清史演義第八十八回 儲君を立て匕鬯を震驚す/邪術を信じ京津を擾乱す (立儲君震驚匕鬯  信邪術擾亂京津)

大阿哥溥儁擁立の陰謀

道光帝曾孫・端郡王載漪の子である溥儁は本来皇位継承の順位に無く、太后は光緒帝廃立を望みつつ内外の反対で果たせずにいた。載漪は妻が太后に取り入り、子の溥儁も太后に可愛がられていたことに乗じ、崇綺・徐桐・啓秀と結んで廃立の計を練った。啓秀は栄祿を説得しようとしたが、栄祿は逡巡し明言を避けた。崇綺・徐桐は連名で密奏を上呈した。

太后の意向と栄祿の折衷案

太后は諸王大臣を召し、光緒帝廃立と新帝擁立を諮ったが、大学士孫家鼐が反対意見を述べ、太后は不快を示しつつも一旦退けた。その後、栄祿は「廃立は各国の干渉を招く恐れがある」として、直接の廃立ではなく「溥儁を穆宗(同治帝)の嗣子として大阿哥に立てる」という穏当な折衷案を進言し、太后はこれを採用。光緒二十五年十二月、太后は諸王大臣を集めて溥儁を大阿哥に立てる旨を宣し、光緒帝の名で上諭を発した。溥儁は宮中に入ったが学問を好まず、早くも先行き不安の兆しがあった。

義和拳の台頭

山東で発生した義和拳(白蓮教の流れを汲む梅花拳)は、槍炮不入を称する邪術めいた拳術集団であった。山東巡撫李秉衡は黙認し、後任の毓賢はこれを義民として優遇したため急速に勢力を拡大した。拳民には「金鐘罩」と称する拳術のほか、婦女による「紅灯照」という怪しげな法術も広まり、迷信的な符讖(碑文の予言など)も人心を煽った。

端王と太后の傾倒

毓賢は端王に「義和拳は槍炮不入で大阿哥即位を助ける天佑の存在」と取り入り、端王は太后にこれを吹き込んだ。太后は当初懐疑的であったが、端王の説得で直隷総督裕祿に義和拳の試験的招集を命じた。裕祿は義和団を団練局に組織し、瞬く間に数万人規模に膨張。天津では王徳成・曹福田・張徳成らが首領となり、民家に壇を設けさせ、婦女に紅灯照を強制するなど風紀が乱れ、淫祠まがいの「黄連聖母」を裕祿自ら参拝する醜態も生じた。

拳匪の暴発と地方官の対応

淶水県では義和団と天主教徒の対立から教会襲撃・虐殺事件が発生し、鎮圧に向かった楊副将が拳匪の伏兵に遭い戦死した。事態を受け朝廷は剛毅・趙舒翹を派遣したが、両名は拿捕された拳民を釈放し、多数の拳匪を連れて帰京、太后に義和団の登用を進言した。栄祿一人がその虚妄を説いたが多勢に無勢で、太后は義和団を信じるようになった。

京師の混乱と対外緊張

義和団と甘軍(董福祥率いる武衛後軍)が京師に入り、鉄道破壊・電線切断・洋館破壊など無法状態となり、各国公使館を包囲するに至った。日本公使館書記官杉山彬とドイツ公使クリントが殺害され、列強は大沽砲台の引き渡しを要求。端王は偽造した「太后に政権返上を迫る」照会を太后に見せて激怒させ、太后は宣戦を決意する。

評語

端王が用いられなければ大阿哥は立たず、大阿哥が立たなければ拳匪の乱も起こらなかった。義和団は白蓮教の残党で、識者ならその虚妄はすぐ見抜けるはずのものであり、聡明であったはずの慈禧太后がこれを見抜けなかったのは、光緒帝への憎しみと大阿哥への愛情が判断を狂わせたためである。端王一派に翻弄された結果、古今未曾有の大禍を招いたのであって、これを慈禧のために弁護することはできない。