清史演義第八十九回 匪を袒い民を殃し聯軍境に入る/危に見て命を授け志士仁を成す (袒匪殃民聯軍入境 見危授命志士成仁)

宣戦の決定

軍機大臣らが招集され、栄祿は「使館を攻撃すれば宗廟社稷が危うい」と涙ながらに諫めたが、太后は聞き入れず、啓秀が用意していた宣戦の諭旨を採用した。続く御前会議で太后は「洋人が帰政を迫った」として開戦の意志を表明。光緒帝は栄祿の意見に沿って使館攻撃を控え公使を天津へ送るよう提案したが、太后と端王の威圧に屈し、判断を太后に委ねた。

諫言と弾圧

趙舒翹は洋人排除を上奏。兵部尚書徐用儀、戸部尚書立山、吏部左侍郎許景澄、内閣学士聯元、太常寺卿袁昶らが次々と開戦の無謀を諫めたが、袁昶が「太后帰政を迫る照会は偽造の疑いがある」と述べたことで端王の逆鱗に触れ、罵倒された。それでも太后は宣戦の上諭を発し、各国公使には退去を促した。許景澄・袁昶は連名で拳匪討伐を求める上奏をしたが黙殺された。

各省督撫の対応

山東巡撫袁世凱は拳匪を偽装した匪徒として厳しく取り締まり、短期間で山東を鎮静化させた。両広総督李鴻章、湖広総督張之洞は距離を置いて情勢を静観。両江総督劉坤一は拳匪の乱に強い憤りを覚え、宣戦の電諭を受け取るが、諸督撫と連携し「東南互保」を各国領事と協定し、東南地方を戦禍から守ることに成功した。

大沽・天津の陥落

大沽砲台は列強艦隊の砲撃で陥落、羅栄光は天津へ敗走。天津は義和団に占拠され、婦女への乱暴や略奪が横行した。西摩爾率いる連合軍先遣隊は一時退けられ「大捷」と喧伝されたが、実態は小規模な戦闘に過ぎなかった。

聶士成・馬玉崑の奮戦と悲劇

聶士成は義和団の横暴を嫌い、鉄路破壊を図る拳匪を撃退するなど一貫して拳匪と対立、そのため拳匪から恨みを買い、直隷総督裕祿からも讒言を受けて処分された。天津防衛戦で聶士成は母を故郷へ帰し、部下に別れを告げて出陣、奮戦の末、拳匪の乱射に遭い戦死した。馬玉崑も奮戦したが、拳匪の反感を買い草笠着用を禁じられたことが災いし、豪雨の中で連合軍に敗れ、天津は陥落。裕祿は逃走し、羅栄光は服毒自殺した。連合軍は各国から兵を集め、ドイツのワルデルゼーを総帥として北京へ進撃を開始した。

端王の失脚の兆しと粛清

戦況の悪化を受け、太后は端王が偽造した照会の真相を知り、端王を厳しく叱責した。甘軍統領董福祥も公使館攻撃の遅れを訴えて太后の怒りを買い、追い返された。太后は逆に栄祿を重用し、李鴻章を直隷総督に任じる方針に転じる。危機感を強めた端王は李秉衡と結び、許景澄・袁昶が「太后の諭旨を改竄した」との濡れ衣を着せて弾劾させ、両名は審理も経ずに処刑された。後世の人々は両名を悼む詩を残した。

評語

拳匪の乱により京津は塗炭に苦しみ、八国連合軍の来襲を招いた。これほどの無謀な開戦は日清戦争の比ではなく、拳匪の異術が事実であったとしても軽々に頼るべきではなかった。聶士成・馬玉崑のような良将は拳匪との対立ゆえに苦境に陥り、許景澄・袁昶のような忠臣は諫言のゆえに惨刑に処された。東南互保を進めた督撫たちの抗命がなければ、清はさらに深い危機に陥っていただろう。清朝滅亡の因はすべて満人の失政にあり、漢人にその咎はない。