職官総論
- 『書経』は「唐虞は古を稽え百官を建てた」といい、『易経』は「天が象を垂れ聖人がこれに則る」という。黄帝は三公の職を置いて民に親しみ、少昊は九扈の名で農正とし、重・黎に天地を、融・冥に水火を司らせた。伊尹は「三公は陰陽を調え、九卿は寒暑に通じ、大夫は人事を知り、列士はその私を去る」と説いた。成湯は伊尹・仲虺を二相とし、周の武王・成王・康王の代には六卿・二公が分職し治世を弘めた。
- 秦は周の官制を変え漢はその秦制に依ったが、時に応じて用い務めに応じて改めるのが覇王の典であった。四征将軍は漢代、四安将軍は魏初、四鎮将軍は柔遠の必要、四平将軍は喪乱の時に興り、渡遼・淩江・軽車・強弩などの号もしばしば興っては廃された。曹操が丞相となり漢の台司を廃した経緯、孫呉・劉蜀が概ね漢制に依ったことも述べられる。
- 世祖武帝の即位当初、安平王孚を太宰、鄭沖を太傅、王祥を太保、司馬望を太尉、何曾を司徒、荀顗を司空、石苞を大司馬、陳騫を大将軍とし、世に「八公同辰」と称された。文王(司馬昭)が晋台を開いた際に二衛を、後に三部を設けたことなどにも触れ、武帝の代(泰始~太康)と元帝・明帝の代(太興~建元)に人材を得て官が充実したことを称える。
三公・上公
- 丞相・相国はともに秦官で、晋は魏の禅を受けた当初これを置かなかった。恵帝以後は趙王倫・梁王肜・成都王穎・南陽王保・王敦・王導らが任じられたが、いずれも通常の臣下の職とは異なる特殊な例であった。
- 太宰・太傅・太保は周の三公官。魏は初め太傅(鍾繇)のみ置き、末年に太保(鄭沖)を加えた。晋初は景帝(司馬師)の諱を避け『周官』の名から太宰を太師の代わりに置き、太傅・太保とともに上公とした(安平献王孚が太宰となった)。江左でも官名は存続したが任じられる者は少なかった。
- 太尉・司徒・司空は古官で、漢魏を経て晋・江左まで三公として存続した。
- 大司馬は古官で、漢は大将軍・驃騎・車騎の上位に置き太尉の職を代えるものとし、魏では太尉と別に大司馬・大将軍を三司の上に置いた。晋は魏制を受け継ぎ、義陽王望を大司馬とした後の令では三司の上位とされた。
- 大将軍は漢武帝が大司馬を冠して重職としたもので、後漢では常置されず任じる者はしばしば朝権を握った。景帝(司馬師)が大将軍となった後、叔父孚が太尉となった際に大将軍を太尉の下に改めたが、晋受命後は三司の下、後に旧に復し三司の上とされた。太康元年、琅邪王伷が大将軍に遷った際は三司の下に戻され、伷の薨後に旧に復した。
- 開府儀同三司は漢官。殤帝延平元年、鄭騭が車騎将軍儀同三司となったのが「儀同」の始まり。魏の黄権が車騎将軍として開府儀同三司となったのが「開府」の始まり。
位従公・冠服・俸禄
- 驃騎・車騎・衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国等の大将軍、左右光禄・光禄三大夫で開府する者は「位従公」とされた。太宰・太傅・太保・司徒・司空・左右光禄大夫・光禄大夫で開府位従公の者は「文官公」として進賢三梁冠・黒介幘を着け、大司馬・大将軍・太尉・驃騎・車騎・衛将軍等の大将軍で開府位従公の者は「武官公」として武冠・平上黒幘を着けた。文武の公はいずれも金章紫綬・五時服を賜り、相国・丞相のみ袞冕・緑盭綬とし通常の公と区別した。
- 諸公・開府位従公は品秩第一とされ、日俸五斛、太康二年から春秋の絹・綿の支給、元康元年から菜田十頃・田騶十人が加えられた。長史・祭酒・掾属・令史等の属官、武賁二十人、朝車・安車・軺車等の給付も定められた。司徒には左右長史・主簿・西曹掾属が加置され、司空には導橋掾が加置された。加兵する諸公・開府位従公には司馬・従事中郎・主簿・記室督・舎人・兵鎧士曹等が増置された。
- 特進は漢官で、二漢・魏晋では加官として本官の車服を用いた。太僕羊琇は特進を拝し散騎常侍を加え、吏卒車服を特別に給された例がある。特進は品秩第二、開府驃騎の上に位し、進賢両梁冠・黒介幘・五時朝服・水蒼玉を佩び、日俸四斛。太康二年から絹の支給、元康元年から菜田八頃・田騶八人が加えられた。
- 左右光禄大夫(金章紫綬)は品秩第二で特進に准じた待遇。光禄大夫(銀章青綬)は品秩第三、金紫将軍の下・諸卿の上に位し、元来は拝仮賵贈の使や監護喪事にあたる官であったが、魏以降は諸公の致仕後の待遇や朝廷顕職の加官として重んじられた。泰始中、太子詹事楊珧が給事中光禄大夫を加えられた例がある。光禄大夫は諸卿と同秩中二千石、進賢両梁冠・黒介幘・五時朝服・水蒼玉、日俸三斛。太康二年から絹の支給、恵帝元康元年から菜田六頃・田騶六人が加えられた。
- 驃騎以下・諸大将軍で開府せず持節都督でない者は品秩第二で禄は特進と同じ。四征鎮安平の大将軍号を加える持節都督者も品秩第二とされた。都督・持節の等級(都督諸軍事>監諸軍事>督諸軍事、使持節>持節>仮節)とその権限(使持節は二千石以下を殺せる、持節は無官位の者・軍事は使持節に同じ、仮節は軍令違反者のみ)も定められる。都督制の沿革として、後漢建武初の督軍御史、建安中の大将軍督、建安二十一年の夏侯惇の二十六軍督、魏文帝黄初三年の都督諸州軍事、曹真の都督中外諸軍事仮黄鉞、魏明帝太和四年の宣帝(司馬懿)の大都督号、高貴郷公正元二年の文帝(司馬昭)の都督中外諸軍事・大都督などが挙げられ、江左では都督中外は王導ら権重の者のみが任じた。
- 三品将軍(中二千石)は武冠・平上黒幘・五時朝服・水蒼玉を佩び、俸給・田騶は光禄大夫諸卿に準じ、長史・司馬・主簿等の属官を置いた。
尚書省
- 録尚書は漢武帝時、左右曹諸吏が尚書奏事を分かち平した制に始まり、張安世(車騎将軍)・霍光(大将軍)・王鳳(大司馬)・師丹(左将軍)が並んで尚書事を領した。後漢章帝の代、太傅趙憙・太尉牟融が並んで録尚書事となったのが「録」の名の始まり。和帝の代、太尉鄧彪が太傅として録尚書事となり位は三公の上とされ、以後少帝が立つたびに太傅録尚書事を置く慣例となった。魏晋以後も公卿の権重の者がこれに任じた。
- 尚書令は秩千石、銅印墨綬、進賢両梁冠・納言幘・五時朝服・水蒼玉、月俸五十斛。太康二年から絹の支給、元康元年から菜田六頃・田騶六人が加えられた。賈充が尚書令となった際、目疾により省事吏四人を置いたのが省事の始まり。
- 僕射は令と同じ服秩印綬。漢は本来一人置いたが、献帝建安四年、執金吾栄郃が尚書左僕射となったのが左右分置の始まり。魏晋から江左まで置廃常ならず、二人置く時は左右僕射、一人の時は単に尚書僕射と称した。
- 列曹尚書は漢武帝が宦者に尚書の職を主らせたのに始まり(司馬遷が中書の任にあたった)、成帝建始四年に中書宦者を罷め尚書五人(一人僕射、四人が常侍曹・二千石曹・民曹・主客曹を分掌)を置き、のち三公曹を加え五曹となった。後漢光武帝はこれを六曹(吏部・民曹・客曹・二千石曹・中都官曹・三公曹)に改めた。魏では吏部・左民・客曹・五兵・度支の五曹に二僕射一令で八座とし、晋は吏部・三公・客曹・駕部・屯田・度支の六曹(五兵なし)を置いたが、咸寧二年に駕部尚書を省き、四年に一僕射を省いて駕部尚書を再置、太康中には吏部・殿中・五兵・田曹・度支・左民の六曹(駕部・三公・客曹なし)となった。恵帝の代には右民尚書が加わり、江左では吏部・祠部・五兵・左民・度支の五尚書となり、祠部尚書は右僕射が兼ねることが多かった。
- 左右丞は漢武帝建始四年の尚書丞四人設置に始まり、光武帝が二人に減じて左右丞とした。晋の左丞は台内の禁令・宗廟祠祀・朝儀礼制・選用署吏・急仮を、右丞は台内の庫蔵廬舎・器用・廩振・刑獄兵器・文書章表奏事を掌った。
- 尚書郎は西漢では四人(匈奴担当・羌夷担当・戸口墾田担当・財帛委輸担当)であったが、光武帝が六曹に分けて以降三十四人(左右丞と合わせ三十六人)に増え、五日交代で建礼門内に宿直した。魏では殿中・吏部・駕部・金部・虞曹・比部・南主客・祠部・度支・庫部・農部・水部・儀曹・三公・倉部・民曹・二千石・中兵・外兵・都兵・別兵・考功・定課の二十三郎、青龍二年に都官・騎兵を加え二十五郎となった。晋の武帝は農部・定課を廃し三十四曹郎(後に運曹を加え三十五曹)としたが、江左では直事・右民・屯田・車部・別兵・都兵・騎兵・左右士・運曹の十曹郎がなくなり、康穆以後は虞曹・二千石も廃され、最終的に殿中・祠部・吏部・儀曹・三公・比部・金部・倉部・度支・都官・左民・起部・水部・主客・駕部・庫部・中兵・外兵の十八曹郎、さらに主客・起部・水部も省かれ十五曹となった。
門下省・中書省
- 侍中は黄帝の代の風后に始まるとされ、周の常伯に相当、秦が古名を取って置き漢がこれに因んだ。人数は定めなかったが功高い者一人が僕射となった。魏晋以降四人置かれ、大駕出御の際は次直侍中が護駕、正直侍中が璽を負って陪乗した。江左哀帝興寧四年、桓温の奏で二人減じられたが後に旧に復した。
- 給事黄門侍郎は秦官で、侍中とともに門下の諸事を管掌、晋では四人置かれた。
- 散騎常侍は秦官の散騎(乗輿車後に騎従)と中常侍(禁中に入る)が合わさったもので、魏文帝黄初初に散騎を中常侍と合わせて置いた。晋の元康中、恵帝が宦者董猛を中常侍としたが以後は廃止され、常に顕職とされた。
- 給事中は秦官で大夫・博士・議郎に加官された。通直散騎常侍は泰始十年、武帝が散騎常侍と員を通じさせたのに始まり、江左では四人置かれた。員外散騎常侍は魏末に置かれ員数はなかった。散騎侍郎四人は魏初に散騎常侍と同時に置かれ、侍中・黄門侍郎とともに尚書奏事を平したが江左で廃された。通直散騎侍郎四人・員外散騎侍郎も同様の沿革を持つ。
- 奉朝請は本来官ではなく、後漢では三公・外戚・宗室・諸侯の多くが奉朝請とされた。武帝は宗室・外戚を奉車・駙馬・騎の三都尉として奉朝請とし、元帝は晋王時代に参軍を奉車都尉、掾属を駙馬都尉、行参軍舎人を騎都尉としてそれぞれ奉朝請とした。後に奉車・騎の二都尉は廃され駙馬都尉のみ残った(劉惔・桓温らが公主の婿としてこれに任じた)。
- 中書監・令は漢武帝が宦者に尚書事を典させ中書謁者としたのに始まり、成帝が中謁者令と改称、後漢では実権のない中官謁者令となった。魏武帝が魏王として秘書令を置き、文帝黄初初に中書監・令(劉放・孫資)としたのが始まり。中書侍郎は魏黄初初の通事郎に始まり、晋で中書侍郎と改称され四人置かれた。中書舎人は晋初に一人置かれ、江左では通事舎人と合称され上奏文書を掌った。
秘書省・太常
- 秘書監は漢桓帝延熹二年に置かれ後に省かれた。魏武帝が秘書令・丞を置き、文帝が中書令を置いた際秘書は監と改称された。晋の武帝は秘書を中書省に併せたが著作の局は存続、恵帝永平中に秘書監が再置された。
- 著作郎は周の左史の任に相当し、魏明帝太和中に初めて官として置かれ中書省に隷した。晋の武帝は繆徴を中書著作郎とし、元康二年の詔で秘書著作と改め秘書省に隷させた。大著作郎一人・佐著作郎八人が置かれ、着任時には必ず名臣伝一人を撰することとされた。
- 太常以下、光禄勳・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚・宗正・大司農・少府・将作大匠・太后三卿・大長秋は列卿とされ、それぞれ丞・功曹・主簿・五官等を置いた。
- 太常は博士・協律校尉、太学諸博士・祭酒、太史・太廟・太楽・鼓吹・陵等の令を統べた。太常博士は魏官で乗輿の引導、王公以下の諡議定を掌った。協律校尉は漢の協律都尉に相当し魏の杜夔が任じ、晋で協律校尉と改称。晋初は博士十九人を置き、咸寧四年に武帝が国子学を立て国子祭酒・博士各一人、助教十五人を置いた。江左初は九人に減り、元帝末に『儀礼』『春秋公羊』博士を加え十一人、後に十六人に増えて太学博士と総称された。孝武帝太元十年、国子助教は十人に減らされた。
光禄勳・衛尉・太僕・廷尉ほか
- 光禄勲は武賁中郎将・羽林郎将・冗従僕射・羽林左監・五官左右中郎将・東園匠・太官・御府・守宮・黄門・掖庭・清商・華林園・暴室等の令を統べた。哀帝興寧二年に省かれ司徒に併せられたが、孝武帝寧康元年に復置された。
- 衛尉は武庫・公車・衛士・諸冶等の令、左右都候、南北東西督冶掾を統べたが渡江後に省かれた。
- 太僕は典農・典虞都尉、乗黄廄・驊騮廄・龍馬廄等の令を統べ、元帝渡江後は省置一定せず、廃止時は驊騮が門下の職となった。
- 廷尉は刑法獄訟を主り、属官に正・監・評、律博士を置いた。
- 大鴻臚は大行・典客・園池・華林園・鉤盾等の令を統べ、江左では事あるごとに権置し無事の時は省いた。
- 宗正は皇族宗人の図諜、太医令史を統べたが、渡江後哀帝が太常に併せ、太医は門下省に属した。
- 大司農は太倉・籍田・導官の三令、都水長・護漕掾を統べ、渡江後哀帝が都水に併せたが孝武帝が復置した。
- 少府は材官校尉・中左右三尚方・中黄左右蔵・左校・甄官・平準・奚官等の令を統べたが、渡江後哀帝が丹陽尹に併せ孝武帝が復置、以後尚方は一つのみ置き御府は省かれた。
- 将作大匠は事あれば置き無事なら罷めた。太后三卿(衛尉・少府・太僕)は漢に始まり太后宮の官号として同名卿の上に位したが、魏では九卿の下に改められ晋で旧に復した。大長秋は皇后卿で、皇后がいなければ省かれた。
御史台・司隷校尉
- 御史中丞は秦官で、御史大夫の二丞の一つ(中丞)に始まる。中丞は外に部刺史を督し内に侍御史を領し公卿の奏事を受け弾劾を掌った。漢の官制変遷(成帝綏和元年に大司空長史、哀帝建平二年に御史大夫復活、元寿二年に再び大司空)を経て中丞が御史台の主となり、晋もこの制に依った。
- 治書侍御史は漢宣帝が宣室で決事した際、侍御史二人を側で治書させたのに始まる。魏は治書執法(弾劾担当)と治書侍御史(律令担当)を並置したが、晋は治書侍御史のみとし員四人、泰始四年に黄沙獄治書侍御史一人(中丞と同秩、詔獄・廷尉の不当を治める)を加えたが後に省かれ、太康中にはさらに治書侍御史二員が省かれた。
- 侍御史は後漢では令曹・印曹・供曹・尉馬曹・乗曹の五曹を掌り、魏は八人、晋は九人(治書と同品)に十三曹(吏曹・課第曹・直事曹・印曹・中都督曹・外都督曹・媒曹・符節曹・水曹・中塁曹・営軍曹・法曹・算曹)を分掌させた。江左初に課第曹を廃し庫曹(廐牧牛馬市租担当)を置き、後に外左庫・内左庫に分けた。
- 殿中侍御史は魏の蘭台が二御史を殿中に置いて非法を伺察させたのに始まり、晋は四人、江左は二人。符節御史は秦の符璽令の職に始まり、漢では中丞に次ぐ位、魏で別台とされ、泰始九年に蘭台に併せられ符節御史が節・銅武符・竹使符の授与を掌った。
- 司隷校尉は漢武帝が十三州刺史とともに置き三輔・三河・弘農七郡を察した官で、漢魏晋を通じ存続し多数の属官(功曹・都官従事・諸曹従事・部郡従事・主簿・録事等、吏百人・卒三十二人)を有したが、渡江後に廃され揚州刺史がその職を兼ねた。
- 謁者僕射は秦官で漢魏を経て晋に至り、魏では大拝授・百官班次を掌り謁者十人を統べたが、武帝が僕射を省き謁者を蘭台に併せた。江左で再置され後にまた省かれた。
- 都水使者は漢の水衡の職に相当し、後漢は都水を省き河堤謁者を置いたが、武帝が水衡を省き都水使者一人を置いて河堤謁者をその属官とした。江左では河堤謁者を省き謁者六人を置いた。
軍職――領軍・護軍・二衛以下
- 中領軍将軍は魏官。漢建安四年、魏の丞相府が自ら置き曹休を中領軍としたのに始まる。文帝践阼後に領軍将軍を置き五校・中塁・武衛等三営を主らせた。武帝は初め省き中軍将軍羊祜に二衛・前後左右驍衛等の営を統べさせ、これが領軍の任にあたった。懐帝永嘉中に中軍を中領軍と改称、永昌元年に北軍中候と改め間もなく領軍に復し、成帝の代にも同様の改称と復旧があった。
- 護軍将軍は秦の護軍都尉に始まり、漢高祖は陳平を護軍中尉、武帝は護軍都尉として大司馬に属させた。魏武帝は韓浩を護軍、史渙を領軍とし(漢官ではない)、建安十二年に護軍を中護軍、領軍を中領軍と改称した。魏初の護軍将軍は武官選を主り領軍に隷したが晋では隷さなかった。元帝永昌元年に護軍を省き領軍に併せ、明帝太寧二年に領・護を復置しそれぞれ営兵を領した。江左では領軍が二衛・驍騎・材官等の諸営を総統する一方、護軍は別に営を持った。資重の者を領軍・護軍、資軽の者を中領軍・中護軍とした。
- 左右衛将軍は文帝が初め中衛を置き、武帝受命後に左右衛(羊琇を左、趙序を右)に分けた。驍騎将軍・遊撃将軍は漢の雑号将軍で魏が中軍とし、晋は領・護・左右衛・驍騎・遊撃を「六軍」とした。左右前後軍将軍は魏明帝時の左軍に始まり、武帝が前軍・右軍を、泰始八年に後軍を加え「四軍」とした。
- 屯騎・歩兵・越騎・長水・射声の五校尉は漢官で、魏晋から江左まで営兵を領した。後に左軍・右軍・前軍・後軍が鎮衛軍に改められ、五校尉の左右営はそのまま中領軍が統べた。
- 二衛は前駆・由基・強弩の三部司馬を置き、左衛には熊渠武賁、右衛には佽飛武賁がそれぞれ五部督を有した。武帝は軍校の人選を重視し朝廷の清望の士を任じた。とりわけ陳勰は文帝に才用を認められ軍令に明るく、武帝の代には殿中典兵中郎将から将軍に昇り、蜀の平定後は諸葛亮の陣法を学んで実践、太康末の武帝の狩猟の際にも巧みに陣を整えたことで信任を得た逸話が記される。
東宮官
- 太子太傅・少傅は古官で、泰始三年に武帝が始めて置いた(詹事はまだなし)。咸寧元年に楊珧を詹事として宮事を掌らせたが、後に詹事は省かれ太尉賈充・司空斉王攸が太保・太傅を領した。恵帝元康元年に詹事が復置された。愍懐太子の建官では六傅(三太・三少)が置かれた(司馬師の諱を避け太師を太保と改称)。
- 東宮の官として、中庶子四人(侍中に相当)、中舎人四人(咸寧四年設置)、食官令一人、庶子四人、舎人十六人、洗馬八人、率更令、家令、僕、左右衛率(泰始五年に左右分置)などが置かれた。
諸侯王国の官
- 王には師・友・文学各一人(司馬師の諱により師を傅と改称)、内史(太守に相当)、郎中令・中尉・大農の三卿を置いた。咸寧三年、衛将軍楊珧と中書監荀勖は、斉王攸の声望を懸念し裴秀の五等封建論を援用して、諸王を各地に封じ実効支配させる制度改革を武帝に進言、有司が戸邑・軍制を定めた(大国・次国・小国の区分、郡公・郡侯の制度等)。これにより非皇子は王となれなくなり、支子には公・侯・伯・子・男の爵位が与えられた。呉平定後、斉王攸は封国に赴いた。
- 州には刺史、別駕・治中従事、諸曹従事等を置き、郡には太守(河南郡は尹、諸王国は内史)、県には令(大)・長(小)を置いた。それぞれ戸数に応じて職吏・散吏の員数が定められ、郷には嗇夫を置くなど、地方官制の細目が定められた。
- 四中郎将は後漢に始まり魏晋を通じ存続、江左でさらに重視された。護羌・夷・蛮等の校尉は武帝が南蛮校尉(襄陽)・西戎校尉(長安)・南夷校尉(寧州)を置いたのに始まり、元康中に護羌校尉は涼州刺史、西戎校尉は雍州刺史、南蛮校尉は荊州刺史にそれぞれ改編された。江左初は南蛮校尉を省いた後江陵に再置し、南夷校尉を鎮蛮校尉と改称、安帝の代に襄陽に寧蛮校尉を置いた。護匈奴・羌・戎・蛮・夷・越中郎将は武帝が置いた四中郎将に始まり、平越中郎将は広州に置かれ南越を護した。