清史演義第九十二回 大内に居り耗を聞き遺臣を哭す/局外に処し厳旨中立を守る (居大內聞耗哭遺臣 處局外嚴旨守中立)
徳菱姉妹の宮仕え
裕庚夫人と徳菱・容菱姉妹はその後も度々召され、太后のもとに正式に住み込むことになった。太后は徳菱に通訳や宝飾品の管理を任せ、「私の一番の助け手」と可愛がる一方、些細な作法の乱れにも敏感に不興を示すなど、気難しい一面もあった。
ロシア公使夫人の謁見
ロシア公使夫人ヴラルコンの来訪では、徳菱が通訳を務め、太后・光緒帝ともに西洋式の接遇でもてなした。太后は洋装より宝飾を好む自らの嗜好を語り、儲珍室の宝物庫を徳菱に案内させ、庚子の変で多くの財宝を失ったことを悔いる様子も見せた。義和団の乱について太后は「すべて載漪の主張だった」と責任を転嫁しつつ、洋人の技術や政治には内心納得していない胸中も漏らした。
榮祿の死
榮祿の病没の報に太后は涙を流し、深く悲しんだ。榮祿の遺折には、咸豐年間の政変以来の忠勤、戊戌政変での密奏、義和団の乱での諫言など生涯の功績が綴られ、末尾では改革の要は地方官吏の人選と民力の涵養にあると説き、康熙・乾隆の巡幸に倣った地方視察を勧めていた。太后は厚く弔い、賢良祠への合祀や諡号「文忠」を授け、事績を国史館に伝えさせるなど、格別の礼遇を尽くした。
各国公使夫人の園遊会と肖像画
頤和園での園遊会には米・西・日・葡・仏・英各国公使夫人らが招かれ、その中で米公使夫人に連れられた女性画家キャサリン・カール嬢が太后の肖像画を博覧会出品のために描きたいと申し出た。太后は前例のなさに躊躇したが、徳菱の勧めで承諾し、二週間かけて肖像画が完成、太后は大いに喜び多額の褒賞を与えた。
日露開戦の経緯
折しも東三省を舞台に日露開戦の報が届く。義和団の乱の際、黒龍江将軍・寿山が排外方針からロシア軍の通行を拒み、逆にハルビン攻撃を試みたことがロシアの侵攻を招いた。ロシア軍は東三省全域を席巻し、寿山は服毒自殺、奉天将軍・増祺もロシアに従属するほかなかった。講和後、ロシアは東三省の利権を奪おうとし、李鴻章は抵抗の末に病を得て没した。光緒二十八年、東三省還付条約が結ばれロシアは撤兵を約したが履行せず、日英同盟・米国の圧力を経ても撤兵しないロシアに対し、日本はついに開戦を決意、光緒二十九年十二月に宣戦布告し、遼東が戦場となった。
清朝の局外中立
太后は慶親王・孫家鼐・瞿鴻機らと協議し、祖宗の陵寝がある東三省の安全を条件に各省の同意を得て局外中立の上諭を発した。日本の要請を受け、陵寝・城池・人命財産の保護と、戦後の東三省主権の中国帰属を条件付きで約束させた。開戦後は日本が緒戦から優勢に立ち、太后は徳菱に西洋新聞を訳させて戦況を追った。徳菱は「日本は上下一心、婦人まで簪珥を献じて軍資に充てた」と説明し、太后は日本の勝利に東方の安定を期待する一方、驚くべき新たな知らせが届く場面で本回は終わる。
評語
慈禧太后の奢侈と虚栄好みは、徳菱女史の著した回想記にも詳しい。義和団の乱と聯軍入京という大きな懲罰を経てなお、宝飾品への執着を捨てられなかった点に、亡国の兆しが見える。榮祿の遺折にある「官吏の精選・民力の涵養」という遺言も、結局実行されずに終わった。日露戦争も元をたどれば義和団の乱に端を発する禍であり、清朝は日にもロシアにも与せず局外中立を守るのみで、東三省の惨禍を防ぐ術を持たなかった。日本の義挙を称える声もあるが、日本もまた自国の権益のために動いたに過ぎず、東三省を食い物にする点では日露どちらも変わらない。