江左における雅楽の復興
- 永嘉の乱で伶官・楽器は劉聡・石勒の手に落ちた。江左(東晋)で宗廟を立てた際、尚書が太常に祭祀用の楽名を問うと、太常賀循は「魏氏は漢楽を増減して一代の礼としたが、喪乱により旧典は失われ、今この楽の由来を語ることは難しい」と答えた。当時は雅楽器も伶人もなく太楽と鼓吹令は省かれたが、その後登歌・食挙の楽はある程度復されたもののなお不備であった。
- 太寧末、明帝は阮孚らに命じてこれを増補させ、咸和中、成帝は太楽官を再置して散逸した楽人を集めたが金石はまだなかった。庾亮が荊州にあった時謝尚と雅楽の修復を図ったが未完のまま亮は薨じ、庾翼・桓温は軍事に専念したため楽器は庫で朽ち果てた。慕容儁が冉閔を平定した際に鄴の楽人が江南に流入し、永和十一年、謝尚が寿陽鎮守の折に楽人を集め石磬を制作して雅楽がようやく整い始めた。王猛が鄴を平定すると慕容氏の楽が関右に入り、太元中に苻堅を破った際には楽工楊蜀らを得て四廂の金石が完備した。曹毗・王珣らに宗廟の歌詩を増作させたが、郊祀では結局楽を用いないままとなった。
宗廟歌辞(曹毗・王珣ら作)
- 歴代の帝(宣帝・景帝・文帝・武帝・元帝・明帝・成帝・康帝・穆帝・哀帝・簡文帝・孝武帝)それぞれを称える〈歌宣帝〉以下の登歌が作られ、各帝の功業・徳治・平定した敵(呉・蜀等)を称揚する内容で統一されている。〈四時祠祀〉の歌も併せて作られ、四季の祭祀での神の来格を祈る。
短簫鐃歌の沿革
- 漢代の《短簫鐃歌》には《朱鷺》《思悲翁》《艾如張》《上之回》《雍離》《戦城南》《巫山高》《上陵》《将進酒》《君馬黄》《芳樹》《有所思》《雉子班》《聖人出》《上邪》《臨高台》《遠如期》《石留》《務成》《玄雲》《黄爵行》《釣竿》等の曲があり、鼓吹に列し多く戦陣の事を述べた。
- 魏は繆襲に命じて十二曲を改作し、曹操・魏の功徳を述べさせた(例:《朱鷺》→《楚之平》=魏を言う、《思悲翁》→《戦滎陽》=曹公の事、《艾如張》→《獲呂布》、《上之回》→《克官渡》、《雍離》→《旧邦》、《戦城南》→《定武功》、《巫山高》→《屠柳城》、《上陵》→《平南荊》、《将進酒》→《平関中》、《有所思》→《応帝期》、《芳樹》→《邕熙》、《上邪》→《太和》。残りは旧名のまま)。
- 呉も韋昭に十二曲名を改めさせ、孫氏の功業を述べさせた(《朱鷺》→《炎精缺》以下、孫堅・孫権の事績にちなむ改名が並ぶ。烏林の戦、関羽討伐等の故事も含まれる)。
- 武帝の受禅後、傅玄に二十二篇を作らせ、魏に代わった晋の功徳を述べさせた。改名の由来として、宣帝の諸葛亮対応・公孫氏討伐、景帝・文帝の統治、武帝受禅の経緯、四時の田猟(春の振旅、夏苗、秋獮、冬大閲)などが詠まれている(〈霊之祥〉〈宣受命〉〈征遼東〉〈宣輔政〉〈時運多難〉〈景龍飛〉〈平玉衡〉〈文皇統百揆〉〈因時運〉〈惟庸蜀〉〈天序〉〈大晋承運期〉〈金霊運〉〈於穆我皇〉〈仲春振旅〉〈夏苗田〉〈仲秋獮田〉〈順天道〉〈唐堯〉〈玄雲〉〈伯益〉〈釣竿〉の各篇。惟庸蜀の篇では蜀の劉備・姜維の抵抗と文帝による平定が、伯益・釣竿の篇では周文王・呂尚の故事や瑞祥がそれぞれ詠まれる)。
鼙舞
- 鼙舞の起源は詳らかでないが漢代から宴享に用いられ、傅毅・張衡の賦にも見える。旧曲五篇(《関東有賢女》《章和二年中》《楽久長》《四方皇》《殿前生桂樹》)は辞が失われている。曹植「鼙舞詩序」によれば、漢霊帝の西園鼓吹の楽人李堅が鼙舞を能くしたが世の乱で流浪し、魏文帝が旧伎を聞いて召したが古曲の多くに誤りがあったため前曲に依り新歌五篇を作らせたという。泰始中にも改めて辞が作られた。舞は本来二八であったが、桓玄が簒位を企てた際、尚書殿中郎袁明子が八佾に増やすことを進言した。
- 泰始中の歌辞五篇:〈洪業篇〉(魏曲《明明魏皇帝》・古曲《関東有賢女》に相当、宣帝の創業と武帝の受命を詠う)、〈天命篇〉(魏曲《太和有聖帝》・古曲《章和二年中》に相当、宣帝の諸葛亮対応・曹爽討伐等を詠う)、〈景皇篇〉(魏曲《魏暦長》・古曲《楽久長》に相当、景帝が夏侯玄・李豊らの陰謀や毌丘倹・文欽の乱を平定した事績)、〈大晋篇〉(魏曲《天生蒸民》・古曲《四方皇》に相当、文帝の徳と蜀・呉への働きかけ、封建の制を詠う)、〈明君篇〉(魏曲《為君既不易》・古曲《殿前生桂樹》に相当、明君と暗君・忠臣と佞臣の対比を説く教訓的内容)。
拂舞
- 拂舞は江左に由来し、旧来「呉舞」と称されたが歌辞を検すると呉の辞ではない。楊泓の序によれば、江南に来て《白符舞》(あるいは《白鳧鳩舞》)を見たが、これは呉人が孫皓の虐政を患い晋への帰属を思う心情を詠んだものだという。
- 歌辞として〈白鳩篇〉(瑞祥の白鳩・白雀を詠み君徳を讃える)、〈済済篇〉(無常を嘆き飲酒歓楽を詠う)、〈独禄篇〉(世相の不条理、父の冤罪への憤りなどを詠う)、〈碣石篇〉(曹操の作とされる《観滄海》《冬十月》《土不同》《亀雖寿》の四章を含む)、〈淮南王篇〉(淮南王の栄華と望郷の情)が収められる。
鼓角横吹
- 鼓角横吹曲について、鼓は『周礼』に「鼖鼓を以て軍事に鼓す」とあり、角は蚩尤が黄帝と涿鹿で戦った際、黄帝が角を吹いて龍鳴とし防いだのに始まるという。魏武帝の烏丸北征の際、軍士の望郷の情から中鳴に減じ、さらに悲壮な曲となった。
- 胡角は元来胡笳の音に応じたもので、後に横吹に用いられ双角となった(胡楽)。張騫が西域から伝えた《摩訶兜勒》一曲を、李延年が胡曲に基づき新声二十八解を作り乗輿の武楽とした。後漢では辺将に給し、和帝の代には万人将軍が用いた。魏晋以降二十八解の多くは失われ、現存するのは《黄鵠》《隴頭》《出関》《入関》《出塞》《入塞》《折楊柳》《黄覃子》《赤之楊》《望行人》の十曲。
- 魏晋の代には孫氏(旧曲に善)、宋識(撃節唱和に善)、陳左(清歌に善)、列和(吹笛に善)、郝索(弾箏に善)、朱生(琵琶に善、新声を多く発する)が名手として知られ、傅玄も著書でこの六人を高く評価した。
- 相和は漢の旧歌で絲竹が互いに和し節を執る者が歌う。本来一部であったが魏明帝が二部に分け夜番を交代させた。本十七曲を朱生・宋職・列和らが十三曲にまとめた。
- 但歌は四曲、漢代に始まり弦節を用いず一人が唱え三人が和す。魏武帝が特に好み、宋容華という歌手が名手であったが、晋以降伝わらず絶えた。
- 現存する楽章古辞は漢代の街陌謡謳(《江南可採蓮》《烏生十五子》《白頭吟》の類)や呉歌雑曲で、江南に由来し東晋以降さらに増補された。《子夜歌》は女子子夜が作った声で、孝武帝太元中の琅邪王軻之の家に現れた鬼が《子夜》を歌った話から、子夜はそれ以前の人物とされる。《鳳将雛歌》は旧曲で応璩「百一詩」にも言及がある。《前渓歌》は車騎将軍沈充の作。《阿子》《歓聞歌》は穆帝升平初、歌の終わりに「阿子、汝聞不」と呼びかけた慣習に由来する(詳細は「五行志」)。《団扇歌》は中書令王瑉が嫂の婢を愛し、嫂がその婢を過度に折檻したことを歌ったもの。《懊憹歌》は隆安初の訛謡(「五行志」参照)。《長史変》は司徒左長史王廞の敗死に際して作られた。これらはいずれも初め徒歌であったものが管弦を伴うようになった。
- 舞についても、《杯柈舞》(太康年間の《晋世寧舞》、手で杯柈を扱う)、《公莫舞》(今の《巾舞》、項荘の剣舞に項伯が袖で隔てた故事に由来するとされるが、『琴操』の《公莫渡河曲》により由来はさらに古いとする異説もある)、《白紵舞》(呉地の紵に由来するとされる)、《鐸舞歌》《幡舞歌》《鼓舞伎》六曲などが元会で演じられた。
正旦の百戲と削減の議論
- 後漢の正旦、天子は徳陽殿で朝賀を受け、舎利獣の芸、比目魚の水芸、龍の演出、綱渡りなどの百戲が行われた。魏晋から江左に至るまで《夏育扛鼎》《巨象行乳》《神亀抃舞》《背負霊嶽》《桂樹白雪》《画地成川》などの伎楽が伝わった。
- 成帝咸康七年、尚書蔡謨は正会の儀注として鼓吹鐘鼓のみとし他の伎楽を廃すよう奏したが、侍中張澄・給事黄門侍郎陳逵は吉凶の別を理由に反対し、詔では「天下の体を重んじ礼は権宜に従うべきだが、耳目を悦ばせる楽は忍びないため廃す」とされた。その後の応酬でも張澄・陳逵は咸寧の先例(撤楽の典)を再度主張し、詔は「量りて軽重を制するべき」とした。
- 散騎侍郎顧臻は上表し、聖王の制楽の意義を説きつつ、逆行連倒・頭足を筥に入れる類の伎(曲芸)は人体を損なう危険な芸であり、四海が朝覲する場にふさわしくないとして廃止を訴えた。その結果、《高絙》《紫鹿》《跂行》《鱉食》《斉王卷衣》《笮児》等の楽が廃され廩も減らされたが、後に《高絙》《紫鹿》は復活した。