清史演義第八十二回 越疆を棄て中仏和を修む/韓乱を平げ清日協約す (棄越疆中法修和 平韓亂清日恊約)
孤抜の死
浙江提督歐陽利は仏艦の来襲に備えていたが、しばらく動きがなく警戒が緩んでいた。孤抜が三門湾で自ら檣に登り偵察していたところ、たまたま砲台にいた一巡卒が独断で発砲し、これが命中して孤抜は転落・落命する。砲台の弁目は軍令なしの発砲を咎めようとしたが、翌朝仏艦が損傷し孤抜死亡の報が届くと一転して功として扱われ、巡卒は罪を赦されて昇進、歐陽利も戦功として朝廷に報告し褒賞を受けた。
天津での和議
孤抜の死で仏軍の士気は衰えたが、諒山・臨洮で清軍が優勢に転じていた矢先、天津で和議が進んでいるとの報が伝わり、諸将は落胆する。彭玉麟は「五つの和すべからざる理由」「五つの戦うべき理由」を挙げ和議に強く反対する上奏をなし、曾紀澤も仏の内閣不安定を理由に強硬な姿勢を進言したが、結局、全権大臣李鴻章が仏使パトノートルと天津で交渉し、仏の東京占領・越南保護国化・清仏双方の北圻不介入・台湾駐留仏兵の撤退などを内容とする条約十か条に調印する。これにより数百年来の属国越南は事実上フランスに引き渡され、彭玉麟・左宗棠・岑毓英・馮子材ら現地の将領は不満ながらも撤兵に従った。
朝鮮の甲申政変
李鴻章が和議を急いだ背景には朝鮮情勢の緊迫もあった。日本に倣った開化派(金玉均・洪英植ら)は日本を後ろ盾に守旧派閔氏一族を排除しようと図り、光緒十年、日本兵を王宮に引き入れてクーデターを起こす(甲申政変)。閔詠駿以下の要人が殺され、国王李熙も開化派に擁されて傀儡化した。
袁世凱の活躍
朝鮮駐留の清将呉兆有・張光前は、幕僚として名を上げつつあった袁世凱に相談する。世凱は即時出兵を強く主張し、三路に分かれて王宮を急襲する策を提案、自ら中軍を志願する。清軍は日本兵の反撃を受けつつも王宮を制圧し、開化派を鎮圧、洪英植は戦死、金玉均・朴泳孝は日本へ逃亡した。国王を救出したことで清の威信は一時的に回復する。
日清の天津条約
事後、日本は井上馨・伊藤博文・西郷従道らを派遣して抗議し、清に対して開戦も辞さぬ構えを見せる。李鴻章は朝鮮の内政を清が主導すべきだと考えるが慎重論をとり、袁世凱に自重を促す。最終的に伊藤博文との交渉で、日清両国が朝鮮からの撤兵と、今後出兵する際の相互通知を取り決める天津条約が結ばれ、事態は一旦収拾されたが、日本の朝鮮への影響力拡大という火種は残った。
英国による緬甸・タイへの進出
一方、越南・朝鮮の混乱に乗じ、イギリスは属国緬甸(ビルマ)への圧迫を強める。かねて英領インドとの紛争を通じ領土を割かせていた英国は、光緒十二年に緬甸を完全に併合し英領インドに編入した。清の抗議は曾紀澤による外交努力の末、ようやく「代理入貢」という名目のみを得るに終わる。隣接するタイ(暹羅)も英仏の勢力均衡の結果、独立は保たれたものの清との朝貢関係は絶えた。属国が次々に失われる中、慈禧太后はなお頤和園の造営に思いを巡らせていた。
評語
李鴻章は必ずしも秦檜や賈似道のような姦臣ではないが、時勢を見誤り、外交への見識に乏しかった。越南での戦いは清が劣勢から盛り返しつつあったのに、天津で早々に妥協して実を失った。朝鮮の政変でも清軍は一勝を収め日本に付け入る隙を与えなかったにもかかわらず、事後の交渉で朝鮮への影響力を確たるものにできなかった。外交の見識のなさが、越南・朝鮮・緬甸・タイの喪失を招いたと言わざるを得ない。