清史演義第九十三回 密約を争い侍郎道に就く/欽使を返し憲政萌芽す (爭密約侍郎就道 返欽使憲政萌芽)
日韓保護条約と局外中立の維持
徳菱が訳した新聞は日韓保護条約の成立を伝えるもので、太后は馬関条約で承認したはずの朝鮮自主が反故にされたことに驚く。折しもロシア艦が上海に逃げ込んだ問題で日本から抗議を受け、太后は中立維持のため南洋大臣に退去を促させた。京中では両宮が再び西幸するとの流言が広まり、御史・汪鳳池がこれを真に受けて上奏したため、太后は激怒し流言取締りを命じた。
新政と英国のチベット侵攻
日露戦争が長引く中、清朝は科挙を廃して策論試験を導入し京師大学堂を興すなど新政を進めた。折しも駐蔵大臣・有泰から、英国のヤングハズバンド将軍がチベットに侵入し独自に条約を結んだとの緊急電が届く。背景には、日露開戦前にロシアがダライ・ラマに接近し親露・排英を促したことがあり、これに対抗した英国がインド総督を通じて大軍を派遣、ダライ・ラマは庫倫へ逃走し、ガンデン寺の長老が代わって降伏の条約に応じたという経緯があった。条約は江孜・噶大克の開埠、英国の商務監督権、賠償金五十万ポンドなど、チベットを事実上英国の勢力下に置く内容で、侍郎・唐紹儀が問題点を指摘し全権大臣として再交渉に当たり、数年を要して英国にチベットの中国領有権をようやく認めさせた。
日露戦争の帰趨
日本軍は旅順口・奉天を陥落させ、ロシアはバルチック艦隊を回航させたが、対馬海峡で待ち構えていた日本艦隊に包囲され、壊滅的な敗北を喫した。米大統領ルーズベルトの斡旋によりポーツマスで講和会議が開かれ、樺太南半分の割譲などで日本の要求が概ね通り、東三省の主権は名目上中国に返還されたものの、実質は北満をロシア、南満を日本が勢力圏とする形となった。
立憲論の高まりと革命運動
日露戦争を経て、専制政体より立憲政体が優るとの論が中国で広まり、太后も学堂重視・科挙停止・出洋学生試験・新軍訓練・酷刑廃止などの改革に着手、載澤・紹英・戴鴻慈・徐世昌・端方の五大臣を憲政視察のため出洋させた。しかし出発直前、正陽門駅で革命志士・呉樾が投げた爆弾により随員に死傷者が出る事件が発生する。背景には孫文(孫逸仙)の興中会や、史堅如・唐才常・鄭弼臣・黄興・蔡元培・章炳麟・鄒容・胡瑛・王漢らによる相次ぐ革命蜂起・暗殺未遂の系譜があり、呉樾もその一人として単身決起したものだった。五大臣は帰国後、立憲政体の導入を強く上奏し、光緒三十二年七月、預備立憲の上諭が発せられ、慶親王弈劻を総核大臣として官制改革(六部を十一部に再編、都察院・大理院の改組など)が進められた。しかし革命党人・趙声による萍郷での蜂起計画が発覚するなど、革命運動は収まらなかった。
評語
光緒末年、清室はもはや救い難い状況にあった。外は列強に囲まれ、祖宗発祥の地である東三省で日露の争いを座視するほかなく、二百年来の属領チベットも英国に侵食されて外交は完全に破綻していた。内では革命党が各地で決起を繰り返し、内部崩壊の兆しが著しい。立憲の実行を急いでも国本を固めるには至らず、まして五大臣のわずか数か月の視察で各国の皮相を撫でただけの「立憲」など、誰が信じられよう。本回の記述は事実を淡々と記しながらも、随所に痛烈な批判が込められている。