清史演義第七十一回 輔臣を罪し連番詔を下す/劇寇を剿し数路兵を進む (罪輔臣連番下詔 剿劇寇數路進兵)
載垣・端華の断罪
- 恭親王奕訢は上諭を読み上げ、載垣・端華らが両宮太后の意を曲げて専断を行った罪状を宣告した。二人は西太后を恨みつつも宗人府に連行された。
- 西太后は載垣・端華・粛順の爵位を剥奪し、厳しく議罪させるよう命じた。
粛順の捕縛
- 睿親王仁壽・醇郡王奕譞は梓宮出迎えを装って粛順に近づき、油断させた上で拿捕した。粛順は西太后を「呂雉・武瞾の再来」と罵倒したが、京へ護送された。
三大臣処断と垂簾聴政の開始
- 上諭により載垣・端華は自尽、粛順は斬首と決まり、三人とも刑に臨んで西太后・恭親王を罵り続けたが処刑された。
- 恭親王は議政王に任じられ、幼帝は太和殿で即位式を行い、両宮太后は養心殿で垂簾聴政を開始した。年号は同治と改められた。
- 慈安太后は名目上に留まり、実権は慈禧が握って人材登用に手腕を発揮した。
曾国藩の統轄権拡大と胡林翼の死
- 慈禧は曾国藩に江蘇・安徽・江西・浙江四省の軍務統轄という破格の重任を与えた。
- 湖北巡撫胡林翼は病没し、後任に李続宜が就いた。曾国藩の推薦で左宗棠が浙江軍務を督することとなった。
李鴻章の登場と淮軍編成
- 曾国荃は安慶陥落後、李秀成・李世賢の反撃を鮑超が撃退し、江西を平定した。
- 浙江では長毛の攻勢が続き、杭州は陥落して巡撫王有齢らが死んだが、朝廷は曾国藩を咎めず優遇した。
- 曾国藩は李鴻章を推挙し、鴻章は淮軍を組織して湘軍の後詰めとした。
東南諸軍の進撃態勢
- 同治元年、曾国荃らが江寧攻略へ向かい、李鴻章は江蘇、左宗棠は浙江の回復を担当するなど、諸軍が曾国藩の統一指揮のもとに配置された。
- 曾国藩は安慶に本営を置いて諸方に指揮を及ぼし、都興阿・左宗棠らが各地で勝利を収め、多隆阿は廬州で陳玉成を破った。陳玉成はのちに苗沛霖に売られて処刑された。
- 曾国荃は南京近郊まで進出したが、疫病に苦しみ、李秀成の大軍来援の報に朝廷は曾国藩への支援強化を諭す上諭を発した。
評語
載垣・端華・粛順に誅に値する罪がなかったわけではないが、垂簾に抗争したことを理由に重罰としたのはやや酷に過ぎる。両宮垂簾は歴代未曾有のことで、幼帝を理由に旧臣を誅殺するのも行き過ぎであろう。三人の罪状はすべて太后の私意から出たものであり、事を主導したのは慈安ではなく慈禧である。ただし慈禧が曾国藩を重用して信頼し切ったのは卓見であり、清が洪氏に滅ぼされずに済んだのはその功が大きい。