清史演義第九十四回 翠に倚り紅に偎い二難爽を競う/心を剖き頸を刎ね両地魂を招く (倚翠偎紅二難競爽 剖心刎頸兩地招魂)
載振の妓楼スキャンダル
農工商部尚書・載振は慶親王弈劻の子で、官制改革により工部を改めた農工商部の長官となったが、実業より花街に通じる遊蕩児であった。御史・張元奇に妓女・謝珊珊との醜聞を弾劾されたこともある。京津には楊翠喜という花旦役者が評判となり、載振はこれに執心する。黒龍江道員・段芝貴が楊翠喜を身請けして載振に献上し、その見返りに署理巡撫の地位を得たことが発覚、御史・趙啓霖が弾劾したが、朝廷の調査は「事実は認められるが実証なし」として載振を庇い、逆に趙啓霖が誣告として一時免職された。都御史・陸寶忠らはなお抗議したが、事態は収束した。
弟・載搏の醜聞と讒言合戦
載振の弟・載搏も名妓・蘇宝宝や洪宝宝と浮名を流し、兄弟そろって花柳界で話題となった。御史・江春霖が直隷総督・陳夔龍(慶王の乾女婿)や安徽巡撫の子・朱綸(載振の乾子)を弾劾すると、朝廷はこれを誣蔑として処分し、当時「兒自弄璋爺弄瓦、兄會偎翠弟偎紅」の対聯が世に流布した。趙啓霖・江春霖の弾劾を機に、慶親王弈劻は同郷の大学士・瞿鴻機にも遺恨を抱き、学士・惲毓鼎に瞿鴻機を「言官への授意・外援結託・報館との通謀・私人登用」の四罪で弾劾させた。太后は一時厳罰を検討したが、孫家鼐・鉄良らの調査で瞿鴻機は「開缺帰籍」の軽い処分に落ち着いた。
徐錫麟の恩銘暗殺
太后がなお宮中で観劇に興じる中、安徽巡撫・恩銘が候補道員・徐錫麟に射殺されるという大事件が起こる。徐錫麟は浙江紹興の人で、警察学堂に学んだのち光復会を組織し、表親の秋瑾とも革命の志を通じていた。安徽候補道の官職を捐納し巡撫・恩銘の信任を得た徐錫麟は、陸軍小学堂総辦・巡警会辦を兼ね、密かに武器を調達して蜂起の機会を窺っていた。両江総督・端方の密電で革命党の潜入が発覚しかけたが、徐錫麟は機転で切り抜け、学堂の卒業式を口実に恩銘を招き、陳伯平・馬宗漢と共に決起した。当日、恩銘への一発目の爆弾は不発だったが、拳銃で連射して恩銘に重傷を負わせ、文巡捕・陳永頤を射殺、武巡捕・徳文も負傷させた。しかし藩司・馮煦らは逃走し、軍械所に籠城した徐錫麟らは官兵に包囲され、陳伯平は戦死、馬宗漢は捕らえられ、徐錫麟自身も潜伏先で捕縛された。
供述と処刑
取り調べで徐錫麟は堂々と立ったまま、自ら筆を執って供述書を書いた。その内容は、自らが革命党の首領であり排満を宗旨とすること、立憲は満人の中央集権強化の欺瞞に過ぎないと断じ、恩銘個人への私恩と満人排斥という公理は別だと述べ、共犯の学生らの無実を訴えるものだった。徐錫麟は程なく処刑され、心臓を抉り取られて恩銘の霊前に供えられるという酷刑を受けた。馬宗漢も梟首に処された。浙江では徐錫麟の家族が捜索を受け、父・徐梅生は連座を免れたが、弟・徐偉は減刑の上十年の禁固となった。紹興府知府・貴福は大通学堂を家宅捜索した際、たまたま居合わせた秋瑾を拘束し、拷問の末に得た「秋風秋雨愁煞人」の詩句のみを謀反の証拠として処刑した。民国成立後、徐家の家産は返還され、秋瑾の遺骸は西湖に改葬され「鑑湖女俠秋璿卿墓」と刻まれた。
評語
官制改革の看板を掲げながら、遊蕩の徒が要職に登るようでは政治の改善など望むべくもない。御史の弾劾を受けて逆上した弈劻は言官を遠ざけ、周の厲王が誹謗を封じたのと同じ愚を犯した。徐錫麟の「立憲が速いほど革命も速い」という言葉はまさに核心を突いている。地方官が上意を迎えて残虐な処刑で応じるほど、革命の火勢はかえって激しくなった。事実、徐錫麟の死からわずか五年で武昌蜂起が起こり、清朝は瓦解する。「四海困窮すれば天禄永く終わる」との古語のとおりであった。