史臣曰――車服の由来(総論)
- 史臣は言う。黄帝が皁衣纁裳、堯(放勲)が彤車白馬を用いて以来、車服には等級・意匠の体系が備わってきた。『月令』には季夏に「婦官が彩を染む」とあり、色・品章にはそれぞれ定めがある。旗・威儀・佩玉・鳴和なども身分秩序を示すもので、正名百物・功徳に応じた服飾の尊卑が保たれてきた。『書経』に「功を明試し車服を以て庸とす」とあり、『礼記』には有虞氏の鸞車・夏后氏の鉤車・殷の大路・周の乗路が挙げられる。聖人が鳥獣草木の姿から衣冠を、蓬の転がる様から車輪を発想したという伝承も紹介される。
- 周は殷の制に因り、成王の会同では五方の諸侯・遠国の使節が集い盛儀を尽くしたが、周室の衰えとともに諸侯の僭越が進み(斉の紫衣、鄒の長纓など)、孔子は「君子はその学は博く、その服は郷に従う」と説いた。秦の統一で経書は焼かれ三代の制は失われ、金根車を帝の車とし六冕を廃して袀玄を祭服とするなど旧法は一新された。
- 漢は秦制を継承しつつ、武帝は郊祀の盛儀(大駕・車千乗騎万匹)を整え、成帝は属車に趙飛燕を乗せる逸話も伝わる。王莽の乱で車服の多くが失われたが、建武十三年、呉漢の蜀平定を機に葆車輿輦の飾りが徐々に整った。明帝は『周官』『礼記』に基づき袞冕の服を復し、天子は通天冠を戴き玉璽を佩びるようになった。魏明帝は公卿の黼黻の飾りが至尊に近すぎることを憂い簡略化し、高堂隆の建議により景初元年に正朔・服色を改め(青龍五年→景初元年、尚黄)た。晋の武帝は魏晋革命の礼に則ったが、晋は五行の金徳に当たるにもかかわらず服色は赤を尚び、これは有司の伝承違いではないかと史臣は疑問を呈している。
五路(天子の法車)
- 玉路・金路・象路・革路・木路の五路は天子の法車で、朱色に塗り彩色文様を施す。車輪は三十輻(月の数に象る)、二重の轂、赤い油の飛軨(軸頭の垂れ布)、金薄の龍の意匠、玉座の較・軾、鸞雀の立衡など、意匠の細部が記される。旂旗を左に、棨戟を右に立て、犛牛の尾を左騑馬の軛に置く「左纛」も備わる。轅は上向きに曲がり、『礼緯』の「山車垂句」の義(自然に曲がる徳)に因む。
- 玉路は太常旗(十二旒)を建て天を祀るのに用い、金路は大旂(九旒)を建て万国の賓を会するとともに上公・王子母弟に賜与、象路は大赤(無地の赤)を建て視朝に用いるとともに諸侯に賜与、革路は大白を建て戎事に用いるとともに四鎮諸侯に賜与、木路は大麾(黒)を建て田猟に用いるとともに藩国に賜与された。玉路は六頭の黒馬、他は四頭で牽き、馬には金の文髦・翟尾の飾りを施した。錫鸞・和鈴・鉤膺・玉瓖など各部の名称と意匠も細かく記される。法駕出御の際は五路それぞれに役割があり、臨軒の大会では乗輿の車輦・旌鼓を殿庭に並べた。
乗車の諸形式
- 坐乗を安車、立乗を高車(立車)といい、『周礼』では王后のみ安車を持つとされるが、漢以降は天子も用いるようになった。青・赤・黄・白・黒それぞれの立車・安車(合わせて十乗、「五時車」「五帝車」と俗称)があり、天子が用いる時は六頭立て、他は四頭立てとした。五牛旗は呉平定後に作られ、五色の牛に旗を立てて人が担いだ(負重致遠の安穏の意)。
- 金根車(駕四馬、旗を建てず)、耕根車(駕四馬、赤旂十二旒、天子親耕の際に用い一名「芝車」「三蓋車」、魏景初元年の正朔改定に際し尚黄とされたが泰始二年に有司の奏で赤旗に戻された)、輦(漢以来の君主の乗り物、魏晋では近出に用いた)、戎車(親征用、金鼓・羽旗・幢翳・弩を積む)、猟車(校猟用、一名「闒戟車」「蹋豬車」、魏文帝は「蹋獣車」と改名)、遊車(九乗、先駆用)、雲罕車、皮軒車、鸞旗車、建華車(各二乗)、軽車(前後二十乗、古の戦車)、司南車(指南車、常に南を指す仙人の像を上に置く)、記里鼓車(一里ごとに木人が鼓を打つ)、羊車(一名輦車、護軍羊琇が乗って司隷劉毅に糾弾された逸話がある)、画輪車(牛牽き、彩漆の車輪、古は貴人は牛車に乗らなかったが漢武帝以降諸侯が窮乏し牛車に乗るようになり、霊帝献帝以降天子から士まで常用となった)などが列挙される。
- 属車(副車・貳車・左車とも)は漢の秦制に依り大駕で八十一乗、法駕で三十六乗(最後尾は豹尾を懸ける)。御衣車・御書車・御軺車・御薬車(いずれも牛牽き)、陽遂四望繐窗皁輪の小型車も牛牽き。象車は漢の鹵簿最前列に置かれ、武帝太康年間、呉平定後に南越が馴象を献上した際、大車を作らせ黄門鼓吹数十人を乗せ越人に操らせた(元正大会では象車を庭に入れた)。
中朝大駕鹵簿(行列次第)
- 先頭は象車(鼓吹一部十三人、中道)。以下、静室令・式道候、洛陽尉、洛陽亭長九人(赤車)、洛陽令(皁車)、河南中部掾・河橋掾・功曹史、河南尹(駕駟・戟吏六人)、河南主簿・主記、司隷部河南従事(都部従事・別駕従事)、司隷校尉(駕三・戟吏八人)、司隷主簿・主記、廷尉明法掾・五官掾・功曹史、廷尉卿(駕駟・戟吏六人)、廷尉主簿・主記(太僕・宗正の引従も同様の格式)と続く。
- 太常(駕駟・戟吏六人、外部掾・五官掾・功曹吏が従う)、光禄・衛尉の引従、太尉外督令史、西東賊倉戸等曹属、太尉(駕駟、主簿・舎人・祭酒が従う)、司徒・司空の引従(各駕駟、三公の騎令史・戟各八人・鼓吹各一部七人)、中護軍(駕駟、鹵簿左右各二行、鼓吹一部七人)、歩兵校尉・長水校尉、射声校尉・翊軍校尉、驍騎将軍・遊撃将軍(騎隊十隊各五十匹を伴う)、左将軍・前将軍と続き、いずれも鹵簿・鼓吹の編成が細かく定められている。
- さらに黄門麾騎、黄門前部鼓吹(左右各一部十三人)、八校尉佐仗、司南車(護駕御史が騎で挟む)、謁者僕射、御史中丞、武賁中郎将、九斿車(武剛車が左右を挟む)、雲罕車、闒戟車、皮軒車、鸞旗車・建華車、護駕尚書郎三人(都官郎・駕部・中兵)、相風(方位を知る風向計)、司馬督、五時車(遮列騎を伴う)、典兵中郎、高蓋(罼・罕を伴う)、御史(節郎各四人)、華蓋、殿中司馬(殿中都尉・殿中校尉を伴う)と続く。
- 中核部として、扌罡鼓に続き金根車(駕六馬、太僕卿が御し大将軍が参乗、左右各十二行の護衛、青旂十二を建てる。左将軍騎・右将軍騎、殿中将軍が斧を持って車を挟む)、曲華蓋(侍中・散騎常侍・黄門侍郎が騎で従う)、黄鉞車、相風、中書監・秘書監の騎、殿中御史・殿中監の騎、五牛旗、大輦(太官令丞・太医令丞が従う)、金根車(駕駟、旗なし)、五時車十乗(青赤黄白黒の立車・安車)、蹋豬車、耕根車(赤旗十二、熊渠督・佽飛督が左右を守る)、御軺車・御四望車・御衣車・御書車・御薬車(いずれも牛牽き)が続く。
- 後尾には尚書令・尚書僕射・尚書郎六人・治書侍御史・侍御史・蘭台令史、豹尾車(駕一、以後神弩二十張が道を挟む)、軽車二十乗、流蘇馬六十匹、金鉞車・金鉦車(護駕尚書郎・侍御史等が従う)、黄門後部鼓吹(左右各十三人)、戟鼓車、大鴻臚以下の官(大司農・少府の引従、三卿)、領軍将軍、後軍将軍・右将軍、越騎校尉・屯騎校尉、領護驍騎・遊軍校尉(騎将軍四人・騎校・鞉角・金鼓等を伴う)、領護軍(大車斧を加える)、騎十隊(隊各五十匹)、郎簿十隊(隊各五十人)、大戟・九尺楯・刀楯・弓・弩の各一隊(隊各五十人)が最後に配置される。この行列全体で数千人規模の官吏・兵士が定められた順序と装備で供奉した。
皇太子・諸王等の車
- 皇太子の安車は駕三・左右騑、朱班輪・倚獣較・伏鹿軾、九旒で降龍を画き、青蓋・金華蚤二十八枚、黒文で轓を画き黄金塗の五采(「鸞路」とも称する)。法駕でない時は画輪車を用いる。副車三乗も同形式(画輪はなし)。
- 王青蓋車・皇孫緑蓋車(駕三・左右騑)、雲母車(雲母で犢車を飾り王公にのみ賜与)、皁輪車(駕四牛、勲徳ある諸王三公に特賜)、油幢車(同じく特賜)、通幰車(諸王三公が乗る)などが列挙される。
- 諸公には朝車・安車・皁輪犢車が給され、特進・車騎将軍以下の大将軍(開府せず持節都督でない者)には安車・軺車が給された。三公・九卿・中二千石以下の車制、去位致仕者への安車駟馬の賜与、郡県公侯の安車の形式(朱班輪・倚鹿較・伏熊軾・黒輜・皁繒蓋)、旗の旒数(公八旒・侯七旒・卿五旒、いずれも降龍を画く)なども定められた。
- 太康四年には九卿に朝車・安車を給する制、八年には侍中常侍を加えた尚書軍校に軺車を給する詔が出された。
使者用の車・特殊車
- 大使車(立乗・駕四・赤帷裳)、小使車(駕四、追捕・考案に用いる別種もある)、追鋒車(小平蓋を除き通幰を加えた迅速な車、戎陣で用いる)、軺車(古の軍車、一馬を軺車・二馬を軺伝という。漢では輜軿を貴び軺車を賤しんだが魏晋は逆に軺車を重んじた。三品将軍以上・尚書令の軺車には後戸があり、僕射は後戸のみ耳なし、尚書・四品将軍は後戸なし)などが記される。
皇太后・皇后・妃嬪の車
- 皇太后・皇后の法駕は重翟羽蓋の金根車(駕三・左右騑、青帷裳、黄金塗五采)。廟見の小駕では紫罽軿車を用いる。法駕でない時は皇太后は輦、皇后は画輪車。先蚕(養蚕儀礼)の際は油画雲母安車(駕六騩馬)に乗り、副車として油画両轅安車・金薄石山軿・紫絳罽軿車(各駕三騩馬)が用意された。女旄頭・女尚輦・女長御にもそれぞれ専用の車があった。
- 三夫人(貴人・夫人・貴嬪)は油軿車(駕両馬)、助蚕の際は紫絳罽軿車。九嬪・世婦は軿車(駕三)。長公主は赤罽軿車、公主・王太妃・王妃は油軿車。公主の助蚕には油画安車が用いられた。諸王妃・公太夫人以下、諸侯監国世子の世婦、命婦らの助蚕にもそれぞれ皁交路安車等の車制が定められ、郡県公侯・中二千石・二千石の夫人は夫の安車に同乗する形式であった。
江左(東晋)における車制の簡略化
- 過江以後、旧章の多くが失われ、元帝践阼の際に初めて大路・戎路各一を古の金根の制に倣って作ったが、充庭の儀は復されなかった。郊祀の大事には他の車を権宜で飾って用いた。六師親征の際は戎路の蓋を外して用い、属車はわずか五乗のみとなった。かつての五時車(五色の馬車)も失われ、五色の木牛に旗を立てて代用した。指南車は渡江の際に失われたが、義熙五年、劉裕が広固を屠った際に再び入手し、工人張綱が修復した。義熙十三年、劉裕の関中平定の際には司南車・記里鼓車も入手され制度が整った。輦の制度も渡江後に失われ、太元中に謝安が独自に作らせたが、後に苻堅を淮上で破った際に得た旧都の輦の形制と寸分違わず、時人はその記憶の正確さに感服したという。義熙五年、劉裕が慕容超を捕らえた際には金鉦輦・豹尾も旧式のまま得られた。
- 元帝太興三年、皇太子の釈奠に際し「まだ高車がないので安車に乗るべし」と定められた。太元中、東宮建立に伴い青赤の旂を用いる乗路に疑義が生じ、徐邈は「太子は五路を備えないので赤旂は省くべき」と論じた。漢制では太子の鸞路もすべて安車と称された。江左では礼儀の乱れから王公以下の車服も混乱していたが、東宮のみ礼秩を重んじられ、安帝が皇太子時代に石山安車(金路に似た制)に乗った例は経典に見えない特殊な事例であった。
- 中宮(皇后宮)の創建や先蚕祭祀の際にはいずれも法駕を用い、太僕妻が御し大将軍妻が参乗、侍中妻が陪乗し、丹陽尹・建康令・公卿の妻が引導したが、多くは宮人が代行した。
冠服の総論
- 『周礼』には弁師が六冕を、司服が六服を掌るとあり、後王から庶人まで等差があった。秦の統一で郊祭の服はすべて袀玄となり旧制は失われた。漢は秦の弊を受け継ぎ二百余年これを整えられなかったが、後漢の明帝が『周官』『礼記』『尚書』等に基づき袞冕の服を復し、天子の車服冠服は欧陽氏説、公卿以下は大小夏侯氏説に従って制定された(天子は十二章、三公諸侯は山龍以下九章、九卿以下は華蟲以下七章)。魏明帝は公卿の黼黻の飾りが至尊に近すぎることを憂い、天子の服を刺繍、公卿の服を織成とした。晋はこれをそのまま踏襲した。
- 天子は郊祀・明堂・宗廟・元会臨軒の際、黒介幘・通天冠・平冕を着けた。冕は皁表朱緑裏、広七寸長二尺二寸、前円後方、白玉珠十二旒を垂らし朱組の纓(緌なし)。佩玉は白玉、黄大旒の綬(黄赤縹紺の四采)。衣は皁の上衣・絳の下裳(前三幅後四幅)、日月星辰・山龍・華蟲・藻・火・粉米・黼・黻の十二章を画き繍う。素帯・中衣・赤皮の韍・絳袴襪・赤舄などの細部も定められた。釈奠の際は皁紗袍・絳縁中衣。臨軒でも袞冕を用いた。朝服は通天冠(高九寸・金博山顔)・黒介幘・絳紗袍。拝陵の際は黒介幘・単衣。雑服には青赤黄白緗黒の色があり、介幘・五色紗袍・五梁進賢冠・遠遊冠・平上幘武冠なども用いられた。素服は白㡊単衣。
- 後漢以来、天子の冕の旒は真白玉珠を用いたが、魏明帝は珊瑚珠に改め、晋初もこれを踏襲した。渡江後は服章の多くが欠け、冕には翡翠珊瑚雑珠が用いられたが、侍中顧和の奏により美玉が得難いため白璿珠を用いることとなった。
冠の種類
- 通天冠(秦制、高九寸、鉄の巻梁、金博山述を前に加える、乗輿の常服)、平冕(王公・卿が郊廟の助祭に着用、王公八旒・卿七旒)、遠遊冠(傅玄によれば秦冠、皇太子・王者後・帝の兄弟子弟が着用)、緇布冠(蔡邕によれば委貌冠、太古の冠布に由来し四つの形がある)、進賢冠(古の緇布の遺象、五梁・三梁・二梁・一梁の別があり、天子は五梁、三公・郡公県公郡侯県侯郷亭侯は三梁、卿大夫八座尚書・関中内侯・二千石以上は両梁、中書郎以下六百石以下は一梁)、武冠(一名武弁・大冠・繁冠・建冠・籠冠、古の惠文冠、侍中・常侍は金璫・貂尾を加える。趙武霊王起源説、秦滅趙の由来説など諸説が紹介される)、高山冠(一名側注、高九寸、中外官・謁者・謁者僕射が着用、斉王冠起源説)、法冠(一名柱後・獬豸冠、高五寸、侍御史・廷尉正監平等の執法官が着用、獬豸神羊の伝説に因む)、長冠(一名斉冠、漢高祖が竹皮で作った「劉氏冠」に由来、祭服として用いる)、建華冠(祀天地五郊明堂の舞人が着用)、方山冠(大予・八佾・五行の楽人が着用)、巧士冠(郊天の際に黄門従官四人が着用)、卻非冠(宮殿門吏僕射が着用)、卻敵冠(殿門衛士が着用)、樊噲冠(鴻門の会での樊噲の逸話に由来、殿門司馬衛士が着用)、術氏冠(呉制)、鶡冠(趙武霊王が壮士を表彰するため用いた)、皮弁・韋弁・爵弁(一名広冕、祠天地五郊明堂の雲翹舞の楽人が着用)など多数の冠の名称・形状・由来が列挙される。
幘・巾・帽・その他の服飾
- 幘は古の賤人(冠を着けない者)の服であったが、漢元帝が額の壮髪を隠すため用い、王莽が禿頭を隠すため屋(覆い)を加えた。進賢冠には長耳の介幘、武冠には短耳の平上幘を合わせ、文吏は介幘、武官は平上幘を着用した。童子幘には屋がなく成人でないことを示す。納言幘・赤幘(騎吏・武吏・乗輿鼓吹が着用)もあり、日食の際は文武官が冠を脱ぎ幘のみとして武威を示した。
- 立秋の狩には緗幘を用いたが、江左では哀帝が博士曹弘之らの議により素白㡊に改めた。漢末の王公名士は幅巾を雅とし(袁紹・崔鈞ら)、魏武帝は財政難から皮弁に倣い縑帛で㡊を作り色で貴賤を分けた。徐爰によれば㡊の岐(分かれ目)は荀彧(文若)が誤って枝に触れさせたのを善しとして踏襲したものという。今は慶弔の服として通用する。
- 巾は葛製で㡊に似て横に着け、尊卑を問わず用いられた(漢末の黄巾賊はこれを黄色にした)。帽は「蒙覆」の意で、古の冠下の纚(繒製)に由来し、後世に幘に付けたり纓を裁って帽にしたりした。乗輿の宴居から庶人(無爵者)まで着用した。成帝咸和九年、尚書八座丞郎・門下三省の侍官が乗車の際に白㡊・低幃を着けることが定められた。江左では野人も帽を着け士人も次第にこれに倣ったが、頂は円形であった(後に屋を高くする形式が現れた)。
- 佩剣は漢制では天子から百官まで用いたが、後には朝服帯剣のみとなった。晋では木製の剣に改め、貴者は玉首、賤者は蚌・金銀・玳瑁の飾りを用いた。
- 乗輿六璽(秦制、「皇帝行璽」「皇帝之璽」「皇帝信璽」「天子行璽」「天子之璽」「天子信璽」)に加え、秦始皇の藍田玉璽(螭獣紐、「受天之命、皇帝寿昌」の文、いわゆる伝国璽)は漢高祖が佩び、白蛇を斬った剣とともに乗輿の宝とされたが、剣は恵帝の代に武庫の火災で失われた。伝国璽は懐帝が胡に没した際に劉聡、後に石勒の手に落ち、石季龍の死後の胡の乱を経て穆帝の代に江南に戻った。
- 革帯(古の鞶帯)、八座尚書の「荷紫」(紫の袷嚢を左肩に懸ける服制、周公が成王を負んぶした故事に由来するとも、単に奏事を懐に入れて運んだ名残ともいう)、車前五百(卿の随行者、漢の統一後は人数を減らし名のみ残した)についても述べられる。
- 袴褶の制は起源不明だが近世は車駕親征・中外戒厳の際に用いられ、色は定まらず黒帽に紫摽を綴じた。中官は紫摽、外官は絳摽を用いた。
- 五郊の祭では天子・執事者は方色に応じた服、非執事の百官は絳衣の常服を着用した。魏の秘書監秦静によれば漢は秦の六冕の制を改め玄冠絳衣のみとしたが、魏以降は五時朝服・四時朝服等が定められ、皇太子以下が官に応じて支給を受けた(実際は四時朝服のみで秋服は欠けていた)。
- 印綬を仮り官が鞶嚢を給しない者は自ら作ることができたが、印のみ仮り綬を仮りない者は佩綬鞶を持てなかった(古制)。漢代の鞶嚢は腰の側に着け「傍嚢」「綬嚢」とも称し、紫嚢に綬を収めた。
- 笏は古来貴賤を問わず執り、事あれば腰帯に挿んだ(「搢紳の士」の語源)。笏には常に筆を簪した(今日の白筆の遺制)。三台五省の二品文官はこれを簪したが、王公侯伯子男・卿尹・武官は簪さず、内侍位を加えられた者のみ簪した。尚書令・僕射・尚書の手版(笏)には白筆を紫皮で包んで付けた。
皇太子・諸王・皇后・妃嬪の印綬と服制
- 皇太子は金璽亀鈕・朱黄綬(赤黄縹紺の四采)、五時朝服・遠遊冠・介幘・翠緌、瑜玉を佩び、朱衣絳紗襮・皁縁白紗の中衣を着けた。侍祀の際は平冕九旒・袞衣九章、講義の際は介幘単衣、釈奠の際は遠遊冠・玄朝服など、場面ごとに服制が定められた。
- 諸王は金璽亀鈕・纁朱綬(朱黄縹紺の四采)、五時朝服・遠遊冠介幘(三梁進賢冠も可)、山玄玉を佩びた。
- 皇后は謁廟の際は皁上皁下、親蚕の際は青上縹下の深衣、歩揺(俗に「珠松」という)等の首飾りには八爵九華や熊・獣・赤羆・天鹿・辟邪・南山豊大特の六獣の意匠があしらわれた。元康六年の詔で、魏以来の文繍の蚕服を改め純青の服を永制とした。
- 三夫人(貴人・夫人・貴嬪)は金章紫綬、九嬪(淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華)は銀印青綬。助蚕の際の髪飾り(太平髻・七䥖蔽髻等)にも位に応じた等差があった。
- 皇太子妃は金璽亀鈕・纁朱綬、諸王太妃・妃・諸長公主・公主・封君は金印紫綬。長公主・公主の会見時の髪飾り、郡公侯県公侯の太夫人・夫人の銀印青綬、公特進侯卿校世婦・中二千石二千石夫人の紺繒幗なども細かく定められ、二千石夫人以上皇后に至るまで蚕衣を朝服とする慣例が記される。