晉書卷二十九 五行下

聽の不聰(聽之不聰、是謂不謀)

  • 『伝』に「聽之不聰、是謂不謀、厥咎急、厥罰恆寒、厥極貧。時則有鼓妖、時則有魚孽、時則有豕禍、時則有耳痾、時則有黑眚黑祥。惟火沴水」とある。上が偏り聴いて下情が塞がれば謀慮が誤り「急」の咎となり、厳しい寒さの罰が下り、極みは貧困となる。君が厳猛で下を閉ざし臣が耳を塞げば妄りな音が鼓妖となり、寒気により魚の孽・豕の禍・耳の病・黒い妖異が現れる。

庶徴恆寒

  • 呉の孫権嘉禾3年9月朔、霜が降り穀を傷めた。誅罰が君主ではなく臣下(校事呂壹)の専断によるものとされ、漢の石顕専政の際の隕霜と同じ応とされた。4年7月には雹と霜が同時に降り、呂壹の讒言による重臣への迫害の応とされた。赤烏4年正月の大雪では鳥獣の大半が死んだ(全琮ら四将軍の淮南出兵での戦死者多数の応)。赤烏11年4月の雹は太子への讒言による廃立に応じたとされる。
  • 武帝泰始6・7年の大雪は歩闡・楊肇の敗戦(死傷多数)の応、泰始9年の隕霜は賈充一党の専権の応とされた。咸寧年間・太康年間にも各地で霜・雹の被害が頻発し、大挙して呉を征する軍事や馬隆の涼州討伐と結びつけられた。恵帝元康年間も賈后の専恣に応じ雹・霜の被害が続いた(元康9年の隕霜は湣懐太子廃黜の応)。以後、永寧・光熙・永嘉・建興と歴代にわたり異常低温の記録が続き、いずれも政治の乱れに結びつけて解釈された。東晉に入っても元帝・明帝・成帝・穆帝・海西公・簡文帝・孝武帝・安帝の各代に大雪・霜・雹の記録が続き、政道の緩急や軍事負担に応じたとされる。

雷震

  • 魏明帝景初中、洛陽の橋や候風木に落雷が相次ぎ、労役の過重と帝の崩御の前兆とされた。呉孫権赤烏8年の落雷、孫亮建興元年の大風雷電(廃位に応)、武帝太康年間の複数の落雷、惠帝永康元年の崇陽陵標への落雷(賈后の専恣、漢桓帝期の憲陵落雷と同じ応)などが記録される。湣帝建興元年、会稽での落雷・赤気・大雪の連続は劉聡・李雄の僭称と西京の孤立の象とされた。元帝以降も度々の落雷記録があり、義熙5年の太廟への落雷は帝が親祭を怠ったことへの戒め、太子池への落雷は安帝に世継ぎがないことの兆しとされた。

鼓妖

  • 恵帝元康9年3月、許昌城で牛のような音が響いた怪異は後の湣懷太子廃殺(薬杵で打たれた音)の予兆とされた。蘇峻の陣中で将軍鼓が独りでに鳴った話は蘇峻自身「郷里で同じことがあれば城が空になる」と語り、後に乱を起こして滅んだ。石季龍末、洛陽の石牛が独りでに鳴り、季龍は耳と尾を打ち落とし脚に釘を打たせたが間もなく死んだ。孝武太元15年の雷のような音、呉興長城の石鼓の轟きも兵乱(孫恩の乱)の前兆とされた。

魚孽

  • 魏齊王嘉平4年、武庫の屋上に魚が現れた怪異は王肅が「介鱗の物が居場所を失った」と評し、後に東関の敗戦に応じたとされる(干宝は高貴郷公の兵禍の応ともする)。武帝太康中の同様の怪異は、惠帝初の楊駿誅殺・太后廃黜、元康末の賈后による太子謗殺という母后の禍が十年の間に再興したことに応じたとされた。

蝗蟲

  • 魏文帝黄初3年、冀州で大蝗害があり、孫権が魏に帰順した後に西陵の役に乗じて背いたことに関連づけられた。武帝泰始10年の蝗害は荀勖・賈充の専政による公正の阻害の応。惠帝永寧元年、懷帝永嘉4年(幽并司冀秦雍で草木牛馬の毛まで食い尽くす大蝗、司馬越・苟晞らの暴政の応)、湣帝建興4・5年、元帝太興元・2年にも大規模な蝗害が続き、いずれも当時の暴政・混乱と結びつけられた。孝武太元15・16年にも蝗害の記録がある(慕容氏の侵攻・辺境の軍役に応じるとされた)。

豕禍

  • 呉の孫皓寶鼎元年、右大司馬丁奉の営に野豕が入った怪異は後の丁奉の失脚と一族の遠流に応じた。懐帝永嘉中、寿春城内で頭が二つの豕が生まれてすぐ死んだ怪異は周馥の専断とその後の敗死を予言したとされる。元帝建武元年、八足の豕の誕生は劉隗の変に、成帝咸和6年の人面の豕の誕生(京房易妖の引用)、孝武太元10・13年の異形の豕の誕生は、後の宰相の乱政(近習の専横)の兆しとされた。

黑眚黑祥

  • 孝懐帝永嘉5年12月、黒気が四方を塞ぎ帝の淪陥・王室崩壊の応とされた。湣帝建興2年正月、黒霧が人に墨のようにまとわりつく怪異が5日続き、4年後に帝は劉曜に降伏した。元帝永昌元年10月、京師の大霧で日月の光が失われ、11月に帝は崩じた。

火沴水

  • 武帝太康5年、任城・魯国の池水が血のように赤く染まった(聴不聴の罰)。穆帝昇平年間、涼州の池・水中に火が現れる怪異が続き、張天錫が張邕を殺す事件に応じた。安帝元興2年、銭唐臨平湖の水が赤く染まった際、桓玄はこれを自らの瑞祥と称させたが間もなく敗れた。

思心の不容(思心之不容、是謂不聖)

  • 『伝』に「思心之不容、是謂不聖、厥咎霿、厥罰恆風、厥極凶短折。時則有脂夜之妖、時則有華孽、時則有牛禍、時則有心腹之痾、時則有黃眚黃祥、時則有金木水火沴土」とある。君主の心が寛容を欠けば思慮が曇り(霿)、常に風が吹く罰となり、極みは若死・夭折となる。脂夜の妖(脂物が夜に妖をなす)、華孽(草木の異常開花)、牛禍、心腹の病、黄色い妖異、金木水火が土を沴す異変が現れる。

庶徴恆風

  • 齊王正始9年11月、数十日続く大風で屋根が飛び木が折れた。嘉平元年正月の大風は曹爽の専権・驕僭に対する天の戒めとされ、旬余り後に爽らは誅滅された。呉の孫権太元元年の大風・洪水は華核の対策奏上通り重い賦役の罰とされ、翌年権は薨じた。孫亮建興元年の大風震電(諸葛恪の遠征と敗北)、孫休永安元年の風霧(孫綝一門の専権、漢の五侯・丁氏傅氏と同占、綝は誅殺)なども記録される。
  • 武帝泰始・咸寧年間から太康年間にかけ各地で暴風の記録が相次ぎ、恵帝元康年間には賈謐の朝服が数百丈も吹き飛ばされる怪異(翌年謐は誅殺)、湣懷太子廃殺前後の大風、張華邸の暴風(華の遭害の前兆)、趙王倫簒奪前後の大風などが続いた。元帝永昌元年の大風は王敦の専権による害悪(刁協・周顗殺害)に応じ、四方八方から吹くような不規則な風とされた。成帝以降も李寿の簒奪、桓玄の乱、苻堅の淝水の敗戦などに絡めて暴風の記録が続く。安帝の代には桓玄の篡位・敗走、盧循の乱などに絡めて頻繁に暴風が記録された。

夜妖

  • 魏の高貴鄉公正元2年、司馬師が毌丘倹を討伐する際の昼の暗転(陰が陽を制す=臣が君を制す象)。元帝景元3年10月の京都の昼の暗転も同様に解釈され、後に晉が天下を得た。懐帝永嘉4年10月の昼の暗転は劉曜の洛川侵攻・帝の平陽での虜囚に応じた。孝武太元13年12月の暗転も帝の崩御と諸侯の違命・桓玄の禍への流れに結びつけられた。

臝蟲之孽(虫の異変)

  • 武帝咸寧元年、郡国での螟(穀物害虫)発生、太康4年の会稽での彭蜞・蟹が鼠に変じる怪異(稲を食害)、太康9年の螟の大発生は帝が讒言を信じ賈充・楊駿を寵任した罰とされた。惠帝元康3年の帯方の螟、永寧元年の梁益涼三州の螟(斉王冏の貪苛の応)なども記録される。

牛禍

  • 武帝太康9年、幽州で死牛の頭が語る怪異は帝の病と後継への不安に応じたとされる(師曠の言を引く)。惠帝太安中、江夏の張騁の牛が「天下亂、乘我何之」と語り、犬も語りかけた怪異は張昌の乱に応じ騁自身も族滅された。元帝建武元年、両頭の牛の誕生は政が私門にあることの象、太興元年の武昌太守王諒家の異形の牛(両頭八足)は王敦の乱の祥、太興4年の郊牛の死は劉隗の専権による王導の疎外に応じたとされる。成帝咸和2年の両頭六足の牛(蘇峻の乱)なども記録される。桓玄が荊州に赴任する際、老人から得た青牛が水に飛び込み消えた怪異は、後の玄の敗死に応じたとされる。

黃眚黃祥

  • 蜀の劉備章武2年、秭帰に黄気が現れた後、陸議に破れた(近黄祥)。魏齊王正始中、中山王周南の家で鼠が期日を告げて死ぬ怪異があり、曹爽の専政の妖とされた。惠帝元康4年の大霧、元帝太興4年・永昌元年の黄霧・黒霧、明帝太寧元年の黄霧(王敦の専権)、穆帝永和7年の黄霧(張重華の失政)、孝武太元8年の黄霧(司馬道子の専政)、安帝元興元年の黄霧(桓玄の謀逆)など、政道の乱れに応じて黄色い妖異が続いた。

地震

  • 呉の孫権黄武4年、江東での連続地震は権が魏の爵命を受けて専制した咎とされる。魏明帝の代、呉の孫権・孫亮の代にも度々地震が記録され、権臣の専横(呂壹の専権など)と結びつけられた。齊王正始年間の南安郡の連年地震は曹爽の専政の応。蜀劉禪炎興元年の地震は宦官黄皓の専権に応じ、この冬に蜀は滅亡した。
  • 武帝泰始・咸寧・太康年間にも各地で地震が頻発し、末年には賈充から楊駿に至る専権の弊が続いたことの応とされた。惠帝元康年間、賈后の専政に応じて連年地震が起き、恵帝太安元・2年は斉王冏・長沙王乂の専政の応とされた。懐帝・湣帝の代も司馬越の専政、劉曜・石勒の侵攻と結びつけて記録される。
  • 元帝太興・成帝咸和・穆帝永和年間も幼主の即位・母后臨朝・権臣専政のたびに連年の地震が記録された。哀帝・海西公・簡文帝・孝武帝の各代も同様で、太元年間は縁河諸将の連年の軍役に、安帝隆安・義熙年間は幼主の擁立と権臣の専横に結びつけられた。

山崩地陷裂

  • 呉の孫権赤烏13年、丹陽・句容などの山崩れと洪水は「君道崩壊し百姓が拠り所を失う」象とされ、2年後に権は薨じ、26年後に呉は滅んだ。魏元帝咸熙2年の太行山崩れは魏の滅亡の徴とされ、その冬に晉が天下を得た。
  • 武帝泰始・太康年間にも山崩れ・地陥の記録が相次ぎ、帝の崩御と惠帝の暗愚、懐帝・湣帝の受難、元帝の中興に結びつけて総括的に解釈された。惠帝元康年間の蜀郡・寿春・上庸などの山崩れ・地裂は賈后の乱朝の応とされた。懐帝永嘉年間の洛陽・鄄城・当陽などの地陥・地裂は司馬越と苟晞の対立、王室の滅亡と結びつけられた。
  • 元帝太興年間、成帝咸和年間、穆帝永和年間にも山崩れの記録が続き、それぞれ王敦の陵傲、郭默の乱、桓温の権勢などに関連づけられた。安帝義熙年間には山陰の地陥や霍山の崩壊で銅鐘が出土する等の記録もある。惠帝元康9年、賈謐の斎屋の柱が地に陥没した怪異は木沴土(謐は翌年誅殺)、光熙元年の范陽国の地燃(火沴土)は礼楽征伐が諸侯から出ていた時代の応とされた。

皇の不極(皇之不極、是謂不建)

  • 『伝』に「皇之不極、是謂不建、厥咎眊、厥罰恆陰、厥極弱。時則有射妖、時則有龍蛇之孽、時則有馬禍、時則有下人伐上之痾、時則有日月亂行、星辰逆行」とある。君主の貌言視聴思の五事がすべて中庸を失えば「眊」の咎となり、常に陰る天候の罰、極みは君主の弱体化となる。射妖(弓矢の怪異)、龍蛇の孽、馬の禍、下位者が上位者を討つ病、日月星辰の逆行が現れるとされる。

恆陰

  • 呉の孫亮太平3年、40日余り曇り続き、まもなく孫綝が兵で宮を囲み亮を会稽王に廃した。孫皓寶鼎元年12月、太史が長雨を「陰謀の兆し」と奏上し皓は驚懼したが、陸凱らの廃立計画は実現しなかった。

射妖

  • 蜀の車騎将軍鄧芝が涪陵で猿を射た際、猿が矢を抜き木の葉で傷口を塞いだのを見て芝は自らの死を予感し、間もなく卒去した。恭帝が琅邪王時代、馬を射て何本の矢で死ぬか試そうとしたところ、周囲から「馬は国姓(司馬)ゆえ不祥」と諫められ中止したが既に十数本の矢を受けており、後に恭帝は宋に禅位した。

龍蛇之孽

  • 魏明帝青龍元年、郟の摩陂の井戸に青龍が現れ改元の由来となったが、瑞祥が非時に現れ井戸に困窮するのは不吉とされた。干宝は「明帝以後、魏代の青龍・黄龍の出現は皆その代の興廃に応じた」とし、劉向説では龍が井戸に困窮するのは諸侯が幽閉される禍の兆しとした。高貴鄉公は自ら『潜龍詩』を著しこの意を込めたという。以後も高貴鄉公・甘露年間・元帝景元年間に度々井戸での龍の出現が記録される。
  • 呉孫皓天冊中、龍が長沙の人家で鶏の雛を食べた怪異は「王者が庶人となる」兆しとされ、後に皓は晉に降った。武帝咸寧2年の白龍、太康5年の武庫井戸の二龍出現では、劉毅が「昔龍漦が夏の朝廷に禍し、龍が鄭門に見えても子産は賀さなかった」と諫め、帝も「徳政未修にして瑞祥を受けるに足りぬ」と賀を受けなかった。孫盛は龍が武庫(幽処)に現れるのは瑞ではなく妖と論じ、後に籓王同士の相害・二胡(劉聡・石勒、共に「龍」の字を持つ)の簒奪に応じたとした。
  • 湣帝建興2年、枹罕の羌の妓女が錦のような色の龍子を産んだ怪異、呂纂末の龍出現(纂は瑞祥と喜んだが後に呂超に殺された)、武帝咸寧中の司徒府の大蛇(数年にわたり子供や家畜を襲った末に討伐)、恵帝元康5年の臨淄の大蛇(漢城陽景王祠に消えた怪異、斉王冏の驕慢に応じる)、明帝太寧初の武昌の大蛇(王敦の乱の前兆)なども記録される。

馬禍

  • 武帝太熙元年、遼東で耳の下に角の生えた馬が現れ、帝の崩御後の兵禍の応とされた。惠帝元康8年、太子釈奠の際に趙王倫の乗る馬が南城門で動かなくなった怪異は倫の後の乱逆を暗示。元康9年、廷尉訊堂で馬が悲鳴をあげて死んだ怪異は湣懷太子の冤死の象とされた。懐帝永嘉6年の神馬の鳴き声、湣帝建興2年の蒲子県での「馬生人」の怪異(帝室の衰微と胡狄の侵攻に応じる)、元帝太興2年の両頭の馬の誕生(政が私門にある象、王敦の乱の応)、成帝咸康8年の赤い馬が宮殿に走り込んだ怪異(帝の崩御と張重華の粛清に応じる)、安帝隆安4年の梁州での馬の角の出現(桓玄の挙兵に応じ玄は悟らず夷滅した)、石季龍晩年の焼け跡のような馬の出現(術者仏図澄が「災いは近い」と評し、翌年季龍は死に国は滅んだ)なども記録される。

人痾(人の異変)

  • 魏文帝黄初、清河の宋士宗の母が鼈に化して水に入った話。明帝太和3年の死者蘇生の複数事例(京房易伝の「至陰為陽、下人為上」の理に基づき宣帝の勃興の象とされる)。孫休永安4年の陳焦の蘇生(漢宣帝と同じ意味、孫皓の即位の祥)。孫皓寶鼎元年、丹陽の宣騫の母が黿(すっぽん)に化した話(呉滅亡の象)。
  • 魏元帝咸熙2年、襄武県に現れた三丈余の巨人が「太平が来る」と告げ、まもなく晉が魏に代わった。武帝泰始5年の元城人の角の生育(趙王倫簒乱の象)。咸寧2年の顔畿の蘇生譚(劉元海・石勒の簒逆に応じる「下為上」の応)。恵帝元康中、安豊の女子周世寧が男性に変化した話(劉元海・石勒の天下覆滅の妖)。斉王冏の匡復時の婦人の奇怪な発言、白頭公の出現とその予言(甲子の兵乱、冏の敗死と符合)、太安元年の宮殿への闖入者(帝の北遷・宮闕空虚の妖)など多数。
  • 恵帝の代、梁国の女性が生き返り夫と再会した話は秘書郎王導の議で「前夫に還すべし」と裁定された。杜錫家の埋葬された婢女が10年後の改葬時に生きていた奇談も記録される。光熙元年、会稽の謝真の生んだ両性具有の子(一日で死去)、恵帝の代の京洛の両性具有者の流行(男寵の風潮の反映)、懐帝永嘉元年の異形の子の誕生、5年の枹罕での龍・女児・鵝を産んだ怪異(京房易伝「人生他物」の兆し、帝の平陽陥落に応じる)なども記録される。
  • 湣帝建興4年、新蔡県で腹が接合した双子の誕生を内史呂会が「四海同心の瑞」と上言したが皆に嘲笑され、実際には四海分崩・帝の淪没となった。元帝太興初の陰部が異常な位置にある女性の記録(京房易妖に基づき王敦の乱の兆しとされる)、太興3年の頭部が異常な胎児の誕生(2年後の石頭の変に応じる)、明帝太寧2年の蘇生譚、成帝咸康5年・康帝建元2年の「天下の母となる」と称する女性の出現とその処刑、孝武帝寧康初の性転換譚、安帝義熙年間の急成長した子供の記録、東陽の莫氏の生き返った娘の話、義熙末の重複生殖器の記録なども列記される。