清史演義第七十二回 曾国荃、力めて援軍を卻く/李鴻章、洋将を借用す (曾國荃力卻援軍  李鴻章借用洋將)

李秀成の江寧包囲攻防

  • 兵一万に満たない曾国荃の営を、李秀成が数十万の大軍で包囲した。国荃は壕を固めて防戦し、十昼夜の攻防の末、開花砲弾にも動じず持ちこたえた。
  • 国荃自ら負傷しながら指揮を執り、将士も互いに傷を包み助け合って士気を保った。李世賢の援軍も加わったが、四十六日に及ぶ攻防の末、国荃は逆に打って出て長毛を撃破し、李秀成・李世賢は敗走した。国荃の弟国葆も奮戦の末、病没した。

淮軍の上海進出と常勝軍

  • 李鴻章は淮軍を率いて上海に入り、米国人華爾(ウォード)の常勝軍と連携。王韜の献策で洋人には訓練のみを任せ、自国の兵を主力とする方針を採った。
  • 太倉・嘉定をめぐる攻防で英仏軍が敗れ、青浦も危機に陥ったが、程学啓が寡兵で持ちこたえ、鴻章の援軍到着で長毛を撃退し、淮軍の武勇が内外に知れ渡った。

常勝軍の後任と蘇州攻略

  • 華爾は慈渓の戦いで戦死し、後任の白斉文が乱暴を働いたため解任され、英人ゴードンが常勝軍を統率した。
  • 李鴻章は無錫・蘇州へ進撃。李秀成は水軍を焼かれて劣勢に陥り、内応者の裏切りで蘇州を脱出、守将譚紹洸は殺された。

蘇州降将粛清事件

  • 蘇州で投降した八人の太平軍将(郜雲官ら)が兵権温存や高官への任命を求めたため、程学啓は鴻章と謀り、宴に招いて騙し討ちにし、全員を斬首した。ゴードンはこれに激怒し学啓を詰ったが、鴻章の調停で収まった。

常州攻略と淮軍の名声

  • 学啓はその後、嘉興攻略で額に重傷を負い、後に自ら傷口の骨を抉り出して落命した。
  • 李鴻章は常州を攻略し、守将陳坤書・費天将を捕らえて太平軍の江蘇における抵抗をほぼ終息させた。淮軍の名声は高まり、ゴードンは帰国、常勝軍は解散された。

評語

本回は曾・左の戦功と同時に李秀成の敗史でもある。数十万の兵を率いても国荃の営を破れず、蘇州では戦うたびに怯み潰えたのは、長毛の士気が既に衰えていたためであり、湘淮軍の勢いの前に敗れるのは必然であった。ただし洋将を借用し降将を殺めたことは一時の権宜策に過ぎず、模範とすべきではない。