清史演義第八十三回 款を移し園を築き撤簾就養す/齢を周り寿を介し戦を聞き心を驚かす (移款築園撤簾就養 周齡介壽聞戰驚心)
頤和園造営の裏事情
光緒十一、二年頃、頤和園の造営が始まり、費用は三千万両近くに上った。国庫が窮乏する中、この巨費は実は海軍経費から流用されたものであった。中仏戦争で馬江の艦隊が壊滅したのを機に、清朝は台湾を省とし北京に海軍衙門を新設、醇親王奕譞を総理とし、奕劻・李鴻章を会弁、善慶・曾紀澤を幇弁として北洋海軍の整備に着手する。しかし予算はなかなか認められず、李鴻章が焦慮していたところ、太后側近の宦官李蓮英から「太后は頤和園を造りたいが資金がない」との内意を伝えられる。李鴻章は蓮英と結託し、海軍名目で各省から集めた資金の半分を造園費に、半分を海軍費に充てるという策を講じ、以後は奏請が滞りなく通るようになった。
頤和園の完成と壮麗
こうして清漪園の跡地に頤和園が築かれ、二、三年を経て完成する。楽寿堂・仁寿殿・頤楽殿(芝居見物の場・三層の舞台つき)をはじめ、知春亭・夕佳楼・雲松巣・石舫など贅を尽くした建物が並び、万寿山には仏香閣がそびえ、慈禧太后は日々ここに登って全園を見渡した。園の完成に合わせ、慈禧は「即日親政を返す」と表向き宣言するが、醇親王・礼親王らの奏請を受けて数年の訓政続行を承諾、光緒帝とともに頤和園へ移り、内閣・軍機処もろとも園内で政務を執るようになる。
北洋海軍の観閲と接待の裏側
北洋海軍が体裁を整えると、醇親王奕譞の天津巡閲が行われる。李鴻章は表向きの応接とは別に、随行の李蓮英のために特別に贅を凝らした部屋を用意させ、閲兵の際も李蓮英に慇懃に接する。艦隊観艦式は華々しく行われ醇親王も満足したが、実際にはこの視察のためにも多額の費えが海軍名目で計上され、随員たちも呆れるほどであった。
李蓮英の専横と光緒帝の大婚
帰京後、李蓮英の権勢はいよいよ強まり、宮中で「九千歳」と称されるほどになる。御史朱一新が李蓮英の随行を批判する上奏をすると、慈禧太后は逆に朱一新を降格させ、以後誰も彼に逆らえなくなった。光緒十四年、光緒帝十八歳で大婚を迎え、慈禧の姪にあたる副都統桂祥の娘(葉赫那拉氏)が皇后に立てられ、侍郎長叙の娘二人が瑾嬪・珍嬪となる。翌年、大婚を終えると慈禧は正式に撤簾を発表し、「慈禧端佑康頤昭豫莊誠壽恭欽獻」と十四字に及ぶ尊号を加えられ、以後は頤和園で遊興にふけるようになる。皇后も慈禧の指導で書画をたしなみ、慈禧の寵愛を受けた。
醇親王の尊崇問題とその死
河道総督呉大澂が、光緒帝の実父醇親王に対しさらなる尊号を贈るべきだと上奏する。慈禧太后は、かつて醇親王自身が「宋の孝忠の故事に倣い、実父を過度に尊崇することを望まない」と自制を求める上奏をしていたことを引き合いに出し、呉大澂の提案を退けつつ、醇親王の忠誠を改めて称える懿旨を発した。翌年、醇親王は病没する。慈禧は生前しばしば見舞いに訪れ、没後「皇帝本生考」の称号と「賢」の諡を贈り手厚く葬るが、なお「奢侈を戒める」との注記を添えて分をわきまえさせた。子の載澧が爵位を継ぎ、載洵・載濤も公に封じられる。醇親王の死後も光緒帝は万事慈禧の意向を仰ぎ、慈禧も皇后と李蓮英を通じて帝を監視させた。
対英・対露の国境紛争
光緒十五年から二十年にかけ、イギリス・ロシアとの間で国境問題が起こる。イギリスはチベット南境の哲孟雄(シッキム)に介入して属国化し、さらに布丹(ブータン)も従属させた上、チベット領内にも進出。清の駐蔵大臣は無力で、幇弁大臣升泰がインドで英側と会議し、シッキムの英領承認とチベット・シッキム国境画定、亜東の開港を認める条約を結ぶ。またロシアとはパミール高原の帰属を巡り交渉し、結果的にロシア・イギリスに有利な形でパミールの大半を放棄し、葱嶺を国境とすることで決着した。
慈禧太后六十歳寿辰の準備と中断
光緒二十年は慈禧太后六十歳の年に当たり、盛大な祝賀の準備が進められる。各地の大臣は競って祝儀を献上し、中でも西安将軍栄禄は多額の金銀珍宝を献上して重用される(栄禄はかつて後宮での不行跡を光緒帝の師翁同龢に密告され失脚していたが、慈安太后没後に復権していた)。しかし五月、朝鮮でにわかに事変が起こり日清開戦の危機が迫る。清軍が連敗する中、慈禧太后は祝賀の中止を命じる懿旨を下し、頤和園での祝賀は取りやめとなって、宮中のみでの簡素な式典に終わった。
評語
太后の垂簾聴政は歴代しばしば例があるが、その裏では常に側近の宦官が権勢を弄する。慈禧の場合、かつては安得海、後には李蓮英がその役割を担い、李蓮英の専横は安得海よりもさらに長く深刻であった。頤和園の造営も六十寿辰の盛儀も、その根底には李蓮英らの取り入りと中飽があった。醇親王のような貴顕、李鴻章のような元老すら李蓮英に逆らえなかった以上、他は推して知るべしである。本回で慈禧を語ることは、そのまま李蓮英を語ることに等しい。清朝二百数十年の国祚は、この宦官一人の手によって大きく損なわれたと言えよう。