晉書卷二十八 五行中

言の不從(言之不從、是謂不乂)

  • 『伝』に「言之不從、是謂不乂、厥咎僭、厥罰恆陽、厥極憂。時則有詩妖、時則有介蟲之孽、時則有犬禍、時則有口舌之痾、時則有白眚白祥。惟木沴金」とある。号令が人心に従わず海内を治められなければ僭差の咎となり、刑罰が濫用され陽気が勝れば恒陽(旱魃)の罰となる。君が炕陽で暴虐、臣が刑を畏れて口を閉ざせば怨謗の気が歌謡となる「詩妖」が生じ、蝗などの介虫の孽、犬の妖、口舌の病、白い妖異が現れるとされる。
  • 魏の齊王嘉平初、東郡で「白馬河から妖馬が出て官牧の馬が皆呼応した」との訛言が流れ、白馬に封じられていた楚王彪を兗州刺史令狐愚が擁立を謀るも露見し、王淩・令狐愚は誅され彪は賜死となった。
  • 蜀の劉禪即位に際し、譙周は先主劉備の諱「備」と後主劉禪の諱「禪」を「已に具わり人に授ける」の意と解し不吉とした。実際に蜀は滅亡した。劉禪が父の喪も明けぬうちに改元したことも礼を失した言の不従とされる。
  • 魏明帝太和中、蜀に帰した姜維の母が手紙で帰蜀を促したが、維は「良田百頃、遠志(薬草)はあれど当帰(帰るべき所)なし」と返書し、結局蜀に留まり最後を迎えた。
  • 景初元年、有司は明帝を「烈祖」として太祖・高祖と並ぶ不毀の廟とすることを奏上し帝もこれを許したが、本来は身没後に定めるべき礼であり、これも言の不従の甚だしい例とされた。2年後に帝は崩じた。
  • 呉の孫休の代、烏程で大病から回復した男が遠方まで届く声を発せられるようになり、負債の取り立てに利用された話も言不從の咎とされる。
  • 魏の安世殿で武帝(司馬炎)は群臣を集めても常事を語るのみで経国の遠謀に及ばなかった。何曾は子の遵に「国家に子孫のための謀がなければ我らの代限りで終わる」と語り、後の永熙以後の混乱を予言した。
  • 趙王倫は恵帝を金墉城に廃し「永安宮」と改称したが、帝は復位し倫は誅された。
  • 惠帝永興元年、太子覃を廃して清河王とし成都王穎を皇太弟に立て侍中・大都督・領丞相・九錫・二十郡を与えた(魏王の故事に倣う)。周礼では功勲によらず胤で国を伝えるべきとされ、これは僭差の言不従とされ、帝は流浪し穎も最後を全うせず、懐帝も皇太弟に立てられた末に流弑された。
  • 元帝永昌2年、王敦が姑孰に拠った頃、「行虫病」なる伝染病の訛言が淮泗から京都に広まり、白犬の肝を薬とする風説で白犬の値が暴騰した騒動があった。中興の大将軍が本来腹心の任にありながら朝廷を攻めた「下逆上」の象とされ、後に朝廷は弱をもって強を制し王師が勝利した。
  • 海西公の時代、庾晞は輓歌を好み、後に敗死。太元中、子供の遊び「闘族」の流行が後の王国宝・王孝伯の同族争いに応じたとされる。桓玄が改元した「大亨」を「二月了」と読み替える風説、その後の「建始」(趙王倫と同じ)「永始」(王莽の年号)への改元、司馬道子の安成への流謫、安帝の平固王・琅邪王徳文の石陽公への降格なども言の不従の妖僭とされた。
  • 武帝初、何曾が官の御膳を薄くして私食を取り、子の劭・王愷がさらに奢り、元康中には石崇が誇り極めた。石崇の誅殺とともに天下も程なく淪喪した(僭逾の咎)。

庶徴恆陽(旱魃)

  • 京房『易伝』の各種占辞を引く。魏明帝太和2年5月大旱(宮府の造営拡張の応。この春、宣帝が孟達を擒え張郃が諸葛亮を破り馬謖を斃した「亢陽自大」の応ともされる)。太和5年3月、前年冬から不雨で大雩を行った。齊王正始元年2月、曹爽が宣帝を太傅に転じ実権を握ろうとした頃の旱(「欲徳不用」の応)。高貴郷公甘露3年正月、文帝が諸葛誕を包囲した際の長期の旱(軍出過時の応、城陥落で大雨)。
  • 呉孫亮五鳳2年、大旱で百姓飢える(軍役煩興の罰)。孫皓寶鼎元年、武昌遷都に伴う労役の応で春夏旱。武帝泰始7・8・9・10年と連年旱魃が続き、荀勖の邪説を用い賈充を留めて西鎮させず任愷を疎んじた「上下皆蔽」の応、宮女の大量選抜による「求妃」の応などとされた。太康年間も咸寧2年・太康2~10年・太熙元年と連年旱が続き、荀勖・楊駿・馮紞らの専権による「欲徳不用」の罰と総括された。
  • 惠帝元康7年、秦・雍二州の大旱・疾疫で関中饑饉、米一斛万銭に達し氐羌が反乱、雍州刺史解系が敗れた。永寧元年も四州で旱(三王が趙王倫を討った戦乱の応)。懐帝永嘉3・5年、大旱で河川が渉れるほど渇水(司馬越の専権の応)。
  • 元帝建武元年・太興4年・永昌元年と連年旱が続き、淳于伯の冤死(干宝は「淳于伯を殺した後3年旱が続いた」と指摘)や王敦の陵僭の応とされた。明帝太寧3年も旱。成帝咸和・咸康年間も庾太后の臨朝称制や王導の摂政に絡めて連年の旱が記録された。康帝・穆帝・海西公・簡文帝・孝武帝の各代にも旱魃の記録が続き、桓温の専権や政治の弛緩、軍役の負担に結びつけて解釈された。安帝隆安~義熙年間も孫恩・桓玄の乱や軍役の頻発と共に旱魃が続いた。

詩妖(童謡・歌謡の妖)

  • 魏明帝太和中「其柰汝曹何」の歌謡は曹爽誅殺・曹氏廃絶の前兆。景初初の童謡「阿公阿公駕馬車…」は宣帝の遼東からの急な帰還を予言。斉王嘉平中の「白馬素羈…硃虎騎」の謡は楚王彪(小字硃虎)擁立の企てに応じた。
  • 呉孫亮初の童謡「籲汝恪…常子閣」は反語で「石子堈」を指し、諸葛恪の死体が葦席に包まれ石子堈に投じられたことに符合。同時期「白鼉鳴、龜背平…」の童謡も諸葛恪の敗死・弟融の死に応じた。孫休永安2年、異形の子供が「三公鋤、司馬如」と告げ熒惑星を名乗った故事は魏・蜀・呉の帰趨(干宝評:4年後蜀滅亡、6年後魏廃絶、21年後呉平定)を予言したとされる。
  • 孫皓が石印山で得た丹書の予言「楚九州渚…四世治太平矣」は皓の慢心を招いたが、天紀中の童謡「阿童復阿童…」は王浚の龍驤将軍任命・呉平定を的中させた。
  • 武帝太康3年、江南の童謡「局縮肉…吳當復」等は元帝の江東興起(約四十年後)を予言したとされる。太康末の「折楊柳」の歌は三楊一族の滅亡・楊太后廃黜を暗示。惠帝永熙中の河内温県の狂人の書「光光文長…」は楊駿の戟による死・楊皇后の廃死に応じ、童謡「二月末、三月初…」も楊駿・楚王の専権を指した。
  • 元康中の童謡「南風起…」は賈后(字南風)と賈謐による太子廃殺の陰謀を、「屠蘇鄣日…瞎兒作天子」は趙王倫(実際に眇目)の簒奪を予言。倫簒奪後の洛陽の童謡「獣従北来…」は斉王・成都王・河間王の義兵蜂起の方角に対応した。
  • 太安中「五馬游渡江、一馬化為龍」は元帝ら五王の江東移住と即位を予言。司馬越還洛時の童謡は苟晞と汲桑の抗争、越と晞の不和を予言。湣帝初の「天子何在豆田中」は建興4年の帝の投降先(豆田壁)を的中させた。建興中の江南謡「訇如白坑破…」は洛陽・長安陥落(二都傾覆)と元帝の江南建国、後の王敦の乱(石頭の変・銭鳳の乱・沈充の敗死)を予言したとされる。
  • 明帝太寧初の「惻惻力力…」は明帝崩御・成帝の危難と蘇峻・蘇石の運命を予言。成帝末の「礚礚何隆隆…」は帝の崩御を、咸康2年の河北謡「麥入土、殺石武」も的中した。庾亮の武昌鎮に対する謡歌は彼の薨去と喪の帰還を予言。穆帝の代の「阿子聞」の童歌は太后が帝の崩御を悲しんだ言葉と符合し、「廉歌」も穆帝崩御の前兆とされた。
  • 哀帝隆和初の童謡「昇平不滿斗…」は改元「興寧」後も続く歌で応じた。海西公関連の童謡(「青青御路楊…」「犁牛耕御路…」「鳳皇生一雛…」)はいずれも海西公廃立や不義の子(男寵による子)の運命に応じた。桓石民・王忱の荊州鎮守にまつわる「黄曇子」の歌、孝武帝太元末の京口謡「黃雌雞…」(王恭挙兵と敗死)、司馬道子の造営した「靈秀山」(孫恩の字)と孫恩の乱、庾楷の敗走、殷仲堪の敗亡、王恭の挙兵と京口の疫病、桓玄篡奪前後の童謡、盧循の乱に関する童謡群など、多数の童謡が事件を予言したと記録される。
  • 温嶠が郭璞に自らと庾亮の吉凶を占わせた際「元吉」と出て王敦討滅の成功を予言。苻堅初の童謡「阿堅連牽三十年…」は在位30年・淝水の敗戦・姚萇による死(新城)を、続く謡「魚羊田升当滅秦」は鮮卑による滅亡を予言した。

毛蟲之孽(獣の異変)

  • 武帝太康6年、南陽が四足でなく二足の猛獣を献上、王室動乱の兆しとされ、識者は「金獣が儀を失う」文を作った。太康7年11月丙辰、河間で四角の獣が現れ、後の河間王顒の乱に応じた。懐帝永嘉5年、延陵に蝘鼠が出現、郭璞は「妖人が自ら滅ぶ」と占い、後に呉興の徐馥の乱で符合した。成帝咸和6年、樂賢堂に麏(のろじか)が現れ孫盛は吉祥としたが、秀孝策試の実の乏しさを暗示したとも解された。哀帝隆和元年、東海第に麈(大鹿)が入り海西公廃立後に東海王第となったことに符合。孝武太元13年、廟堂に兎が入り不祥とされた。

犬禍(犬の異変)

  • 公孫文懿家の犬が冠幘絳衣で屋上に上がった話は文懿が燕王を自称し魏に滅ぼされたことに応じた。魏の応璩が白狗の怪異を見た翌年に卒去。呉の諸葛恪が出仕の際犬に衣を銜えられ引き止められたが結局出仕し害された。武帝太康9年、幽州の犬が鼻で地を這う怪異は恵帝擁立の失策に応じた。惠帝元康中の吳郡の地中の犬の子の怪異、永興元年硃逵家の首なし犬の出産(後に逵は誅殺)、孝懐帝永嘉5年の張林家の犬の予言(「天下人餓死」、二胡の乱に応)、湣帝建興元年の犬豕交合(兵革の占、匈奴の象、帝の胡地での死に応)など多くの記録がある。元帝太興中の張懋家・何旭家の地中の犬子の怪異はそれぞれ懋・その里の凶事に応じた。安帝隆安初の呉郡の犬の集団咆哮は孫恩の乱の前兆、孫無終家の地中の犬子の怪異も無終の桓玄による誅殺に応じた。桓玄の楚王拝受の儀式で犬が席を汚した話は玄の妄りな簒奪の象徴とされ、80日後に敗亡した。

白眚白祥(白い妖異)

  • 魏明帝青龍3年正月、隕石が壽光に落ち、劉歆説では諸侯の得失に関わる兆しとされ、後に宣帝が政を得た。武帝太康5・6年、成帝咸和8・9年にも隕石の記録がある。呉孫亮五鳳2年、陽羨で巨石が自立し、庶士が天子の祥とも孫皓・孫休擁立の祥ともされた。武帝太康10年、洛陽宮西で石が人形に成長し、翌年帝が崩じ王室が乱れた。恵帝元康5年の石の出現、永康元年の鳴石、太安元年の湖から岸に上がった石なども記録される。東嬴王司馬騰が真定で玉馬(歯の欠けた)を発見、後に汲桑に殺された。武帝泰始8年、蜀地に白毛が降る怪異は益州刺史皇甫晏の誅殺に応じた。惠帝永寧元年、斉王冏の軍中に白髪の八歳児が現れ卜占をなした。成帝咸康以降、地に毛が生える怪異が頻発し、石季龍の滅亡や氐羌の侵攻、苻堅滅亡後の混乱と結びつけて解釈された。義熙年間にも地生白毛の記録が続く。

木沴金

  • 齊王正始末、河南尹李勝の聴事で材木が落下し符吏の頭を割った事件は李勝自身の失脚に応じた。惠帝元康8年、郊禖壇の石が二つに割れ、翌年湣懷太子の廃死に応じた。孝武帝太元10年、謝安の出鎮に際し金鼓が自ら破れ、月余りで安は病を得て薨じた。

視の不明(視之不明、是謂不哲)

  • 『伝』に「視之不明、是謂不哲、厥咎舒、厥罰恆燠、厥極疾。時則有草妖、時則有蠃蟲之孽、時則有羊禍、時則有目痾、時則有赤眚赤祥。惟水沴火」とある。君主が明察を欠き善悪を判別できず官人が失序すれば「舒」の咎となり、罰は常に暖かい気候(恆燠)となり、その極みは病とされる。誅罰を怠れば草木の妖、温暖により蟄虫が異常発生する蠃虫の孽、羊の禍、目の病、赤い妖異が現れる。

庶徴恆燠

  • 呉の孫亮建興元年9月、桃李が季節外れに花を咲かせた(孫権時代の重税・煩役の緩和策を反映した舒緩の応とも解される)。魏少帝景元3年10月にも桃李の開花。恵帝元康2年、巴西郡で草が季節外れに実をつけ、楚王瑋の矯詔による誅殺に対する帝の不察が恆燠の罰とされた。穆帝永和9年12月、桃李の開花は簡文帝の輔政・政務の弛緩に応じたとされる。

草妖

  • 献帝建安25年正月、魏武帝が洛陽で伐採した木から血が出た異変は帝の崩御の前兆(草妖かつ赤祥)。呉孫亮五鳳元年、交阯で稗が稲に変じた怪異は孫亮の廃位に応じた。蜀の劉禪景耀5年、宮中の大木が自然に折れた際、譙周は柱に「衆而大、其之會、具而授、若何復」の意味深長な句を記し、後に蜀の滅亡と符合した。
  • 孫皓天璽元年、長年荒れていた臨平湖が一夜で開けた話は呉の滅亡と天下統一の前兆。天紀3年、建鄴の鬼目菜・蕒菜の異常繁茂は王浚の呉平定を暗示したとされる(干宝評)。惠帝元康年間、東宮西廂の桑の異常生育と枯死は殷の太戊の故事に准え、太子(湣懐)廃殺の予兆とされた。永康元年の東宮の桑の再発、壮武国の桑が柏に変じた怪異は張華の遭害に応じた。
  • 懐帝永嘉2年、項県の桑の木が泣くような音を立てた話は司馬越の敗死・洛京陥落の前兆。永嘉6年、無錫の茱萸の連理木の出現は郭璞の予言通り徐馥の乱に応じ、豫章の枯樟の再生は懐帝・愍帝の淪陥と元帝中興の応とされた。
  • 明帝太寧元年、会稽剡県の木に人面が生じた怪異は王敦の乱の前兆。成帝咸和年間の枯木再生の怪異は康帝の呉王封から即位への流れに、哀帝興寧3年の廬陵の栗木再生は孝武帝(諱昌明)の即位の前兆に、それぞれ結びつけられた。海西太和元年、涼州の楊樹に松が生えた怪異は張天錫の苻堅への降伏を、孝武太元14年の枯木の自立は張夫人の専寵とその後の非難を暗示したとされる。安帝元興3年の荊江の竹の結実、義熙年間の苦蕒菜の異常成長(識者は「苦を買う」意と解し連年の征討の労苦に応じたとする)、宮城・馳道への蒺藜の繁茂(政道の荒廃の象徴)なども記録される。

羽蟲之孽(鳥の異変)

  • 魏文帝黄初4年、霊芝池に鵜鶘が集まった際、帝は『詩経』曹風の「汙澤」の意に照らし賢者登用の詔を出し楊彪・管寧らが薦挙された。黄初元年、未央宮の燕が鷹を生む怪異は殷紂・宋の隠公と同占とされた。景初元年の燕の巨鷇(形は鷹、口は燕)の出現に対し高堂隆は「鷹揚の臣を宮中で警戒すべき」と説き、後に宣帝が曹爽を誅した。
  • 献帝建安23年から魏文帝・明帝の代にかけ禿鶖鳥の飛来が繰り返し記録され、その都度先帝の崩御と結びつけられた。景初元年の陵霄闕の鵲の巣(白黒混色)に対し高堂隆は「宮室未完成のうちに他姓が支配する兆し」と解き、帝は顔色を改めた。
  • 呉の孫権赤烏12年、烏が鵲を銜えて館に落とした異変は孫権の讒言好殺の罰とされ、翌年太子和の廃・魯王霸の賜死・硃据の左遷・陸議の憂死が続いた。太元2年、前太子和の帆檣に鵲が巣を作った話も和の非業の死を暗示した。孫亮建興2年の五羽の大鳥出現は「鳳凰」と称され改元五鳳の由来となったが、識者は政道の衰えの妖と解した(孫皓の建衡3年の鳳凰出現も同義)。
  • 武帝泰始4年、翟雉が閶闔門に飛来した怪異は殷宗の雉登鼎耳の故事に准えられた。恵帝永康元年、趙王倫が異鳥を得て童子に「服留鳥翳」と語らせた話は倫の服罪(留将服其罪)を予言し、間もなく倫は誅された。趙王倫篡位時の鶉・雉の同時出現も不当な即位を戒める兆しとされた。
  • 懐帝永嘉元年、洛陽で蒼白二色の鵝が地中から出現し、董養は劉元海・石勒の乱を予言したという。明帝太寧3年の蒼黒色の大鳥出現の後、帝は崩じ蘇峻・祖約の乱が起きた。成帝咸和2年の五鴎鳥出現は庾亮が蘇峻を招いた過ちに応じ、咸康8年の白鷺の出現は康帝の短命の兆しとされた。海西公即位の年の野雉の出現は間もなくの廃位に応じた。孝武太元16~19年の東宮周辺の鵲の巣は魏の景初の例に准え、後の安帝擁立・桓玄簒奪と結びつけられた。安帝義熙3年、硃猗の炊事場に烏が群がった怪異は翌年の猗の死に応じた。

羊禍

  • 成帝咸和2年、司徒王導の廐で後足のない羊が生まれ、翌年蘇峻が京都を破り導と帝がともに石頭に幽閉される事件が起きた。

赤眚赤祥

  • 公孫文懿の代、襄平の北市に頭目口喙はあるが手足のない肉塊が生じ、文懿はやがて魏に誅された。呉の戍将鄧喜が人頭の怪異を射った話も後の族誅に応じた。武帝太康5年、魯国の池水が血のように赤く染まり、太康7年には河陰に赤い雪が降り、4年後に帝は崩じ王室は乱れた。
  • 惠帝元康5年、呂県で百余歩にわたり流血が生じ、元康末の混乱・僵屍流血の惨状に応じた(干宝評:8年後の封雲の乱で数万人が死傷)。永康元年、尉氏で血の雨が降り、その月に湣懐太子が幽閉され間もなく斃れた(斉の湣王暗殺の際の血の雨の故事に准える)。
  • 湣帝建興元年12月、河東で地震とともに肉が雨のように降り、4年12月には丞相府で処刑された督運令史淳于伯の血が柱を二丈三尺逆流した怪異が記録され、冤罪と評され三年連続の旱魃の応とされた(郭璞評)。劉聡の偽建元元年、平陽で地震・池の赤変・赤龍出現・隕肉など連続する凶兆が記録され、劉聡が同族の三女を皇后に立てた乱倫の応とされた。