晉書卷六 帝紀第六 元帝・明帝

元帝――出自と生い立ち

  • 元皇帝は諱を睿、字を景文といい、宣帝(司馬懿)の曾孫、琅邪恭王司馬覲の子である。咸寧二年(276年)洛陽で生まれ、生まれつき神秘的な光の異象があったと伝わる。15歳で琅邪王を継いだ。
  • 若い頃から評判がよく、恵帝の代の内乱期には常に謙虚に身を慎み難を免れた。物静かで思慮深く、目立った動きを見せなかったため当時の人々にはその器量を知られていなかったが、侍中の嵇紹だけは「琅邪王の骨柄は尋常でなく、ただの臣下の相ではない」と評した。
  • 元康二年(292年)員外散騎常侍に任じられ、のち左将軍に昇り、成都王司馬穎討伐に従軍した。蕩陰の戦いの敗北に際し、叔父の東安王司馬繇が司馬穎に殺され、身の危険を感じて脱出を図った際、突然の雷雨に紛れて禁衛の目を逃れることができた。河陽の関で誰何された際は従者の宋典の機転で通過できたという逸話が残る。
  • 東海王司馬越が下邳で兵を集めた際、輔国将軍に任じられ、のち平東将軍・監徐州諸軍事となり下邳を鎮した。さらに安東将軍・都督揚州諸軍事に昇り、司馬越が皇帝を迎えに西へ向かった際には留守を任された。永嘉初年(307年)、王導の献策により建鄴(建康)に鎮を移し、顧栄を軍司馬、賀循を参佐とし、王敦・王導・周顗・刁協らを腹心とした。名士を礼遇し民情を訪ねたため、江東の人心は帰服した。
  • 母の夏侯太妃が国で薨じた際に自ら喪に赴き、葬儀の後、宣城郡二万戸を加増され、鎮東大将軍・開府儀同三司に進んだ。司馬越の命で征東将軍周馥を討ち、これを敗走させた。懐帝が平陽で捕虜となると、司空荀籓らが天下に檄を飛ばし、司馬睿を盟主に推した。江州刺史華軼がこれに従わなかったため、豫章内史周広・前江州刺史衛展に討たせて捕えさせた。愍帝の即位後、左丞相に加えられ、翌年には丞相・大都督中外諸軍事に進んだ。諸将を分遣して江東を平定し、宣城で反乱者の孫弼を斬り、湘州で杜弢を平定し、承制して荊揚を赦した。
  • 西都(長安)が守れなくなると、自ら出征し、天下に檄を発して兵を徴し、討伐の日限を定めた。この頃、臨安に玉冊、江寧に「長壽萬年」と刻んだ白玉麒麟の神璽が現れ、太陽に重暈が生じるなど、いずれも中興の兆しとされた。

建武元年(317年)

  • 春二月辛巳、平東将軍宋哲が至り、愍帝の詔を宣べた。詔には運が悪化し皇統が振るわないため丞相に万機を摂り旧都の修復を図らせるとの内容が記されていた。
  • 三月、愍帝の危急を悼んで喪に服したのち、西陽王司馬羕ら群臣が尊号を勧めたが、司馬睿は固辞した。羕らが死を賭して重ねて請うと、司馬睿は「自分は罪人であり、ただ節に殉じて天下の恥を雪ぎたい」と涙して答え、いったんは琅邪国へ帰ろうとしたため群臣は強要をやめ、魏晋の故事に倣い晋王となることを願い出て、これを許した。辛卯、晋王位に即き、大赦・改元した。祖父母・父母を殺した者、および劉聡・石勒はこの赦の対象外とした。掾属百余名を召し出し、当時「百六掾」と呼ばれた。百官を備え、宗廟社稷を建康に立てた。四方から瑞祥が続々と奏上されたが、司馬睿は「自分は四海への責めを負い、まだ過ちを省みてもいないのに、どうして祥瑞などありえようか」と述べた。
  • 丙辰、世子の司馬紹を晋王太子に立てた。撫軍大将軍・西陽王司馬羕を太保、征南大将軍・漢安侯王敦を大将軍、右将軍王導を都督中外諸軍事・驃騎将軍、左長史刁協を尚書左僕射とした。皇子の宣城公司馬裒を琅邪王に封じた。
  • 六月丙寅、司空・并州刺史の劉琨、幽州刺史の段匹磾、護烏丸校尉の劉翰、単于段辰、遼西公段眷、冀州刺史邵続、青州刺史曹嶷、兗州刺史劉演、東夷校尉崔毖、鮮卑大都督慕容廆ら計180人が連名で勧進の上書を奉った。上書は、宣皇帝以来の晋室の功徳と天命が司馬睿にあることを述べ、尊号に即くよう強く求める内容であった。司馬睿は丁重な言葉で答え、詳細は劉琨伝に記す。
  • 石勒配下の石季龍が譙城を包囲したが、平西将軍祖逖がこれを撃退した。己巳、司馬睿は石勒の暴虐を糾弾し、車騎将軍・琅邪王司馬裒ら九軍・精兵三万を派して祖逖の指揮下に入れ、石季龍を討たせる檄を発した。石季龍の首を得た者には絹三千匹・金五十斤・県侯の封と食邑二千戸を与えると布告した。
  • 七月、散騎侍郎朱嵩・尚書郎顧球が死去し、司馬睿は先例にないことながら哀悼の礼を行った。丁未、梁王司馬悝が薨じた。太尉荀組を司徒とし、山沢の禁を緩めた。
  • 八月甲午、梁王世子司馬翹を梁王に封じた。荊州刺史第五猗が反乱者杜曾に推されて共に反した。
  • 九月戊寅、王敦が武昌太守趙誘・襄陽太守朱軌・陵江将軍黄峻に第五猗を討たせたが、杜曾に敗れ趙誘らは戦死した。石勒が京兆太守華諝を殺害した。梁州刺史周訪は杜曾を討って大破した。
  • 十月丁未、琅邪王司馬裒が薨じた。
  • 十一月甲子、汝南王の子司馬弼を新蔡王に封じた。丁卯、司空劉琨を太尉とした。史官を置き、太学を立てた。
  • この年、揚州は大旱であった。

大興元年(318年)

  • 春正月戊申朔、司馬睿は朝に臨んだが音楽を廃した。
  • 三月癸丑、愍帝崩御の報が届き、司馬睿は喪服して廬に籠った。丙辰、百官が尊号を上ったので、これを受けてこの日皇帝に即位した。詔して、高祖宣帝以来の功業を継ぎ、文祖より天命を受けたことを述べ、大赦・改元し、文武の官に二階級を加えた。庚午、王太子司馬紹を皇太子に立てた。
  • 壬申、詔して、為政の要は実行にあり言葉にはないと説き、政績著しい者・冤獄を除いた者を推薦させ、無能で世評を飾る者も併せて報告させた。遠方からの贈答儀礼も一切禁じた。
  • 夏四月丁丑朔、日食があった。大将軍王敦に江州牧を加え、驃騎将軍王導を開府儀同三司に進めた。戊寅、招魂葬を初めて禁じた。乙酉、西平で地震。
  • 五月癸丑、使持節・侍中・都督・太尉・并州刺史の劉琨が段匹磾に殺害された。
  • 六月、旱魃のため自ら雩祭を行った。丹陽内史を丹陽尹と改めた。甲申、尚書左僕射刁協を尚書令、平南将軍・曲陵公荀崧を尚書左僕射とした。庚寅、滎陽太守李矩を都督司州諸軍事・司州刺史とした。戊戌、皇子司馬晞を武陵王に封じた。諫鼓・謗木を初めて置いた。
  • 秋七月戊申、詔して二千石の地方官・州牧刺史に法の遵守と互いの監察を命じた。劉聡が死に、子の劉粲が偽位を継いだ。
  • 八月、冀・徐・青の三州で蝗害があった。靳准が劉粲を弑して漢王を自称した。
  • 冬十月癸未、広州刺史陶侃に平南将軍を加えた。劉曜が赤壁で皇帝を僭称した。
  • 十一月乙卯、夜に太陽が二つ現れたような異象があり、新蔡王司馬弼が薨じた。大将軍王敦に荊州牧を加えた。庚申、雷震・暴雨を天の譴責として詔を発し、群臣に上封事を求めた。聴訟観を新設した。孫皓の子孫璠の謀反が発覚し誅殺された。
  • 十二月、劉聡の旧将王騰・馬忠らが靳准を誅し、伝国璽を劉曜に送った。武昌で地震。丁丑、顕義亭侯司馬煥を琅邪王に封じたが、己卯にはこの司馬煥が薨じた。癸巳、呉の高徳の名賢で未だ顕彰されていない者を挙げるよう詔した。江東三郡が飢饉となり使者を遣わして救済した。彭城内史周撫が沛国内史周黙を殺して反した。

大興二年(319年)

  • 春正月丁卯、崇陽陵が壊れ、司馬睿は素服して三日哭し、修復のため使者を派した。平陽に梓宮(愍帝の柩)を迎えに行かせたが果たせず戻った。
  • 二月、太山太守徐龕が周撫を斬り首級を京師に送った。夏四月、龍驤将軍陳川が浚儀で叛し石勒に降った。徐龕も郡ごと叛して兗州刺史を自称、済岱を侵した。秦州刺史陳安も叛して劉曜に降った。
  • 五月癸丑、太陽陵が壊れ、素服して三日哭した。徐楊・江西諸郡で蝗害、呉郡は大飢饉となった。平北将軍祖逖と石勒配下の石季龍が浚儀で戦い、官軍が敗れた。壬戌、天下の疲弊と飢饉を憂い、呉起の故事を引いて不急の官職・支出を省くよう詔した。甲子、梁州刺史周訪が杜曾を武当で破って斬り、第五猗を捕えた。
  • 六月丙子、周訪に安南将軍を加えた。御府と諸郡丞を廃し、博士を五人置いた。己亥、太常賀循に開府儀同三司を加えた。
  • 秋七月乙丑、太常賀循が卒した。
  • 八月、粛慎が楛矢石砮を献じた。徐龕が東莞を侵したため、太子左衛率羊鑒を征虜将軍代行とし、徐州刺史蔡豹とともに討たせた。
  • 冬十月、平北将軍祖逖が督護陳超に命じ石勒配下の桃豹を襲わせたが敗れ、陳超は戦死した。
  • 十一月戊寅、石勒が王位を僭称し、国号を趙とした。
  • 十二月乙亥、大赦し百官に上封事を命じ、諸役を省いた。鮮卑の慕容廆が遼東を襲い、東夷校尉・平州刺史崔毖は高句麗に奔った。
  • この年、南陽王司馬保が祁山で晋王を称した。三呉は大飢饉であった。

大興三年(320年)

  • 春正月丁酉朔、晋王司馬保が劉曜に迫られ桑城に移った。
  • 二月辛未、石季龍が猒次を侵し、平北将軍・冀州刺史邵続が撃ったが敗れて戦死した。
  • 三月、慕容廆が玉璽三紐を奉送した。
  • 閏月、尚書周顗を尚書僕射とした。
  • 夏四月壬辰、枉矢(流星)が翼軫の間を流れた。
  • 五月丙寅、孝懐帝の太子司馬詮が平陽で害され、司馬睿は三日哭した。庚寅、地震。この月、晋王司馬保が部将張春に殺害された。劉曜が陳安に張春を攻めさせ滅ぼしたが、陳安はこれを機に劉曜に叛いた。石勒配下の徐龕が衆を率いて投降した。
  • 六月、大水。丁酉、西中郎将・護羌校尉・涼州刺史・西平公張寔が盗賊に殺され、弟の張茂が平西将軍・涼州刺史を継いだ。
  • 秋七月丁亥、詔して先父武王・恭王が琅邪を治めた恩沢を讃え、琅邪の遺民千戸を懐徳県として立て丹陽郡に属させ、漢の沛・南頓の故事に倣い租税を優遇した。祖逖配下の衛策が汴水で石勒の別軍を大破した。祖逖を鎮西将軍とした。
  • 八月戊午、敬王后虞氏を敬皇后に尊んだ。辛酉、神主を太廟に遷した。辛未、梁州刺史・安南将軍周訪が卒した。皇太子が太学で釈奠を行った。湘州刺史甘卓を安南将軍・梁州刺史とした。
  • 九月、徐龕がまた叛して石勒に降った。
  • 冬十月丙辰、徐州刺史蔡豹が臆病を理由に誅された。王敦が武陵内史向碩を殺した。

大興四年(321年)

  • 春二月、徐龕がまた投降した。鮮卑の末波が皇帝信璽を奉送し、太廟に告げてこれを受けた。癸亥、日鬭(太陽同士がぶつかる異象)があった。
  • 三月、周易・儀礼・公羊の博士を置いた。癸酉、平東将軍曹嶷を安東将軍とした。
  • 夏四月辛亥、司馬睿は自ら庶獄を検分した。石勒が猒次を攻め陥した。撫軍将軍・幽州刺史段匹磾が石勒に降った。
  • 五月、旱魃。庚申、漢魏の先例に倣い中州の良民で揚州の僮客となっていた者を良民に戻し徴役に備えると詔した。
  • 秋七月、大水。甲戌、尚書戴若思を征西将軍・都督司兗豫幷冀雍六州諸軍事・司州刺史として合肥に鎮させ、丹陽尹劉隗を鎮北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事・青州刺史として淮陰に鎮させた。壬千、驃騎将軍王導を司空とした。
  • 八月、常山で山崩れがあった。
  • 九月壬寅、鎮西将軍・豫州刺史祖逖が卒した。
  • 冬十月壬午、祖逖の弟侍中祖約を平西将軍・豫州刺史とした。
  • 十二月、慕容廆を持節・都督幽平二州東夷諸軍事・平州牧とし、遼東郡公に封じた。

永昌元年(322年)

  • 正月乙卯、大赦・改元した。戊辰、大将軍王敦が劉隗誅伐を名目に武昌で挙兵し、龍驤将軍沈充がこれに応じた。
  • 三月、征西将軍戴若思・鎮北将軍劉隗を召還して京都を守らせた。司空王導を前鋒大都督とし、戴若思を驃騎将軍とし、丹陽諸郡すべてに軍号を加えた。僕射周顗を尚書左僕射、領軍王邃を尚書右僕射とした。太子右衛率周筵を冠軍将軍代行とし三千の兵で沈充を討たせた。甲午、皇子司馬昱を琅邪王に封じた。劉隗は金城に陣し、右将軍周札は石頭を守り、司馬睿自ら甲冑を着けて郊外に六軍を率いた。平南将軍陶侃に江州を、安南将軍甘卓に荊州を統べさせ、それぞれ王敦の背後を突かせた。
  • 四月、王敦の前鋒が石頭を攻め、周札が城門を開いて内応、奮威将軍侯礼が戦死した。王敦は石頭を占拠し、戴若思・劉隗が攻めたが、王導・周顗・郭逸・虞潭らが三方から出撃するも六軍は敗北した。尚書令刁協は江乗に逃れる途中で殺害され、鎮北将軍劉隗は石勒のもとへ奔った。司馬睿は使者を送り「もし本朝を忘れぬなら兵を収めてほしい、さもなくば自分は琅邪へ帰り賢路を避けよう」と王敦に伝えた。辛未、大赦。王敦は自ら丞相・都督中外諸軍・録尚書事となり、武昌郡公・食邑万戸に封ぜられた。丙子、驃騎将軍・秣陵侯戴若思、尚書左僕射・護軍将軍・武城侯周顗が王敦に殺害された。王敦配下の沈充は呉国を、魏乂は湘州を陥し、呉国内史張茂、湘州刺史・譙王司馬承がともに殺害された。
  • 五月壬申、王敦は太保・西陽王司馬羕を太宰に、司空王導に尚書令を加えた。乙亥、鎮南大将軍甘卓が襄陽太守周慮に殺害された。蜀の賊張龍が巴東を侵したが、建平太守柳純が撃退した。石勒が騎兵を送って河南を侵した。
  • 六月、旱魃。
  • 秋七月、王敦は自ら兗州刺史郗鑒に安北将軍を加えた。石勒配下の石季龍が太山を陥し守将徐龕を捕えた。兗州刺史郗鑒は鄒山から合肥へ退いて守った。
  • 八月、王敦は弟の含を衛将軍とし、自ら寧・益二州の都督を兼ねた。琅邪太守孫黙が叛して石勒に降った。
  • 冬十月、大疫が流行し死者は十のうち二、三に及んだ。己丑、都督荊梁二州諸軍事・平南将軍・荊州刺史・武陵侯王暠が卒した。辛卯、下邳内史王邃を征北将軍・都督青徐幽平四州諸軍事として淮陰に鎮させた。新昌太守梁碩が挙兵して反した。京師では大霧で日月の光が見えなくなった。石勒が襄城・城父を陥し、譙を包囲して祖約の別軍を破ったため、祖約は寿春に退いた。
  • 十一月、司徒荀組を太尉としたが、己酉、荀組が薨じた。司徒官を廃し丞相に併せた。
  • 閏月己丑、司馬睿は内殿で崩じた。時に47歳。建平陵に葬られ、廟号を中宗とした。性は質素で、直言を容れ謙虚であったが、初め江東鎮撫の頃は酒に溺れて政務を怠りがちであったところ、王導の諫言を受け以後酒を絶ったという逸話がある。太極殿の広間に絳色の帷帳を張ろうとした際にも「漢の文帝は上書の袋で帷にした」と言って質素な青布の帷を用いさせた。貴人を娶わせる際にも費用がかかるとして雀釵の調達を許さなかった。母方の従弟王廙が母のため規定を超えた家屋を建てようとした際にも涙を流して止めさせた。ただ、晋室の紛乱の中、天命は改まらなかったものの用兵はもっぱら江畿にとどまり、経略は呉楚を保つに過ぎず、最後には臣下に辱められて憂憤のうちに世を去った。恭倹の徳は備わっていたが、雄武の器量には欠けていたと評される。
  • なお、秦代の望気者が「五百年後、金陵に天子の気がある」と占ったため始皇帝が東遊してこれを厭勝し、地名を秣陵に改めたという伝説があり、孫盛の考証によれば始皇帝から元帝の渡江までは526年に当たり、この予言が実現したとされる。咸寧の初め、風で太社の樹が折れ青い気が立ったのを、東莞に帝者の祥ありと占ったことから武王(司馬覲)が東莞王から琅邪王に遷されたという因縁も語られる。太安の頃の童謡「五馬渡江、一馬化龍」も、司馬睿ら琅邪の五王の南渡と即位を予言したものとされた。また《玄石図》の「牛継馬後」の讖により宣帝(司馬懿)が牛氏を忌んで将軍牛金を毒殺したが、恭王妃夏侯氏が小吏の牛氏と通じて元帝を生んだという説も伝えられている。

史論

  • 史臣は評して言う。晋室は思いがけず中原を失い、江南に拠ったが、五胡が相争い宗廟が傾く中、なお旧徳を慕う民があった。光武帝が数郡の勢力から興ったように、元帝も一州から皇位に昇ったのは、宣帝・武帝の余沢が琅邪になお及んでいたためであろう。陶侃が三州の兵を擁して安定させ、王導が分陝の計を立てたことで江東の基盤が固まった。元帝は再三固辞したものの、ついに帝位に即き、質素な政治と刑罰の簡略化により中興の基礎を開いた。しかし中宗(元帝)は強臣(王敦)を制御できず自ら権威を失い、南北で胡・羯の脅威にさらされ続けた。享国はわずかであり、哀しむべきことであると結んでいる。

明帝――出自と生い立ち

  • 明皇帝は諱を紹、字を道畿といい、元帝の長子である。幼くして聡明で元帝に愛された。数歳の頃、長安からの使者が来た際に「日と長安とどちらが遠いか」と問われ、「長安が近い、日から人が来たとは聞かないから」と答え、元帝を驚かせた。翌日再び問われた際は「日が近い」と答え、「見上げれば日は見えるが長安は見えないから」と理由を述べたため、いっそう非凡さを認められたという逸話がある。
  • 建興初年、東中郎将に任じられ広陵を鎮した。元帝が晋王となると晋王太子に立てられ、帝位に即くと皇太子となった。孝行に篤く文武の才略があり、賢者を敬い客を愛して文辞を好んだ。王導・庾亮・温嶠・桓彝・阮放ら当時の名臣に親しく接し、聖人の真偽を論じて王導らを論破したこともあった。武芸にも通じ将士を撫育したため、東宮には人材が集まり遠近の人心を得ていた。
  • 王敦の乱で六軍が敗れた際、司馬紹は自ら出撃しようとしたが、中庶子温嶠に諫められて思いとどまった。王敦は司馬紹の神武明略を朝野が信頼していることを恐れ、不孝の罪を着せて廃そうと企て、百官の前で温嶠に太子の徳を問いただしたが、温嶠は「太子の深遠さは浅慮では測りがたいが、礼から見れば孝と称するに足る」と答え、王敦の企ては頓挫した。永昌元年閏月己丑、元帝が崩じ、庚寅、太子が皇帝に即位、大赦し、生母荀氏を建安郡君に尊んだ。

太寧元年(323年)

  • 春正月癸巳、黄霧が四方を塞ぎ京師で火災が起きた。李雄配下の李驤・任回が臺登を侵し、将軍司馬玖が戦死した。越巂太守李釗・漢嘉太守王載が郡ごと李驤に降った。
  • 二月、元帝を建平陵に葬り、司馬紹は徒跣(裸足)で陵所まで赴いた。特進華恒を驃騎将軍・都督石頭水陸軍事とした。乙丑、黄霧。丙寅・壬申、霜が降り穀物を害した。
  • 三月戊寅朔、改元。饗宴を止め音楽を廃した。丙戌、霜害。饒安・東光・安陵三県で火災があり七千余戸が焼け一万五千人が死んだ。石勒が下邳を陥し、徐州刺史卞敦は盱眙に退いて守った。王敦が皇帝信璽一紐を献じた。王敦は簒奪を謀り朝廷に自らを召還させようと促したため、司馬紹はやむなく手詔で召還した。
  • 夏四月、王敦は姑孰の于湖に駐屯し、司空王導を司徒に転じ、自ら揚州牧を兼ねた。巴東監軍柳純が王敦に殺害された。尚書陳眕を都督幽平二州諸軍事・幽州刺史とした。
  • 五月、京師で大水。李驤らが寧州を侵したが、刺史王遜配下の姚岳が堂狼で大破した。梁碩が交州を陥し刺史王諒が戦死した。
  • 六月壬子、皇后庾氏を立てた。平南将軍陶侃が参軍高宝に梁碩を攻めさせ斬った。陶侃を征南大将軍・開府儀同三司に進めた。
  • 秋七月丙子朔、太極殿の柱に雷が落ちた。この月、劉曜が隴城で陳安を攻め滅ぼした。
  • 八月、安北将軍郗鑒を尚書令とした。石勒配下の石季龍が青州を陥し刺史曹嶷が殺害された。
  • 冬十一月、王敦は兄の征南大将軍王含を征東大将軍・都督揚州江西諸軍事とした。軍国の窮乏により刺史以下から米を徴発した。

太寧二年(324年)

  • 春正月丁丑、司馬紹は朝に臨んだが音楽を廃した。庚辰、五歳刑以下を赦した。妖術師李脱が妖書で衆を惑わせ、建康の市で斬られた。石勒配下の石季龍が兗州を侵し、刺史劉遐は彭城から泗口へ退いた。
  • 三月、劉曜配下の康平が魏興・南陽を侵した。
  • 夏五月、王敦は詔を偽って子の応を武衛将軍、兄の含を驃騎大将軍に任じた。司馬紹の近侍公乗雄・冉曾がともに王敦に殺害された。
  • 六月、王敦が挙兵しようとしていることを察知した司馬紹は、密かに巴滇の駿馬に乗って王敦の陣営を偵察に赴いた。ある兵士が司馬紹を不審者と疑い、また王敦自身も昼寝の夢で城を太陽が取り巻く夢を見て「黄いひげの鮮卑奴が来たのだ」と驚いた(司馬紹の母荀氏は燕代の出身で、司馬紹は容貌が母方に似ひげが黄色かった)。追手五騎が放たれたが、司馬紹は逃げながら馬糞に水をかけて温度を偽装し、道端で食べ物を売る老婆に七宝の鞭を与えて追手が来たら見せるよう頼んだ。老婆が鞭を見せると追手はこれを珍しがって長く留まり、また馬糞が冷えているのを見て追跡を諦めたため、司馬紹はかろうじて難を逃れた。
  • 丁卯、司徒王導に大都督・仮節・揚州刺史を加え、丹陽尹温嶠を中塁将軍として右将軍卞敦とともに石頭を守らせ、光禄勲応詹を護軍将軍・仮節・督朱雀橋南諸軍事とし、尚書令郗鑒を衛将軍代行・都督従駕諸軍事、中書監庾亮を領左衛将軍、尚書卞壼を中軍将軍代行とした。平北将軍・徐州刺史王邃、平西将軍・豫州刺史祖約、北中郎将・兗州刺史劉遐、奮武将軍・臨淮太守蘇峻、奮威将軍・広陵太守陶瞻らを召還して京師を守らせた。司馬紹自身は中堂に陣した。
  • 秋七月壬申朔、王敦は兄の王含と銭鳳・周撫・鄧岳らに水陸五万を率いさせ南岸に至らせた。温嶠は水北に移り朱雀橋を焼いてその勢いを挫いた。司馬紹自ら六軍を率いて南皇堂に出陣。癸酉夜、壮士を募り将軍段秀・中軍司馬曹渾・左衛参軍陳嵩・鐘寅ら甲卒千人を渡河させ、不意を突かせた。翌朝、越城で戦い大いに破り、前鋒の将何康を斬った。王敦は憤懣のうちに死んだ。前宗正虞潭が会稽で義兵を挙げた。沈充が万余の兵を率いて王含らに合流し、庚辰、陵口に塁を築いた。丁亥、劉遐・蘇峻らが精兵一万で到着し、司馬紹は夜に彼らを迎えて労った。義興の周蹇が王敦配下の太守劉芳を殺し、平西将軍祖約が王敦配下の淮南太守任台を寿春から追った。乙未、賊軍が渡河、護軍将軍応詹が建威将軍趙胤らと迎え撃つも不利であった。賊が宣陽門に迫ると北中郎将劉遐・蘇峻らが南塘から横撃し大破、劉遐はさらに沈充を青渓で破った。丙申、賊は陣営を焼いて夜逃げした。
  • 丁酉、司馬紹は宮に戻り大赦したが、王敦の党だけは許さなかった。諸将を分遣して残党を悉く平定させた。司徒王導を始興郡公・食邑三千戸・絹九千匹に封じ、丹陽尹温嶠を建寧県公、尚書卞壼を建興県公、中書監庾亮を永昌県公、北中郎将劉遐を泉陵県公、奮武将軍蘇峻を邵陵県公とし、それぞれ食邑千八百戸・絹五千四百匹とした。尚書令郗鑒を高平県侯、護軍将軍応詹を観陽県侯とし食邑千六百戸・絹四千八百匹、建威将軍趙胤を湘南県侯、右将軍卞敦を益陽県侯とし食邑千六百戸・絹三千二百匹とした。その他も各々差をつけて封賞した。
  • 冬十月、司徒王導を太保・領司徒、太宰・西陽王司馬羕を領太尉とし、応詹を平南将軍・都督江州諸軍事・江州刺史、劉遐を監淮北諸軍事・徐州刺史、庾亮を護軍将軍とした。王敦の一族についてはすべて不問とする詔を出した。この頃、石勒配下の石生が洛陽に駐屯し、豫州刺史祖約は寿陽に退いて守った。
  • 十二月壬子、司馬紹は建平陵を謁し大祥の礼を行った。梁水太守爨亮・盗竊州太守李逷が興古で叛して李雄に降った。沈充の旧将顧颺が武康で反乱を起こし城邑を攻め焼いたが、州県がこれを討ち斬った。

太寧三年(325年)

  • 春二月戊辰、三族刑を復活させたが婦人は対象外とした。
  • 三月、幽州刺史段末波が卒し弟の段牙が跡を継いだ。戊辰、皇子司馬衍を皇太子に立て、大赦し文武の位を二階級加え、三日間の大酺を行い、鰥寡孤独に帛(人ごとに二匹)を賜った。癸巳、処士の臨海任旭・会稽虞喜を召して博士とした。
  • 夏四月、大事が定まったばかりであるとして太宰・司徒以下に政道を議論させる詔と、直言を求める詔を出した。己亥、雹が降った。石勒配下の石良が兗州を侵し、刺史檀贇は力戦して戦死、将軍李矩らも敗れて撤退し、石勒は司・兗・豫三州の地を掌握した。
  • 五月、征南大将軍陶侃を征西大将軍・都督荊湘雍梁四州諸軍事・荊州刺史、王舒を安南将軍・都督広州諸軍事・広州刺史とした。
  • 六月、石季龍が劉曜配下の劉岳を新安で攻め陥した。広州刺史王舒を都督湘州諸軍事・湘州刺史とし、湘州刺史劉顗を平越中郎将・都督広州諸軍事・広州刺史とした。正月から続く大旱がこの月まで続いた。
  • 秋七月辛未、尚書令郗鑒を車騎将軍・都督青兗二州諸軍事・仮節として広陵に鎮させ、領軍将軍卞壼を尚書令とした。三恪二王の後継、および功臣・名賢の子孫の絶えた祭祀を復興させるよう詔した。また、南郊のみで北郊祭祀が行われず、四時五郊・五岳四瀆の祭も廃絶したままであるため、旧に依り再興させるよう詔した。
  • 八月、周の武王が比干の墓を封じ、漢高祖が楽毅の後を録用した故事に倣い、呉の将相名賢の子孫で忠孝仁義を守り世に埋もれている者を州郡の中正に報告させる詔を出した。
  • 閏月、尚書左僕射荀崧を光禄大夫・録尚書事、尚書鄧攸を尚書左僕射とした。壬午、司馬紹は病を得て、太宰・西陽王司馬羕、司徒王導、尚書令卞壼、車騎将軍郗鑒、護軍将軍庾亮、領軍将軍陸曄、丹陽尹温嶠に遺詔を託し太子を輔佐させた。丁亥、周公が成王を輔け霍光が孝昭帝を養育した故事を引き、公卿らに幼い太子を支えるよう託す詔を発した。
  • 戊子、司馬紹は東堂で崩じた。時に27歳。武平陵に葬られ、廟号を肅祖とした。聡明で決断力に富み、物事の理に精通していた。当時兵乱と飢饉が相次ぎ疫病で人口の半数以上が失われるという困難な時期であったが、王敦の脅威に対しては弱をもって強を制する策を用い、密かに謀をめぐらせて事態を収拾した。荊・湘など四州の統轄を改めて上流勢力を分散させ、本(中央)を強め枝(地方)を弱める体制を築いた。在位期間は短かったが、その構想は遠大であったと評される。

史論

  • 史臣は評して言う。維揚(江東)は洪流を帯び、楚江・方城で常に敵と対峙する地であり、将相への信頼なくしては維持できない。楼船が万を数え兵力が王室を上回る中で、私心なく利にあたったのは周公(成王を輔けた周公旦)のような人物であった。しかし外に権威を貸せば内に嫌隙が生じるもので、王敦のような順流の兵を擁する者に対し、朝廷には有力な藩鎮の援助がなかった。明帝は図籍を負い、この危機に際して自ら龍韜を発揮し、江辺に軍を興して敵の余燼を秋の枯野のように焼き払い、喪服のまま戦場に赴いて敵将を斬り宮門で拝謁するに至った。鎮を削って権威を分散し、州を荊・漢に分けたことで前轍を踏まなかった。その後七十余年を経て晋はついに(恭帝の廃立という)禍に遭った。ある人は「興亡は運にあり、上流の兵力だけの問題ではない」と言うが、それは制度が違うのではなく、それを活かす人物が異なったためであろう。

  • 贊にいう。天を傾け害をなす猛獣の災いに対し、琅邪の子(元帝)は仁義をもって帰り、趙壁を奉じ荊台を治めた。北を望めば晦く、南を望めば開けていた。晋陽は敵を防ぎ、河西は全土を保った。胡寇は困難であったが霊心は揺るがず、三方が馳せ集い百蛮も従った。宝命はなお昌んで、金輝は輝きを増した。明帝(司馬紹)は聡明で、軍務に通じていた。王莽の首が朝に懸けられ、董卓の臍が夜に焼かれたように逆賊は滅び、その徳は揺るがず余風は今も慕うに足る。