総論――上古の農政と市場の理念
- 先王は土地を測って邑を建て、民を住まわせ、天・地・人の三才に応じて仕事を按配し、四季を敬って生業を成り立たせ、民謡や風俗を観察して紀綱を正した。農桑を根本として奨励し、魚塩の利を通わせ、名山で玉を採り、海で真珠を得た。市は日中に開かれ、布帛を先にし貨幣を後にして有無を融通し、それぞれが得るところを得た。『周礼』では正月に教えを象魏(宮門の掲示板)に掲げるとする。一夫の農民が十畝の宅地を持ち、三日の労役、九等の賦税を負い、春の社日に耕作を励ますという制度があった。太公望は斉で市の利を通じて国を強くし、范蠡(鴟夷子皮)は陶で物資の出し入れにより家を富ませた。少昊の時代には春夏秋冬の鳥官がそれぞれ耕作・除草・収穫・貯蔵を掌った。『書』に「日月星辰の運行を測り、民に農時を授ける」とあり、伝に「禹・稷は自ら耕して天下を得た」とある。
- 九州の産物は地域ごとに異なり、東呉は角歯の産、西蜀は丹砂の富、兗豫は漆糸、燕斉は珍石、秦邠は旄羽、荊郢は竹箭、江岸は橘柚、遼西は毛織物、西域は名馬などを産する。百畝の田に十分の一の税をかければ、九年耕作して三年分の蓄えができ、老幼を養える。宮室・旗章にも制度があり、朝聘・宴饗にも定めがあれば、国は富み遠近が安んじる。水旱の災いを救い、民の困窮を恤めば、王の常膳も簡素にできる――殷周の興隆はこの道による。
- 対して殷の紂王は暴虐で、金で飾った鹿台・玉で飾った肥沃な宮殿を築き、宮中に九つの市を置いて女官に管理させ、重税で鹿台の銭を満たし、大斂で鉅橋の粟を増やし、酒池肉林で男女を裸で戯れさせ、牛飲する者三千余人に及んだ。周の武王が紂を誅すると、鹿台の財と鉅橋の粟を民に頒布し、殷人は大いに喜んだ。周の赧王の代には九鼎が失われ、百姓への借財を返せず「逃責台」に身を隠したという故事も伝わる。周公の六典・職方の九貢の制度は、刑政が衰えると廃れ、魯は初めて田畝ごとの税を、秦は収穫の大半を取る税を課すようになり、先王の範は失われた。
- 史臣曰く、班固が「殖貨志」で三代から王莽誅殺までを網羅した記述は、詳しく整っている(本志はこれ以降を継ぐ趣旨である)。
漢代の経済――光武帝から獻帝まで
- 光武帝は寛仁で、王莽の乱後・赤眉の乱後の荒廃した天下を治め、隴・蜀を平定すると民は安堵し、五銖銭を復活させ、田租は三十分の一とし、出産した民には三年間税を免じた。顯宗(明帝)の代は天下安寧で徭役も軽く、永平5年には常満倉を設け、粟の市を城東に立て、粟一斛は二十銭であった。府庫は充実し礼義が行われた。
- 安帝の永初3年、天下が水旱に見舞われ人が人を食う惨状となり、帝は鴻陂の地を貧民に貸与し、財政不足のため銭穀の納入で関内侯を授けた。桓帝の永興元年には郡国の半数近くが蝗害・河川氾濫に遭い、十余万戸が流民となった。桓帝末の羌の反乱では二十余年にわたり軍費三百二十余億に達し、府庫は空となった。沖帝・質帝の短命、桓帝・霊帝の乱政が続き、霊帝中平2年には南宮の火災で復興費用のため田畝ごとに十銭を徴収した。霊帝は西園に万金堂を築いて私財を蓄え、鴻都の門に売官の掲示を出し、廷尉崔烈は五百万銭で司徒の官を買った。獻帝の五銖銭には四方に亀裂が入り、識者は「都が破壊される兆し」と評した。
董卓の乱と長安の荒廃
- 董卓は献帝を長安に移し、五銖銭を廃して輪郭のない粗悪な小銭を鋳造し、洛陽・長安の銅人像まで潰して原料にした。董卓誅殺後、李傕・郭汜の抗争で長安は戦場となり、穀一斛五十万銭、豆麦二十万銭に達し人が人を食い、白骨が道に満ちた。侍御史侯汶が太倉の米豆で粥を作らせたが死者はなお増え、献帝は自ら分配を確かめて初めて公平になったという。献帝の東帰の際、李傕・郭汜らに追われ、六宮は徒歩で逃げ、董承の部下が絹を奪おうとして侍者を殺し血が后の服に飛び散るなど惨状を極めた。洛陽に着いても宮闕は荒廃し、百官は荊棘を分けて住み、州郡は強兵を擁して物資を送らなかった。
魏の屯田政策と軍糧調達
- 魏武帝(曹操)の初め、群雄割拠の中で袁紹軍は椹(桑の実)で、袁術軍は蠃蒲(貝や水草)で糧を賄うほどであった。曹操は良民を許下に募って屯田させ、州郡にも田官を置き、年に数千万斛を得て軍用に充てた。文帝は黄初2年、穀物価格の高騰により五銖銭を廃止した。呉の陸遜は上疏して諸将に屯田拡大を求め、孫権自ら「車八頭の牛で四耦を耕す」と応じ、呉の重農政策はここに始まる。魏明帝は宮室の造営に耽り百官を使役し、民は自ら耕せず、関東の水害や遼陽出兵で国用が乏しくなった。
西晉武帝の繁栄と乱後の窮乏
- 世祖武帝の太康元年、孫皓を平定して三呉・西蜀の富を接収し、武備を府庫に納めて舟船を破壊するほど平和になった。農事は盛んになり、王愷・石崇らは互いに奢侈を競い、金の埒(馬場の柵)を敷き珊瑚樹を粉砕するほどであった。永寧年間の初め、洛中にはなお錦帛四百万・珠宝金銀百余斛の蓄えがあった。
- しかし惠帝の皇后(賈后)が北征した蕩陰の乱では食も乏しく、布団二枚・銭三千で車駕を賄う有様となった。懐帝は劉曜に包囲され、府庫は尽き百官は飢え、人が人を食った。愍帝も長安で斗米二金に及ぶ飢饉に遭い、死者は過半を超え、劉曜の包囲で屑を集めて帝に供する有様であった。元帝が渡江した当初は軍事が草創で、中府の蓄えは布四千匹ほどしかなく、石勒の侵攻を懼れ「石勒の首を斬った者に布千匹を賞す」との詔を発した。
曹魏諸臣の屯田・水利事績
- 後漢末、董卓の乱で穀物一石が五十余万銭に達し人が人を食う惨状となった。魏武帝が黄巾を破った後、羽林監の棗祗が屯田を建議し、曹操は「強兵足食こそ国を定める術」として任峻を典農中郎将とし、許下に募民屯田させ穀百万斛を得た。郡国に田官を置き数年で倉廩は満ちた。棗祗の死後、曹操はその功を追賞し子を封じた。
- 建安初、関中から荊州に流入した十余万家の民は帰郷を望んだが生業がなかった。衛覬は「塩は国の大宝、旧のごとく使者を置いて専売し、その利益で耕牛を購い帰還民に供給すべし」と献策し、曹操は謁者僕射を派して塩官を監督させ、流民は関中に戻り豊かになった。
- 沛国の劉馥は揚州刺史として合肥を鎮め、芍陂・茹陂・七門・呉塘の堤を修めて稲田を灌漑し、代々の利益となった。賈逵は豫州刺史として汝水を堰き止め新陂を築き、二百余里の運河(賈侯渠)を通した。黄初年間、各地の郡守が開墾を進め国用が窮しなかった。
- 京兆太守の顔斐は、馬超の乱後に車牛のなかった百姓に農閑期の木材伐採と養豚による牛購入を奨励し、一二年で京兆は豊かになった。沛郡太守の鄭渾は低湿地で水害に苦しむ蕭・相二県に堤と稲田を興し、一冬で完成させ、租収は倍増して「鄭陂」と称えられた。涼州刺史の徐邈は武威・酒泉の塩池を修め水田を開いて貧民に佃作させ、西域との交易で財貨を通わせた。敦煌太守の皇甫隆は、耬犁(播種具)や灌漑法を知らなかった敦煌の民に教え、労力を半減させ収穫を五割増した。
曹魏末期の屯田拡大と鄧艾の献策
- 嘉平4年、宣帝(司馬懿)は冀州の農夫五千人を上邽に移し、京兆・天水・南安の塩池を興し軍需を増やした。青龍元年には成国渠・臨晋陂を築き汧水・洛水を引いて三千余頃の塩害地を灌漑した。正始4年、宣帝が諸葛恪を討った際、鄧艾が陳・項以東から寿春に至る土地を視察し、「田良く水少なし、河渠を開けば軍糧を大いに積み運漕も通じる」として『済河論』を著した。淮北二万人・淮南三万人を交代で耕作と防備にあて、六七年で淮北に三千万余斛を蓄え、十万の軍の五年分の食糧に相当すると計算した。宣帝はこれを採用し、鐘離から沘水まで四百余里に五里ごとに営を置き、広陽渠・百尺渠を修めて潁南北の陂を大治し、二万頃を灌漑した。寿春から都まで農官・兵田が連なり、大軍出征の際の物資供給と水害防止に大いに役立った。
西晉建国後の勧農政策
- 晉が天下を受けると、武帝は江表(呉)平定を志し、穀物が安く布帛が高いため布帛で穀物を買う平糴法を立てようとしたが、議者は時期尚早とした。泰始2年の詔では、豊年に奢り凶年に困窮するのは古来の理であり、平糴の法で財を均すべきだが実行は久しく廃れているとし、条制を定めるよう命じたが実現しなかった。
- 泰始4年正月、帝は自ら藉田を耕し、郡県長吏に農功に励むよう詔した。この年、常平倉を立て豊作時に買い、凶作時に売って民を利した。5年には郡国の計吏・守相に地の利を尽くし遊食商販を禁じるよう命じ、休暇者にも農耕への協力を求めた。汲郡太守王宏が五千余頃の開墾を督励し飢饉時にも郡内に欠乏がなかったとして穀千斛を賜り天下に布告された。8年、司徒石苞の建議で州郡の農桑に優劣評価の制度を設けた(『石苞伝』参照)。10年、光禄勲夏侯和が新渠・富寿・游陂の三渠を修め千五百頃を灌漑した。
咸寧年間の水害と杜預の献策
- 咸寧元年12月、鄴の官奴婢を新城に移し屯田兵として稲作にあたらせる詔が出された。3年、潁川・襄城で春から種蒔きができない水害・虫害が起こり、杜預が上疏した。
- 杜預は、東南の水害が特にひどく、五穀が収穫できないだけでなく高地も痩せ、来年の困窮が予想されると訴え、朝廷が長吏に対策を命じても大局的な制度改革がなければ実効がないとした。魚介・田螺の採取を許して当面の飢えを凌がせ、水が引いた後の泥土は肥沃で春には大豊作が期待できるとした。また、耕作に使えない老いた種牛(大小合わせて四万五千余頭)を売却して穀物や賞与に換えるべきだと述べた。
- 詔は「繁殖用の家畜は減らすべきでない」として一旦停止となったが、後に議論の末、種牛のうち三万五千頭を東南二州の将吏士庶に分配し、豊作後に一頭三百斛を課すという案が採用され、無用の費用を七百万斛の実収に変える計画となった。良種一万頭は右典牧都尉に管理させることとした。
- 杜預は続けて、火耕水耨(火で焼いて耕し水で除草する農法)は新開地には有効だが、人口増加につれ堤(陂)が決壊し良田が湿地化した現状には合わないと論じた。旧来の堤は修復すべきだが、魏代以降に無秩序に造られた堤や決壊した堤(馬腸陂の類)は排水すべきだと主張し、尚書胡威や宋侯相応遵の先例を挙げた。豫州の水田は実際には七千五百余頃にすぎず、三年分の備蓄も二万余頃を超えないとし、過剰な貯水はかえって水害を招くとして、漢代の旧制に倣った修繕・排水計画を冬季の休兵期に実施するよう求めた。朝廷はこれに従った。
呉平定後の宅地・田制
- 呉平定後、有司は「王公は国を家とし、京城に重ねて田宅を持つべきでない」とする詔に基づき、京城内は一宅のみとし、近郊の田は大国十五頃・次国十頃・小国七頃と定める案を上奏した。
戸調の式(占田・課田・蔭客の制度)
- 戸調の式:丁男の戸は年に絹三匹・綿三斤、女戸・次丁男の戸はその半分。辺郡は三分の二、遠方は三分の一とする。夷人は賨布を戸ごとに一匹(遠方は一丈)納める。
- 占田は男子一人七十畝、女子三十畝。うち課税対象の課田は丁男五十畝・丁女二十畝、次丁男はその半分、女は課さない。十六歳から六十歳までを正丁、十三~十五歳・六十一~六十五歳を次丁、十二歳以下・六十六歳以上を老小として不課とする。課田できない遠夷は義米(戸三斛、遠方五斗)、極遠は算銭(一人二十八文)を納める。
- 官品第一から第九までは身分に応じて占田を許され、第一品五十頃、第二品四十五頃、第三品四十頃、第四品三十五頃、第五品三十頃、第六品二十五頃、第七品二十頃、第八品十五頃、第九品十頃。品の高卑により親族を蔭ずることもでき、多い者は九族、少ない者は三世に及ぶ。宗室・国賓・先賢の子孫・士人の子孫も同様。
- さらに衣食客・佃客を蔭ずることができ、第六品以上は衣食客三人、第七・第八品は二人、第九品および輦を舁ぐ者・禽を追う者・前駆・由基・強弩・司馬・羽林郎・殿中冗従武賁・殿中武賁・持椎斧武騎武賁・持鈒冗従武賁・命中武賁武騎は一人。佃客は官品第一・第二は五十戸以内、第三品十戸、第四品七戸、第五品五戸、第六品三戸、第七品二戸、第八・第九品一戸まで許された。
惠帝以後の混乱と元帝の勧農
- 当初は賦税が平均し民は業を安んじたが、惠帝以後は政教が衰え、永嘉年間には喪乱が激化した。雍州以東では民が互いに売買され流民が数え切れず、幽・并・司・冀・秦・雍の六州は大蝗害に見舞われ草木や牛馬の毛まで食い尽くされた。疫病と飢饉が重なり、盗賊にも殺され死屍が河を埋めた。劉曜が迫ると朝廷は倉垣への遷都を議したが、人が人を食い、百官の八九割が流亡した。
- 元帝は晋王として、二千石長吏の勤務評定を穀物収納量で行うよう督励し、宿衛の要職以外は農事に赴かせ軍にも自作させた。太興元年、徐・揚二州に三麦(大麦・小麦・裸麦)の栽培を督促する詔を出し、秋に播種し夏に収穫させて端境期の食料とした(漢の氾勝之の故事を引く)。太興2年、三呉で大飢饉が起こり、呉郡太守鄧攸は独断で倉廩を開いて賑済した。元帝は虞・桓彝を派して倉廩を開放させ徭役を省いた。
- 後軍将軍応詹は上表し、「一人が耕さねば天下に飢える者が必ず出る」とし、軍興以来の遊食の徒が十万を数えると指摘、曹操の屯田の故事に倣い流人を集めて農官を復興すべきだと説いた。趙充国の金城での屯田、諸葛亮の渭浜での屯田を引き、都督には文武の才ある者を選び壽春を拠点とすべきと論じた。
成帝以後の田租と社会
- 咸和5年、成帝は初めて百姓の田を検地し十分の一の税(畝あたり米三升)を課した。6年、海賊の妨害で運漕が続かず、王公以下の余丁に米六斛の輸送を課した。以後、水害・旱害・蝗害が続き、咸康初には計税米五十余万斛が徴収不能となり、尚書褚裒以下が免官となった。穆帝の代には度々の大軍で糧運が続かず、王公以下十三戸で一人を出させ度支の輸送を助けさせた。昇平初、荀羨は下邳に鎮して東陽の石鱉に田を興し官民ともに利を得た。哀帝は即位すると田租を減らし畝二升とした。孝武帝太元2年、検地収租の制を廃し口税三斛とし(服役者は免除)、8年には口税米五石に増やしたが、末年には天下無事で穀帛が豊かになり、ほぼ家給人足の状態となった。
貨幣制度の変遷――漢から魏へ
- 漢は旧来五銖銭を用いていたが、王莽の改革で民は不便を被った。公孫述が蜀で自立した際、童謡「黄牛白腹、五銖当復」が流行り、王莽の黄を継ぐ白帝を自称した公孫述に対し「漢が再び天下を統べる」との意が込められていたという。光武帝は王莽の貨泉を廃し、建武16年には馬援の上書に従い五銖銭を復鋳し、天下はこれを便とした。
- 章帝の代、穀帛の価格高騰で財政が逼迫し、尚書張林は布帛を租とし塩を官営とする案(漢武帝の均輸の故事)を献じたが、尚書硃暉は「天子は有無を語らず、諸侯は多少を語らず、俸禄を食む者は民と利を争わない」と反対し、帝は林の意見に一時傾いたが暉の議を容れ、少時で中止した。
桓帝期の鋳銭論争――劉陶の上議
- 桓帝の代、貨幣が薄く軽いために貧困が起こるとして大銭を鋳るべしとの上書があり、群僚と太学の識者に諮問された。孝廉劉陶は上議し、「今日の憂いは貨幣ではなく飢えにある。良い苗はことごとく蝗の口に、機織りの糸は公私の徴発に尽きた。銭の厚薄・銖両の軽重を論じている場合ではない」と説いた。
- さらに「議者は農殖の根本を理解せず鋳造の便を説くが、鋳造を許せば奪い合いが起こり、万人が鋳れば万人が奪う。陰陽を炭とし万物を銅としても、際限のない欲求は満たせない」と論じ、「民財を豊かにするには徭役を止め奪取を禁じることこそ肝要。鋳銭で貨幣を整えようとするのは、沸き立つ鼎で魚を養い、燃え盛る火の上に鳥を置くようなもの」と諫めた。帝はついに鋳銭を行わなかった。
董卓・魏晉の貨幣政策
- 献帝の初平年間、董卓が小銭を鋳造したため貨幣は軽く物価は高騰し、穀一斛が数百万銭に達した。魏武帝が丞相となるとこれを廃し五銖銭に戻したが、久しく鋳造がなかったため貨幣量が増えず穀物価格は低いままであった。黄初2年、魏文帝は五銖銭を廃し穀帛を市の交換手段とした。明帝の代には銭廃止が長く続き、湿らせた穀物や薄い絹を市に出す不正が横行し厳刑でも禁じられなかった。司馬芝らの建議により、明帝は五銖銭を再興し、以後晋に至るまで改鋳はなかった。
- 呉の孫権は嘉禾5年に一枚五百に相当する大銭を、赤烏元年には一枚千に相当する当千銭を鋳造した。呂蒙が荊州を平定した際、孫権は一億銭を賜ったが、実際には空名に過ぎず民の不満を招いたため、孫権は使用を停止し器物に鋳直させ、民間の保有分もすべて官に納めさせた。
東晉の貨幣と孔琳之の議
- 晋は中原喪乱の後、元帝渡江後は孫氏時代の旧銭(比輪銭・四文銭)を軽重雑然と用い、呉興の沈充が鋳造した「沈郎銭」も流通した。銭が乏しいため貨幣価値は次第に高くなった。孝武帝太元3年、詔は「銭は国の重宝であり、小人が利のために銷毀することを監司は戒めよ」とし、広州の夷人が銅鼓を貴ぶことに乗じて比輪銭を溶かし密輸する者を厳罰に処すとした。
- 安帝元興年間、桓玄が輔政となり銭を廃して穀帛を用いる案を議したが、孔琳之が反対意見を述べた。孔琳之は、貨幣は交易の要であり、穀帛を貨幣に転用すれば損耗が大きく、鐘繇が指摘したような湿らせた穀物・薄い絹の不正が魏代に横行した先例を挙げ、司馬芝の「銭の使用は国を富ませるだけでなく刑罰を省く」との説を引いた。銭の廃止は兵乱による長年の不使用が原因であり、今これを廃止すれば民の利益を奪うことになるとし、「銭を持ち糧なき者」がかえって困窮すると論じた。
- また、銭を用いる地は貧しいとは言えず穀を用いる地が豊かとも限らないとし、魏明帝の代の大議論でも識者は皆銭の復活を支持したと述べた。魏氏が長く銭を使わなかったのは蓄財のためだという説を否定し、晋の先賢たちも一時の勲功より万世の益を重んじたはずだとし、孝武帝末年の天下太平は銭の存在が妨げにならなかった証左だとした。近年の兵乱や飢饉は銭のせいではなく、農本の教えを広め民時を敬い授けることこそ救弊の道であり、銭を廃するべきではないと結論した。朝議の多くが孔琳之に同調し、桓玄の議は実行されなかった。