと晩年
- 皇太子(恵帝)が皇統を継ぐに堪えないとの懸念を武帝が漏らすと、皇后は「嫡子を立てる原則は長幼によるべきで賢愚によらない」と述べて動かさなかった。当初、賈充の妻郭氏が皇后に賂を贈り娘(賈南風)を太子妃にと求めていた。太子の婚姻を議した際、武帝は衛瓘の娘を望んだが、皇后は賈氏の淑徳を盛んに称え、太子太傅荀顗にも進言させ、武帝は聞き入れた。
- 泰始年間、武帝が後宮を広く選ぶにあたり、皇后は容姿端正な家の娘を避け、色白で背の高い者ばかりを選んだ(嫉妬深い性格による)。卞藩の娘の美貌を武帝が話題にした際も、家柄を理由に退けさせた。李胤・胡奮・諸葛沖・臧権・馮蓀・左思ら名族の子女が三夫人九嬪に選ばれ、多くの家は子女を醜く装わせてこれを避けようとした。
- 皇后は病床で、姪の楊芷(後の武悼楊皇后)を後宮に入れるよう武帝に頼んで泣き、武帝は涙して許した。泰始10年(274年)、37歳で明光殿にて崩御した。武帝は改葬などの遺志を汲み、母趙氏に県君、継母段氏に鄉君の諡を賜った。峻陽陵に葬られた。
武悼楊皇后――立后と楊駿誅殺
- 諱は芷、字は季蘭、小字は男胤。武元楊皇后の従妹。父は楊駿(別伝あり)。咸寧2年(276年)に皇后に立てられ、婉やかで婦徳があり寵愛された。渤海殤王を生んだが早世し、子はなかった。太康9年(288年)、内外の夫人・命婦を率いて西郊で親蚕の礼を行った。
- 太子妃賈氏(賈南風)の嫉妬深さから武帝が廃后を考えた際、皇后は「賈充には社稷への功があり、その娘の一時の嫉妬だけで大徳を覆すべきでない」ととりなした。しかし賈妃はこれを知らず、かえって皇后が自分を陥れたと恨みを深めた。
- 武帝崩御後、皇太后となる。賈后は権勢を握る父楊駿を疎み、楚王司馬瑋・東安王司馬繇に詔と偽らせて楊駿を誅殺させた。宮中が封鎖される中、皇太后は帛に「太傅を救う者には賞す」と書いて城外に射させたが、賈后はこれを謀反への加担と喧伝した。
武悼楊皇后――廃位と死
- 楊駿の死後、荀悝に護送されて永寧宮に移された。母龐氏の命だけは特別に助けられ、皇太后のもとに留め置かれた。賈后の意を受けた群臣は皇太后を「文姜」「呂后」の故事になぞらえて弾劾し、庶人への降格を要求。中書監張華らは武帝の皇后であった経緯を重んじ、離宮に留めることを提案したが、尚書令下邳王司馬晃らの議により皇太后は庶人に貶されて金墉城に幽閉された。
- 楊駿の妻龐氏も刑死とされそうになり、皇太后は自ら断髪して賈后に助命を乞うたが聞き入れられず、龐氏は刑死した。皇太后は侍女も奪われ、絶食して34歳で崩じた。在位15年。賈后は妖巫の言を信じ、遺体を覆い伏せて葬り、呪詛の品を施した。
- 永嘉元年(307年)、尊号が回復されたが、廟は別立され武帝と合祀されなかった。成帝の咸康7年(341年)、この扱いの当否をめぐり群臣が議論。衛将軍虞潭は、恵帝がすでに尊号を回復した先例を重んじ、母子の道を全うすべきと論じ、会稽王司馬昱ら多くの臣がこれに従った結果、皇太后は武帝と合祀されることとなった。
左貴嬪――経歴と文才
- 名は芬。兄は左思(別伝あり)。学問を好み文章に優れ、名声は兄に次いだ。武帝に召され、泰始8年(272年)に修儀を拝命。詔により「離思賦」(宮中に召された寂寥と家族への思慕を綴った長編の賦)を作った。
- のちに貴嬪となったが容色に恵まれず病弱であったため、才徳によって重んじられた。武帝は文義を語り合うことを喜び、しばしば見舞った。
- 武元楊皇后の崩御に際して誄(哀悼の文)を、咸寧2年(276年)の武悼楊皇后の立后に際しては頌(祝賀の文)を、それぞれ勅命により作った。娘の万年公主が薨じた際にも誄を作り、武帝はその文才を重んじ、屡々恩賜を得た。兄左思との贈答詩や雑賦・頌が数十篇、世に伝わった。
胡貴嬪――経歴
- 名は芳。父は胡奮(別伝あり)。泰始9年(273年)、武帝が良家の子女を広く選んだ際、選に漏れることを恐れて泣いた気概が武帝に評価され、貴嬪に拝された。率直な受け答えで武帝に重んじられた。
- 呉平定後、孫皓の宮人数千人も加わり後宮は約1万人に膨れ上がった。武帝は羊車に乗り気の向くまま巡幸したため、宮人らは竹葉や塩水で車を誘導した逸話が伝わる。胡芳は最も寵愛され、待遇は皇后に次いだ。武帝と樗蒲(賭博)で争った際に指を傷つけられた武帝が「これぞ将種(武人の血筋)だ」と怒ると、胡芳は「北は公孫氏を伐ち、西は諸葛氏に抗した父の血筋、まさに将種ではないか」と切り返し、武帝を赤面させた。武安公主を生んだ。
諸葛夫人――経歴と一族
- 名は婉。琅邪陽都の人。父は諸葛沖(字は茂長、廷尉卿)。泰始9年(273年)に入宮し、夫人を拝した。
- 兄の諸葛銓(字は徳林、散騎常侍)、弟の諸葛玫(字は仁林、侍中・御史中丞)がいた。玫の妻の弟周穆は、清河王司馬覃の舅にあたる。永嘉初年(307年頃)、周穆と諸葛玫は東海王司馬越に懐帝廃立と司馬覃擁立を勧めたが、越は許さなかった。重ねて求めた結果、越は怒って両名を斬った。刑に臨み、玫が「私は貴殿に何を言ったか」と穆に問うと、穆は「今さら何を言おうか」と答え、後に人々は謀が穆から出たものであり玫の本意ではなかったと知った。
惠賈皇后――立太子妃まで
- 諱は南風、平陽の人、小字は時。父は賈充(別伝あり)。当初武帝は皇太子(恵帝)妃に衛瓘の娘を望んでいたが、武元楊皇后が賈氏・郭氏の縁を重んじて反対し、賈氏との縁組を望んだ。武帝は「衛家は賢く多産、美しく色白で背が高い。賈家は嫉妬深く子が少なく、醜く色黒で背が低い」と評したが、皇后は強く求め、荀顗・荀勖も賈氏の娘の賢さを称えたため、婚約が決まった。
- 当初は妹の賈午が候補だったが幼く小柄すぎたため、姉の賈南風(15歳、太子より2歳年長)を娶ることとなった。泰始8年(272年)2月、太子妃に冊立された。嫉妬深く権謀術数に長け、太子は畏れて惑わされ、他の側室に会うことは稀であった。
惠賈皇后――太子妃時代の逸話
- 武帝は太子の知能を疑い、東宮の官属を集めて宴を催し、密かに難問を課して太子に答えさせようとした。賈妃は外部の者に答案を作らせようとしたが、給使張泓の勧めで、学識をひけらかさず率直な内容で答えさせた。武帝はこれを見て喜び、衛瓘は自らの以前の讒言を恥じ、殿上では万歳が唱えられた。賈充は密かに妃に「衛瓘という老いぼれがお前の家を潰しかけた」と伝えた。
- 賈妃は酷薄な性格で、自ら人を殺めたことも数度あった。妊娠中の侍妾に戟を投げつけ胎児を死産させたこともあった。武帝は激怒し金墉城を修築して廃后を図ったが、充華趙粲や楊珧の取りなし、荀勖の必死の弁護により免れた。
- 恵帝即位後、皇后に立てられ、河東・臨海・始平公主と哀献皇女を生んだ。
惠賈皇后――専横と楊駿誅殺
- 賈后の暴虐は日に増した。従兄の侍中賈模、従舅の右衛郭彰が才望により重用され、楚王司馬瑋・東安公司馬繇と共に朝政を分掌した。賈后の母広城君の養孫賈謐も国事に干与し、権勢は人主に匹敵した。司馬繇が密かに賈后廃立を図っていることを知った賈氏は彼を恐れた。太宰司馬亮・衛瓘らが司馬繇の左遷を上奏すると、賈后は司馬瑋の恨みを利用し、恵帝に偽の密詔を出させて衛瓘・司馬亮を誅殺させた。
- 賈模は賈后の凶暴を恐れ、裴頠・王衍と廃后を謀ったが、王衍が翻意して立ち消えとなった。
惠賈皇后――淫乱と皇太子廃立
- 賈后は太医令程據らと密通するなど淫乱を極めた。洛陽南部で盗みの疑いをかけられた美貌の小役人が実は賈后に招かれ寵愛されていた逸話が伝わる(招かれた他の男は多く死んだが、この者だけは寵愛によって生還したという)。河東公主の病の際には師巫の言を利用し、大赦の詔を偽って出させた。
- 賈后は妊娠を装って妹婿韓寿の子慰祖を養子とし、密かに皇太子廃立と慰祖擁立を企てた。当時洛陽では「南風烈烈吹黄沙…(南風が激しく黄沙を吹き上げ、まもなく汝の家を滅ぼす)」という童謡が流行した。賈后の母広城君は皇太子(愍懐太子)に慈愛を注ぐよう再三賈后を諭し、臨終に際しても「趙粲と賈午がお前を乱すだろう、彼らを遠ざけよ」と遺言したが、賈后はこれに従わず、趙粲・賈午と共謀して太子を陥れる策謀を進めた。楊駿・司馬亮・衛瓘・司馬瑋らの誅殺はいずれもこの専断の延長で、宦官董猛が深く関与した。
- ついに皇太子は廃黜され、趙王司馬倫・孫秀らはこれに乗じて賈后廃立を謀った。計画が漏れることを恐れた賈后は先手を打って皇太子を殺害したが、司馬倫は兵を率いて宮中に入り、翊軍校尉司馬冏(斉王)に皇后廃位を実行させた。賈后は「陛下には妻があるのに、人に廃させるとは自ら廃するも同然」と恵帝に呼びかけ、司馬冏に「誰が事を起こしたのか」と問うと「梁王・趙王(司馬肜・司馬倫)」と返され、「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきを尻尾を繋いだから、こうなるのも当然」と述べた。賈謐の死体を見て慟哭した。司馬倫は偽の詔により金屑を混ぜた酒を賜り賈后を死なせた。在位11年。趙粲・賈午・韓寿・董猛らも皆誅殺された。
- 附記として、恵帝の娘臨海公主(元は清河公主)は洛陽の乱で拉致され呉興の銭温に売られ、虐待を受けたが、元帝が建鄴に鎮した際に自ら訴え出て、元帝は銭温父娘を誅し、臨海公主と改封して宗正曹統に嫁がせた。
惠羊皇后――度重なる廃立
- 諱は献容、泰山南城の人。祖父は羊瑾、父は羊玄之(共に外戚伝に見える)。賈后廃后後、孫秀の主導で皇后に立てられた(外祖父孫旂が孫秀と同族であり、諸子も孫秀に取り入っていたため)。太安元年(302年)立后。入宮の際、着衣に火がついたという不吉な兆しがあった。
- 成都王司馬穎が長沙王司馬乂を討った際、羊玄之討伐を名目とした。司馬乂が敗れると司馬穎は皇后廃位を奏し庶人として金墉城に幽閉した。陳眕らが司馬穎討伐を唱え大赦とともに皇后位が復された。張方が洛陽に入るとまた廃され、長安遷都に伴い留台で復位、永興初年(304年)にまた張方に廃された。
- 河間王司馬顒は偽詔を発し、皇后がたびたび姦人に擁立されたことを理由に死を賜おうとしたが、司隷校尉劉暾・尚書僕射荀藩・河南尹周馥が連名で上奏し、無実の者を殺せば人心が動揺すると諫めた。司馬顒は激怒して劉暾を追及させたが、劉暾は青州へ逃れ、皇后は難を免れた。恵帝が洛陽に戻ると復位したが、洛陽令何喬にまた廃され、張方の首が届いた日にまた復位するなど、廃立が幾度も繰り返された。
惠羊皇后――洛陽陥落後
- 恵帝崩御に際し、皇后は太弟(懐帝)が即位すれば嫂叔の関係となり太后と称せないことを懸念し、前太子清河王司馬覃の擁立を図ったが果たせなかった。懐帝即位後、恵帝皇后として弘訓宮に住んだ。
- 洛陽陥落後、劉曜の捕虜となった。劉曜が皇帝を僭称すると皇后に立てられた。劉曜が「私と司馬家の者とどちらが優れているか」と問うと、皇后は「比べるまでもない。陛下は基業を開いた聖主、あちらは亡国の暗君で、妻子ひとりも守れず凡庶の手に辱められた。私自身、あの時は生きる望みも持たなかったが、今日という日があろうとは。高貴な家に生まれ育ち、世の男はみなこのようなものと思っていたが、陛下にお仕えして初めて天下に真の男子がいることを知った」と答えた。劉曜は深く寵愛し、皇后は劉曜の二子を生んで没した。偽諡は献文皇后。
謝夫人――愍懐太子の生母
- 名は玖。貧しい家の出で、父は羊を屠る仕事をしていた。清く美しく貞正な資質があり、才人として後宮に選ばれた。
- 恵帝が東宮にいた頃、太子妃を迎える前、武帝は太子がまだ閨房の事を知らないことを憂い、謝玖を東宮に侍寝させ、これにより身ごもった。賈后の嫉妬を避けて西宮に戻り、愍懐太子を生んだが、恵帝は3、4年間その存在を知らなかった。入朝の際、他の皇子と遊ぶ愍懐太子の手を取った恵帝に、武帝が「これはお前の子だ」と告げた。
- 愍懐太子が立てられると謝玖は淑媛を拝したが、賈后は太子と謝玖の対面を許さず、別室に置いた。愍懐太子が酷い最期を迎えた際、謝玖も害された。永康初年(300年)、太子の改葬に際し、謝玖にも夫人の印綬が贈られ、顕平陵に葬られた。
懐王皇太后――略伝
- 諱は媛姬、出自不詳。武帝の後宮に入り中才人を拝命したが早世した。懐帝即位後、皇太后と追尊された。
元夏侯太妃――略伝
- 名は光姬、沛国譙の人。祖父は夏侯威(兗州刺史)、父は夏侯荘(字は仲容、淮南太守・清明亭侯)。
- 名門の出で幼くして聡明であった。琅邪武王司馬覲(世子)に嫁ぎ、元帝を生んだ。恭王(司馬覲)薨去後、元帝が跡を継ぐと王太妃と称された。永嘉元年(307年)、江左で薨じ、琅邪国に葬られた。かつて「銅馬、海に入りて建鄴に期す」という讖言があり、太妃の小字は銅環であったことから、元帝が江左で中興を果たしたことと結び付けられた。