清史演義第九十五回 奇変に遘い醇王摂政す/友志を継ぎ隊長軀を亡う (遘奇變醇王攝政 繼友志隊長亡軀)
会党の蜂起と清廷の対応
- 太平天国(洪楊)鎮圧後も広東・広西には残党があり、三点会・三合会などの秘密結社として命脈を保っていた。革命党はこれら会党と結び、韶州・恵州・欽州などで蜂起させたが、いずれも寄せ集めの軍勢で官兵にすぐ鎮圧された。
- 清廷はこれを軽くみたが、直隷総督袁世凱は立憲の実施を奏請し、湖広総督張之洞は学生の革命思想の広まりを憂えて存古学堂の設立を奏請した。両者はともに軍機大臣に任じられ、朝廷は満漢の区別をなくす詔を出し、各官に対策を求めた。
- 官吏の建言を受け、考査政治館を憲政編査館に改め、光緒三十四年から四十二年までの九年計画で立憲準備を進めることとしたが、実効はなく、鉄道自弁運動や利権回収の要求など各地の民の不満は募る一方であった。
- 広西鎮南関でも革命党の攻撃があり右輔山砲台を奪われたが、清軍が持久戦の末に撃退し、指揮官らは論功行賞を受けた。
二辰丸事件
- 光緒三十四年、日本汽船二辰丸が武器を密輸し民党に渡そうとしたところを広東海関に摘発され、船を抑留し日章旗を降ろした。日本公使はこれを侮辱として抗議し、清の外務部は結局船を釈放し賠償・謝罪する屈辱的な結着となった。広東の民衆は日貨排斥を企てたが長続きしなかった。
光緒帝の死
- ダライ・ラマが入貢し、慈禧太后の万寿節(誕生日)には久々の盛大な祝典が催され、太后は妃嬪らと湖上に船遊びをするなど盛況を極めたが、その帰途に体を冷やし下痢を発症する。
- 太后の病状は好転せず、一方光緒帝もかねてより病篤く、両宮とも執務不能となる。太后は醇王載澧の子・溥儀を後継に定め、慶王奕劻に告げる。慶王は溥倫や溥偉を推す意見もあると述べたが、太后は榮祿への恩義を理由に己の決定を押し通す。
- 慶王が瀛台に光緒帝を見舞うと、帝は衰弱しきった様子で、太后の意向を伝えられても異議を唱えず、ただ穆宗(同治帝)の後継として溥儀を立てるのか、自分の跡を継がせるのかを問うた。慶王は「穆宗を承継しつつ光緒帝の祧を兼ねる」との折衷案を用意する。
- 光緒三十四年十月二十一日、光緒帝は崩御。太后は自ら看取り、遺詔を発する。遺詔は光緒帝の治世三十四年を振り返り、慈禧太后の意を奉じて溥儀を後継に立てる旨を述べるものであった。
- 慶王は吳可讀の屍諫の故事を引いて、光緒帝にも嗣子を立てるべきと太后に再考を促し、太后は渋々ながら「溥儀は穆宗の嗣子となり、あわせて光緒帝の祧を継ぐ」との詔を認めた。
慈禧太后の崩御
- 光緒帝崩御の翌日、慈禧太后は皇后・攝政王・軍機大臣らを集め、今後の国政は攝政王が取り仕切るよう遺言する。
- 太后はさらに「今後は婦人に国政を関与させてはならず、宦官の専権も厳に戒めよ。明末の教訓を見よ」と遺言し、まもなく息を引き取った。二日のうちに両宮が相次いで崩じたが、宮廷は動揺なく事を収めた。
- 遺詔が発せられ、光緒帝には廟号「徳宗景皇帝」、太后には「孝欽顕皇后」の諡が贈られた。まもなく溥儀(四歳)が即位し、翌年を宣統元年とし、隆裕皇太后の尊号が贈られた。
熊成基の蜂起
- 両宮崩御の混乱に乗じ、安徽で炮隊隊官の熊成基が挙兵する。かねて徐錫麟の死を悼んでいた成基は部下を動かし革命の号令を発したが、内応の手はずが崩れ、砲撃も城を破れず、清の水師の来援を知って部隊を解散し単身遁走した。
- 山東で友人から范傳甲(大官暗殺を企てて捕らえられ処刑された)の最期を知り、成基は遼東へ逃れるよう勧められた。
- 宣統二年、成基は貝勒載洵の外遊の際に暗殺を図るが警備が固く果たせず、翌年再び同志の石往寛・喩培倫と載洵の帰国を狙うも、発砲前に巡警に捕らえられ、吉林に送られて審理を受けることとなった。
攝政王の思惑
- 安徽の乱が平定され、攝政王載澧はやや安堵するが、光緒帝の生前の遺恨を胸に秘め、大権を握った今、それを晴らそうと考え始める。
評語
- 慈禧太后の崩御が光緒帝の崩御の翌日であったことについて、著者は毒殺説など巷説の類を史書に根拠なしとして退け、実録に基づいて淡々と記すにとどめる旨を述べる。
- 慈禧太后が二度にわたり幼君を立てたことについては、自らの延命を願ったか、あるいは葉赫那拉一族の権勢を保つための布石であったろうと推測し、葉赫の讖(清を亡ぼすという言い伝え)は慈禧一人に留まらず隆裕太后にも及んだと評する。隆裕自身に亡国の咎はないが、慈禧の積年の悪政のつけを一身に背負わされたに過ぎないとし、慈禧が退位の禍を見ずに世を去ったのは彼女にとって幸いであったと結ぶ。