晉書卷三十 刑法志

総論

  • 「礼をもって斉えれば恥を知り格る」というが、刑罰で犯行を防げないのは礼で越権を防げないのに及ばず、時代が下るほど乱れは増す。天地開闢以来、喜怒や善悪は自然の理として現れる。刑罰は民を災いから守り和を導くための手段で、琴瑟の調律や馬の手綱に例えられ、堯舜の心を体現するものとされる。軒轅氏(黄帝)の轡野の師、高辛氏の触山の務めのように、兵刑を用いるのはやむを得ぬ場合に限られるべきで、孔子も「訟えを聴くのは私も人並みだが、訟えの無い世を目指すべき」と説いた。
  • 周代は刑罰を控えて生成の道を祖述し堯禹の憲章に則ったが、夏の桀・商の紂・衛鞅・韓非のような苛政もあった。秦の始皇帝は参夷(三族皆殺し)の刑や抽協(連座)を加え、牢獄は市のように混雑した。漢は三章の法・文帝の刑措(刑罰を措いて用いぬ)政策で一時は太平に近づいたが、その後は刑罰が情実に左右されるようになった。魏明帝の代、宮室造営の遅れに帝自ら激怒し即座に処刑する例があり、王粛は「死罪相当の者でも吏に委ねて罪状を公にすべきで、性急な処刑は宮掖を汚し人心を疑わせる」と諫めた。
  • 世祖武帝は三統の微を承け千年の範を酌んで有司に大明の刑憲を命じ、天下に新法を頒布して人心は安んじた。条綱は簡易で恵み深く、道あって敗れず徳に恃んで久しく立った。晉が江南に遷って102年、前規を継承し蛮陬まで教化が及んだが、孝武帝の代には会稽王道子が朝権を弄び党を樹て官と獄を私物化し、綱紀は大いに乱れた。
  • 三皇は言葉のみで民は違えず、五帝は象(絵)を示すのみで民は禁を知ったという。舜が皋陶に命じた「五刑有服、五服三就、五流有宅、五宅三居」の制、夏后氏の五刑の属三千、殷周の損益、周の三典・五聴・三刺・三宥・三赦の法(一刺は群臣を訊す、再刺は群吏、三刺は万民/一宥は不識、再宥は過失、三宥は遺忘/一赦は幼弱、再赦は老旄、三赦は蠢愚)、『司馬法』の甲兵を興す条件などが古の制度として述べられる。

漢代の律令の変遷

  • 王莽篡位後、旧章は失われた。光武帝は庶獄に心を留め自ら聴訟したが、離乱後で法網は弛み罪も軽く懲肅の効なかった。梁統は上疏し、元帝初元5年に34件、哀帝建平年間に81件(うち42件は殺人減刑の常法化)と刑が軽減され続けたことで「人は法を軽んじ吏は殺人を安易に行う」弊害を指摘し、高帝・文帝・武帝・宣帝・元帝の各代の法運用を振り返り、成帝・哀帝期の丞相王嘉らによる百余事の改変が政治や人心にそぐわないと論じ、初元・建平の変更を再検討するよう求めたが、三公・廷尉の議で「隆刑峻法は明王の急務にあらず」として容れられなかった。明帝は自ら聴訟し洛陽の諸獄を録したが、明察がゆえに苛碎に流れたとされる。
  • 章帝の代、尚書陳寵は「賞は僭さず刑は濫さず、やむを得ねば僭むより濫さぬ方がよい」と述べ、唐堯の「流宥五刑」、舜の「五宅三居」、文王・周公の慎刑の故事を引き、当時の獄吏の榜格酷烈や詐欺放濫の弊を指摘し寛厚を求めた。帝はこれを容れ、酷痛の旧制を禁じ祅悪の禁を解き文致の請を除き、50余事を定めて令とし獄法は和平になった。永元6年、陳寵は廷尉として律令を校訂し、当時の律令が『甫刑』(大辟200・五刑の属3000)を大きく上回る死刑610・耐罪1698・贖罪2681(甫刑比1989件超過)に達していたことを指摘し、大辟200・耐贖罪2800の計3000に整理し礼に合わせるよう建議したが、寵の失脚で実現しなかった。子の陳忠が後を継ぎ33条の『決事比』を上奏し蚕室刑の除去などを実現させたが、旧律の繁蕪は根本的には整理されなかった。
  • 献帝建安元年、応劭は律令を刪定し『漢議』を著し上表した。董仲舒の『春秋折獄』232事の故事を引き、董卓の乱による典憲焼失を嘆き、『律本章句』『尚書旧事』『廷尉板令』『決事比例』『司徒都目』『五曹詔書』『春秋折獄』計250篇を撰し重複を除いて整理、さらに『議駁』30篇82事を集めたと述べた。当時、崔実・鄭玄・陳紀ら名儒が肉刑の復活を主張したが、朝廷では議されず実現しなかった。

魏の律令

  • 魏武帝(曹操)が漢室を輔けた頃、尚書令荀彧は肉刑の復活を諮ったが、少府孔融は「古は敦厚で吏も清く罪は自ら招くもの、末世は風俗が乱れ古の刑罰を用いれば紂の朝渉の脛を斬った例のように天下に千八百の紂が生まれる。刑を受けた者は生を諦め善に戻れない。鬻拳・卞和・孫臏・史遷ら忠信の士も刑を受ければ用いられなくなる」と反対し、実現しなかった。
  • 魏国建国後、陳羣(父の陳紀の説を継ぐ)と鐘繇は肉刑復活に賛成したが奉常王脩は反対、曹操も籓国が漢の制度を改めるのは困難とし見送った。代わりに甲子科を定め、釱(足枷)の左右趾の刑を鉄不足のため木製の械に代えた。漢律を重すぎるとして半減する規定も設けた。
  • 文帝が禅譲を受けた後も肉刑を議したが軍事で沙汰止みとなった。大女劉硃が子婦を虐待した事件で減死・輸作の判決が出て、以後怨毒殺人減死の令が下った。明帝は士庶の罰金の令を改め、男は罰金、婦人は笞刑(体の露出を避けるため)とした。
  • 当時用いられていた秦漢以来の律は魏の文侯の師李悝の『法経』に始まる(盗賊・網捕2篇・雑律・具律の6篇)。商鞅がこれを秦に伝え、漢の蕭何が参夷連坐の罪を除き部主見知の条を増やし興・厩・戸の3篇を加えて9篇とした。叔孫通・張湯(越宮律27篇)・趙禹(朝律6篇)が加えて計60篇、さらに決事の集成『令甲』以下300余篇、鮑公撰『法比都目』906巻など、条項は膨大で(断罪に用いる条は26272条・7,732,200余言)諸家の章句解釈も乱立し混乱していた。天子は鄭氏の章句のみを用いるよう詔した。
  • 衛覬は「刑法は国家の重んずるものだが世は軽んじ、獄吏は百姓の命を預かるが選用は軽視されている」として律博士を置き教授させることを提言し、実現した。しかし律文は煩雑で、廷尉獄吏范洪・劉象の量刑の不公平事件などが起きた。太傅鐘繇が再度肉刑復活を求めたが司徒王朗が反対し、議者百余人中多数が朗に同調、呉蜀未平定を理由に見送られた。
  • その後、司空陳羣・散騎常侍劉邵・給事黄門侍郎韓遜・議郎庾嶷・中郎黄休・荀詵らが漢律を刪約し『新律』18篇・『州郡令』45篇・『尚書官令』『軍中令』計180余篇を制定した。旧律は6篇では条文が少なく罪が漏れるとして篇を増やし、罪条例を『刑名』として律首に置き、『劫略律』『詐律』『毀亡律』『告劾律』『系訊律』『断獄律』『請賕律』『興擅律』『留律』などを新設し、旧来の『廐律』は郵駅令に転用するなど、条文を体系的に整理した(増設13篇+旧5篇=計18篇)。
  • 漢の旧律で魏に行われないものは除き、古義に依って五刑(死刑3種・髡刑4種・完刑と作刑各3種・贖刑11種・罰金6種・雑抵罪7種の計37名)を律首に定めた。大逆無道は要斬で家属連座(祖父母・孫は除く)とし、謀反大逆は臨時に汚瀦・梟菹・三族皆殺しとした。賊闘殺人で逃亡した者は子弟の追殺を許し、赦免後・過誤の殺人は復讐を禁じ、継母殺害を実母同様に扱い、父子の別財を廃し、兄姉への暴行の刑を五歳刑まで引き上げ、誣告者への連座、投書棄市の軽減、篡囚棄市の適正化、二歳刑以上の乞鞫制度の廃止、郡の伏日選定の統一など、多くの改革を行った。その後、正始年間に夏侯玄・李勝・曹羲・丁謐がまた肉刑を議したが結論に至らなかった。

景帝(司馬師)輔政期

  • 毌丘倹の誅殺に際し、魏法では大逆の罪は既に嫁いだ娘にも及んだ。倹の子甸の妻荀氏は連座で死罪となるはずだったが、族兄荀顗が景帝の姻戚であったため上表し、詔で離婚が認められ助命された。しかし荀氏の産んだ娘(潁川太守劉子元の妻)芝は懐妊のまま連座で死罪となるところ、荀氏が司隷校尉何曾に自ら官婢となって娘の命を贖いたいと訴えた。何曾は哀れみ、主簿程咸に上議させた。程咸は「既に嫁いだ女は三従の義で他家に属し、父母の罪で既に嫁いだ娘まで処罰し、さらに夫方の罪でも連座させれば一人の身が内外二重に処罰される矛盾がある」と論じ、在室の女は父母の誅に、既婚の女は夫家の罰に従うべきと改正を求めた。詔でこの改正が定められた。

文帝(司馬昭)期の新律

  • 文帝は晋王として、前代律令の注釈の煩雑さを憂い、陳羣・劉邵の改革も網目は密なままで、諸儒の章句も鄭氏偏重で採用しにくいとし、賈充に法律の制定を命じた。太傅鄭沖・司徒荀顗・中書監荀勖・中軍将軍羊祜・中護軍王業・廷尉杜友・河南尹杜預・散騎侍郎裴楷・潁川太守周雄・斉相郭頎・騎都尉成公綏・尚書郎柳軌・吏部令史栄邵ら14人が編纂に加わった。漢の九章に11篇を加え、『刑名』『法例』『告劾』『系訊』『断獄』『請賕』『詐偽』『水火』『毀亡』『衛宮』『違制』『諸侯律』(『周官』に基づく)の計20篇・620条・27,657字にまとめた。苛穢を除き清約を存し、軍事・田農・酤酒など時勢に応じるべき事項は律に入れず令として別立てとした(違令は罪となれば律に照らす)。梟斬・族誅・連座の条を減じ、謀反者の養母・嫁いだ娘の連座、父母棄市を廃し、相互告発の禁を緩め、逃亡者を官奴婢とする制度を廃した。軽微な過誤や老幼・婦人への罰金は半減とし、伯叔母との姦通は棄市、寡婦への淫行は三歳刑とするなど礼教を重んじる規定を厳格化した(婚姻は聘礼を正とし私約は認めない、五服の等に准じて罪を定める)。全体で律令2926条・126,300字・60巻、故事30巻にまとめられた。

武帝期――新律の頒布と張裴の注

  • 泰始3年、編纂完了が上表され、武帝は「蕭何が律令を定めて封を受け、叔孫通が儀礼を制定して奉常となった故事」に倣い編纂者に厚く恩賞を与えた(帛万余匹)。武帝自ら講義を聴き裴楷に読ませた。4年正月、大赦とともに新律が頒布された。
  • 明法掾張裴が律に注を付し上表した。その要旨は、律が『刑名』に始まり『諸侯』に終わるのは政の始終を示し、王政・諸侯・礼楽の三才の義が一体となる構成であるとする。『刑名』は罪法の軽重を整理し全篇を貫く綱領であり、故・失・謾・詐・不敬・鬥・戯・賊・過失・不道・悪逆・戕・造意・謀・率・強・略・群・盗・贓の20の律義の基本用語を定義した。律の適用にあたっては状況の類似による混同(過失と賊、戯と鬥など)を慎重に見極めるべきとし、五刑・五罰・五過の階梯、量刑の上限(生罪14等・死刑3等・徒加6等・累作11歳・累笞1200等)を定めた。加えて、威勢による財産奪取(強盗・恐猲・呵人・受賕・持質等)の区別、罪状の見極め方(表情や仕草からの心証の取り方)についても詳述し、律の名例(明文にない原則)の運用例を挙げた上で、刑罰は「操刀執繩」のように慎重を要し、梟首・斬刑・棄市・髡作・贖罰の五刑は『周易』の変通の理に則るものだと結んだ。
  • 侍中盧珽・中書侍郎張華は死罪条目を亭伝に掲示し民に周知することを上表し、詔可された。
  • 廷尉となった劉頌は繰り返し肉刑の復活を上表した。「死刑は重すぎて非業の死者が多く、生刑(懲役)は軽すぎて罪を禁じ得ない。徒刑者は元来の悪人が多く、遠方での労役に窮して善人も盗賊に走る。富者は財を出して免れ貧者は奸盗を働く。重犯逃亡者は寸を過ぎるごとに髡刑を重ね徒刑を延ばす悪循環で、実質的な終身刑となり、赦免を繰り返せば法は罪を制せず却って奸悪を増長させる」と論じ、肉刑こそ「奸を為す手段(足・手・生殖器)を除去し、犯行の根を絶つ」効果があり、家族と共に暮らしながら償える点で徒刑より優れると主張した。死刑の限度が軽い罪や常習の逃亡・淫盗の罪を肉刑に代え、三歳刑以下は杖罰で処理し限度を定め、四五歳刑相当は髡笞(笞100を上限に段階を設ける)とすることを提案したが、上疏は再度容れられなかった。

惠帝期の混乱――裴頠と劉頌の上疏

  • 恵帝の代、政治は臣下に委ねられ疑獄のたびに私情で判断され、刑法は定まらず訴訟が乱れた。尚書裴頠は上表し、旧来は宮掖・陵廟の水火の変事以外、尚書自らが対応する必要はなかったのに、些細な瓦の破損(元康4年の廟の瓦、5年の蘭台の瓦十五枚の傾き等)で太常荀寓が免官されるなど過剰な処罰が続いていることを指摘した。漢文帝が廟の玉環を盗んだ者を族誅にせず釈之の進言で死刑に留めた故事(「長陵の一抔の土を侵せば何をもって加えるか」)や、晋の陵墓が墳丘を高く盛らない簡素な制度であることを引き、陵の毀損以外は軽い刑罰で足りると論じた。奴が誣告した周龍の焼草事件で一族8人が連座しかけた事例(後に冤罪と判明)、陵上の荊の枝の伐採で司徒・太常が処罰されかけた事例、太祝署の火災で尚書が免官された事例などを挙げ、量刑の基準の乱れを批判した。
  • 三公尚書の劉頌も上疏し、「近世以来、法は多門となり令は不一致である。陛下の政は常に善を尽くそうとするあまり法の直截さが失われ、下は文言を都合よく解釈して主意に迎合し、法は全うされない」と論じた。「人主が詳(細かすぎる)と政は荒れ、期(適正な軽重)を保てば事は理に適う」とし、主者は文に従い、大臣は滞りを解き、人主は権断するという分業を明確にすべきと説いた。法を一度定めたら四時のように信頼して行い金石のように堅く守るべきで、既定の制の中で都合よく「随時の宜」を援用して政典を乱すことを戒めた。
  • 詔がこの議論を諸臣に下すと、侍中・太宰の汝南王亮は劉頌の議を支持し、法と時勢の一致を説きつつも「法は既に定まっており法外の小善を求めるべきではない」として永久の制とするよう提言、門下もこれを承けて郎令史以下の勝手な法解釈の変更を禁じることとした。

元帝期――江左における法運用の混乱

  • 江左に渡った元帝が丞相であった頃、朝廷は草創期で議断は律令に依らず人ごとに異論が立ち高下も定まらなかった。主簿熊遠は上奏し、周の象魏の制・漢の画一の法の故事を引き、軍興以来法度が乱れ処事が律令に依らず属命(私的な指示)で動き人ごとに議論が異なる現状を批判、監司が法にもとづき彈正し、駁議者は必ず律令経伝を根拠とすべきで恣意的な情理判断で旧典を損なってはならないと論じた。帝は権宜による対応を続けまだ従わなかった。
  • 河東の衛展は晋王の大理(法官)として、詔書に「子を拷問して父を死刑にする」「父母を鞭打って子の所在を問う」といった不合理な規定(庚寅詔書の「一家逃亡は家長を斬る」等)があることを指摘し、秦の峻法から漢の寛政への転換に倣い、当代にそぐわない詔書は除くべきだと上書した。元帝は「礼楽が興らねば刑罰は中らず、元康以来の事変で法禁が乱雑になった。朝堂で議論し不要な詔書を除きたい」と応じた。
  • 帝の即位後、廷尉となった衛展は再び上言し、「肉刑は前聖の経る所であり漢文帝がこれを除いて大辟を増やしたが、今は戸口が凋落し百に一つも残らぬ有様で刑法は峻重に過ぎる。句践の養胎の義にも悖る」として肉刑復古を求め、詔で内外に議論させた。
  • 驃騎将軍王導・太常賀循・侍中紀瞻・中書郎庾亮・大将軍諮議参軍梅陶・散騎郎張嶷らは肉刑復活に賛成し、「肉刑は古先三代の聖哲も改めなかった制度であり漢文帝のような常主が容易に変えられるものではない。班固の論のように、死刑と生刑(当時の徒刑)の軽重が釣り合わず、生刑は上に対し寛容すぎ死刑は下に怨まれる。盗・淫・逃亡はいずれも殺害を伴わないのに死刑に処すのは過重であり、肉刑の復活は死者を生かし枯骨に肉を与えるに等しい」と論じた。
  • 尚書令刁協・尚書薛兼らは、肉刑代死には賛成しつつ「群小が旧習に慣れ趣旨を理解しない恐れがあるため、行刑の際に法令の趣旨を明示すべき」とし、士人は旧来通り刑例に含めないことを求めた。
  • 尚書荀顗・郎曹彦・中書郎桓彝らは反対し、「肉刑は平世にふさわしいが今は乱世の弊を救う時ではない。今は死刑でも奸悪が絶えないのに、より軽い肉刑にすれば罪を犯しやすくなり、受刑者はかえって増える。徒に軽刑の名だけで悪を助長する結果になる。今は殺をもって殺を止め、重をもって軽を全うし、しばらく事を止めて聖化が浸透してから徐々に行うべき」と論じた。
  • 議論の末、元帝は衛展の案に傾いたが、大将軍王敦が「百姓は久しい習俗に慣れており、急に肉刑を復活すれば遠近を驚かせる。まして逆賊(劉聡・石勒ら)が未だ滅びぬ折に惨酷な噂を天下に流すべきでない」と諫めたため、実現しなかった。

元帝以後――咸康・元興の議論

  • 咸康年間、庾冰は糾察を好み細事にまで及んだが、後にはかえって寛縦に流れ、律令は名目化した。
  • 安帝元興末、桓玄が輔政となり、左右の足を斬る肉刑を復活させ死刑を軽減する案を議し百官に諮問した。蔡廓は「肉刑は哲王に始まり、古の風淳な時代には刑人が身を戒め改めたが、末世は狡知が増し恥を畏れる心が薄れ、終身の労役でも奸を止められない。まして黥劓の刑が善に立ち返らせられようか。だが酸慘なだけで実効がない。棄市の条は必ずしも赦されぬ罪ではなく、手を下していない従犯まで律で同罪とされる不均衡があり、これは鐘会・陳羣も論じ元帝も心を留めた問題である。今こそ用刑を慎み、大辟を体刑に移して人命を全うし、将来の繁栄につなげるべき」と賛成の議を述べた。
  • 一方、孔琳之は王朗・夏侯玄の説(肉刑不可の立場)に基づき異論を唱え、当時の議論の多くは琳之に同調したため、結局肉刑復活は実行されなかった。