清史演義第八十一回 朝日嫌を生じ交渉を醸成す/中仏釁を開き戦争大いに起こる (朝日生嫌釀成交涉 中法開釁大起戰爭)

慈安太后急逝の怪

慈安太后の崩御には不審な点が多かった。崩御前、慈禧太后が重病と伝えられ諸省から名医が召されていたが、慈禧が病んでいる間は慈安が単独で臨朝していた。崩御当日の朝、慈安は恭親王奕訢・左宗棠・王文韶・李鴻藻らを召見しており顔色も普段どおりであったのに、退朝からわずか五時間後の夕刻に急死の報が伝えられた。通例なら帝后の病には先に軍機大臣へ知らせ薬方も確認させるはずが、今回はそうした経緯が一切なく、王大臣たちは訝しみながらも参内する。すでに小殮を終えた慈安の傍らで、慈禧は「東太后は病もなかったのに急逝するとは意外だ」と淡々と語るのみで、左宗棠らも不審を抱きつつ、それ以上追及できないまま退出した。

遺詔をめぐる因縁

かねて光緒帝も慈安に親しみ、慈禧はこれを快く思っていなかった。光緒六年、東陵参拝の際、序列を巡って慈安と慈禧が対立し、慈禧はやむなく譲ったことで内心の恨みを深める。かつて安得海処刑の際に恭親王と慈安が結託したことも思い出し、慈安を除こうと考えるが、一つだけ懸念があった。咸豐帝が熱河で崩じる際、慈禧(当時懿貴妃)が驕縦に振る舞えば祖法により処断せよとの密諭を慈安に授けていたのである。東陵参拝の後、慈安がたまたま軽い病にかかり、快復した頃、慈禧は「前に太后の看病のため自分の腕の肉を割いて薬に混ぜた」と偽りの孝心を演出し、感激した慈安はその密諭を取り出して焼き捨ててしまう。その直後に慈安は急死し、世間では毒殺との噂も流れたが、慈禧が喪に服さなかったことだけは事実として伝わる。

慈禧の独裁と朝鮮情勢の緊迫

慈安の死により国政は慈禧の独断となる。翌年、慈安は東陵に合葬され「孝貞」の諡を追贈された。折しも朝鮮で内紛が起こる。国王李熙の実父大院君が退いた後、王妃閔氏一族が実権を握り日本と江華条約を結んで開港していたが、光緒八年、兵士の待遇不満から守旧派が反乱を起こし(壬午軍乱)、大臣や日本公使館員を殺害する騒ぎとなる。清は提督呉長慶らを派遣し、大院君を天津へ拘引、首謀者も処罰して事態を収拾したが、日本にも朝鮮への駐兵権を認める結果となり、後の禍根を残した。

中仏開戦の発端

続いて越南(ベトナム)を巡り仏清間の緊張が高まる。もとは中国の属国であった越南に対し、フランスは布教・通商の既得権を背景に介入を強め、南部を割譲させたのち北部(トンキン)にも進出しようとする。これに対し黒旗軍を率いる劉永福が越南王を助けてフランス軍と戦い、仏将アンリ・リヴィエール(安鄴)を討ち取るなど善戦した。越南は一時仏と和約を結び劉永福を三宣副都督に任じて事態を収めたが、なお仏軍は攻勢を続け、順化を陥落させて越南を保護国化し、東京(トンキン)割譲を認めさせてしまう。

清の対応と天津での交渉

清朝は曾紀澤に仏との交渉を命じる一方、岑毓英・彭玉麟・曾国荃・左宗棠らを各地に配して防備を固めた。フランスは軍艦福禄諾を天津に送り李鴻章と交渉、越南を仏の保護下に置くことを前提に、李鴻章は仏税務司デトリングの仲介で五か条の草約に応じ、清軍の越南撤兵と体面維持のみを条件に妥結してしまう。しかし現地では清仏両軍がなお対峙しており、諒山では清軍が仏軍を撃退するなど戦果を挙げていたにもかかわらず、フランスは巨額の賠償を要求して北寧を陥落させ、台湾基隆にも侵攻した(劉銘傳の防戦で撃退)。

馬江の敗戦と張佩綸の失態

仏提督孤抜(クールベ)は福建の馬江に艦隊を進める。守備の責任者張佩綸は文人肌の若い官僚で、軍務の実務を軽視して酒宴に耽り、部下の急報を無視して警戒を怠った末、仏艦の奇襲を受けて清の艦隊はほぼ全滅する。張佩綸は逃走し、後に左宗棠の擁護もむなしく処分され黒竜江へ流罪となった。

恭親王の罷免

諒山失陥・馬江敗戦の報に慈禧太后は激怒し、諸将を処分するとともに、恭親王奕訢を中心とする軍機処の面々を「因循怠慢」として一斉に罷免・降格する懿旨を下す。恭親王は親王の待遇のみ残して一切の職を解かれ、寶鋆は致仕、李鴻藻・景廉は降格、翁同龢は革職留任とされた。代わって礼親王世鐸を中心に、額勒和布・閻敬銘・張之萬・孫毓汶らが軍機に入り、醇親王奕譞にも重要案件への関与が命じられる。これに対し盛昱・錫鈞・趙爾巽らが醇親王の軍機参与は不適当と諫めるが、慈禧は「摂政中はやむを得ない」と押し切った。

鎮南関・臨洮の勝報と孤抜の最期

なおも清仏の戦いは続き、馮子材・王孝祺・王徳榜らが鎮南関で仏軍を撃退し、岑毓英も臨洮で大勝して河内に迫るなど清側が盛り返す。焦った仏提督孤抜は浙江三門湾まで艦を進め、夜陰に乗じて自ら檣に登り偵察していたところ、不意の一撃を受けて船内に転落した。

評語

朝鮮・越南はともに清の属国でありながら、総理衙門はこれを座視して属国の権益がじりじりと削られるのを見過ごした。朝鮮の乱では呉長慶が大院君を捕らえて一時は事態を収めたものの、後の禍根を断てなかった。越南についても宗主権を主張して仏と正面から争わず、天津での妥協は体面を保つばかりで実を失った。諒山・馬江の敗戦にもかかわらず事態を打開できなかった外交の拙さは、痛惜に堪えない。