清史演義諫草を伝え節に抗し名を留む/聯軍を避け蒙塵し出走す(第九 十回 傳諫草抗節留名 避聯軍蒙塵出走)
許景澄・袁昶の処刑
許景澄と袁昶は刑部の命により市曹に引き出された。監斬官を務めたのは徐桐の子・徐承煜で、義和団に加担する端王の命を受けていた。許景澄は「まだ免官の沙汰もないのに衣を剥ぐのか」と詰め、袁昶も「我らに何の罪があるのか」と問うたが、承煜は「著名な漢奸だ」と決めつけるのみで、まともに答えられなかった。袁昶は「自分の死は惜しまぬが、罪証は何一つない。お前たちこそ乱を謀り国を禍いに陥れた大罪人だ、地下で必ず相見えよう」と言い放ち、許景澄にも「やがて天日を仰ぐ日が来れば、我らの汚名は必ず雪がれる」と語った。両人は義和団の拳民に囲まれ、従容として刑に服した。
袁昶らの上奏文
袁昶らはこれまで三度上奏していた。第一・第二の上奏は既出だが、第三の上奏はとりわけ痛切な内容だった。(要旨)義和団の乱は咸豊年間の太平天国・捻軍、嘉慶年間の白蓮教の乱をも上回る前代未聞の大禍であり、それらは朝野ともに賊と認識していたのに対し、義和団は大官までもが「義民」と呼んで擁護している。「扶清滅洋」の名目は詭弁に過ぎず、山東巡撫毓賢・直隷総督裕祿が拳匪を助長し武器まで与えたことが禍の始まりである。天津の大沽砲台や紫竹林での勝利を裕祿は誇張して奏上しているが、実際には清軍・拳匪の死者は数万に及ぶという。甘粛出身の匪賊上がりである提督董福祥も公使館焼殺の虚偽戦果を奏上しており、徐桐・剛毅・啓秀・趙舒翹ら軍機大臣が拳匪を擁護し、涿州へ派遣された剛毅・趙舒翹も乱を解散させたと偽って復命した。天津陥落後、洋兵は間もなく京師に迫るであろうに、王公大臣は拳匪を頼みとしたまま酔いしれている。徐桐・剛毅らを厳罰に処さねば拳匪の跳梁は止まらず、宗社の危機を招くと、極刑を求める内容であった。
徐用儀・立山・聯元の落命
端王は許景澄・袁昶を殺してもなお怒りが収まらず、次に漢人尚書の徐用儀、満人尚書の立山、学士の聯元を狙った。榮祿だけは太后の寵愛厚く手を出せなかったが、他の三人は義和団に矯詔で逮捕させ、刑部の獄に送った。徐用儀は四十年余り無難に勤めてきたが今回は権奸の怒りを買い刑死。聯元も拳匪弾劾の疏を上げたことで同じく禍を受けた。立山は内務府で二十年権勢を振るい豪奢な暮らしをしていたが、寵妓・緑柔をめぐり輔国公載瀾と恨みを買ったことも一因とされる。立山の死後、伶人の十三旦だけが遺体を引き取り葬儀を執り行ったという逸話が残る。
李秉衡の自裁と潰走
端王は五大臣を殺してもなお不安が拭えず、北倉・楊村の敗報、裕祿の自殺という知らせに動揺した。頼みの綱として派遣していた李秉衡も、張春発・陳沢霖ら諸将が表向き従いながら内心では裏切り、援軍も洋兵の猛攻の前に成す術なく、ついに服毒して命を絶った。李秉衡の死後、清軍は総崩れとなり、義和団も服装を変えて略奪に走り、百姓は洋兵の到来をむしろ歓迎するありさまとなった。
両宮の西狩
七月、聯軍は張家湾・通州を陥れて京城に迫った。榮祿が泣く太后を諫め善後策を促すと、太后は李鴻章が入京を渋り、拳匪の処罰を先に求める上奏をしてきたことに不満を漏らした。李鴻章の上奏は、諸外国との国力差を直視すべきこと、義和団の妖術に頼る愚を犯した結果、天津・北京での惨敗を招いたこと、講和には妖人の処刑と拳匪擁護大臣の罷免が不可欠であることを切々と説くものだった。榮祿もこれに同意したが、折しも洋兵天壇付近に迫るとの報が入り、太后はついに出奔を決意する。
珍妃の死と逃避行
太后は光緒帝・皇后・瑾妃らを庶民の姿に変装させ、深夜に神武門から騾車で脱出した。出発直前、太后は冷宮から珍妃を呼び出し、「乱兵に辱められるより自ら命を絶て」と迫った。光緒帝が跪いて助命を乞うも聞き入れられず、珍妃は井戸に投げ込まれて命を落とした。一行は貫市の回教堂に一泊し、粗末な緑豆粥で飢えをしのぐなど、宮中とは打って変わった困窮の旅を続けた。懐来県に至りようやく知県・呉永の出迎えを受け、食事にありついた。慶親王弈劻と王文韶も駆けつけ、太后は慶王に北京へ戻って聯軍と和議交渉に当たるよう命じた。
評語
本回は許・袁両公と李鴻章、二つの諫草を収めた。両者からは宮廷の昏憒ぶりが如実に読み取れ、読む者は慈禧太后の責を問わずにいられない。聯軍入京で西走を余儀なくされてもなお珍妃を殺してから出発した点に、寵愛すれば溺れさせ、憎めば酷薄に徹する婦人の性が表れている。西走の三日間、粥一杯にも事欠く有様は天罰にも見えるが、それでも滅亡を早めず、後にすべてが瓦解してから初めて清朝の命運が尽きる――そこに天道の意図が隠されているのかもしれない。