清史演義国喪を聞き長く国士を悲しむ/慈駕を護り転じて慈顔に忤う(第七 十回 聞國喪長悲國士  護慈駕轉忤慈顏)

曾国藩の苦戦と安慶攻略

  • 祁門で長毛の三方からの攻撃に苦しんだ曾国藩は、自ら出陣するも潰走し、左宗棠・鮑超・張運蘭らの奮戦でようやく囲みを解いた。
  • 咸豊十一年、左宗棠と鮑超が景徳鎮を回復して軍威を高め、張運蘭は徽州、左宗棠は建徳を回復し、祁門の危機も去った。
  • 曾国荃は安慶を包囲し続け、陳玉成率いる十万の援軍を退けたのち、集賢関を陥し、地雷で城壁を爆破して安慶を陥落させた。守将葉芸来以下一万六千人が戦死し、九年に及んだ長毛の占拠が終わった。

咸豊帝の崩御

  • 安慶陥落を国藩が上奏した直後、熱河から咸豊帝崩御の知らせが届いた。国藩は深く悲しんだ。
  • 咸豊帝は英仏連合軍の北京侵攻を機に熱河へ避難したまま体調を崩し、載垣・端華・粛順ら顧命八大臣に幼い皇子載淳(後の穆宗)を託して崩御した。享年三十一。
  • 皇后鈕祜祿氏は慈安皇太后、生母那拉氏は慈禧皇太后となり、後世それぞれ東太后・西太后と呼ばれた。

恭親王の探りと安得海の密使

  • 載垣・端華・粛順は「賛襄政務王大臣」を自称して実権を握った。恭親王奕訢は在京の王大臣らに推されるが、粛順に警戒され熱河入りを阻まれる。
  • 西太后は先帝から託された御璽(同道堂印)を使い、宦官安得海を通じて密かに恭親王を呼び寄せた。
  • 熱河入りした恭親王は表向き梓宮を弔問しただけで退散するが、夜、安得海の手引きで女装して両太后と密議したとされる。

両太后の垂簾要求と対立

  • 御史董元醇が両宮太后の垂簾聴政を上奏するが、載垣・端華・粛順はこれを厳しく退ける。
  • 両太后は梓宮の帰京を急ぐよう三人に迫るが、載垣らは京城不穏を理由に引き延ばしを図り、対立が深まった。

帰京と載垣・端華の拿捕

  • 三人は途中で西太后暗殺まで謀ったが、西太后は密かに栄禄に護衛を命じ難を逃れた。
  • 帰京後、恭親王は「同道堂印」を証拠に両太后の解任命令を突きつけ、載垣・端華をその場で拿捕させた。

評語

曾国藩の国士としての働きに対し、載垣・端華・粛順ら宗室の重臣は権勢を専らにして跋扈し、王莽のような野心を持ちながら王莽ほどの才もなく、結局は一婦人の手に制せられた。慈禧の機敏さ・弁舌・深謀・辣腕は本回で早くも顕れており、その手腕はまさに絵師が孔子の像を写し取るがごとく鮮やかに描き出されている。