清史演義第六十五回 瓜鎮師を喪い向営陥落す/韋楊命を斃し洪酋中衰す (瓜鎮喪師向營失陷 韋楊斃命洪酋中衰)

江北大營の乱脈と釐金の創設

  • 江南大営は欽差大臣向栄・張国梁が孝陵衛に駐屯し、江北大営は琦善が揚州を包囲するが一年経っても功を挙げられなかった。
  • 副都御史雷以諴は独自に軍を興し、板釐・活釐という商税を創設して軍費を賄い、以後この方式が慣例化していく。

揚州・瓜洲・鎮江をめぐる攻防

  • 太平軍の頼漢英が瓜洲を占拠すると、朝廷は琦善を叱責し、まもなく琦善は病没。後任の托明阿も戦局を打開できなかった。
  • 上海は江蘇巡撫吉爾杭阿らが地雷戦で奪還したが、鎮江攻めは太平軍に察知されて失敗し、鎮江・瓜洲は太平軍の連携拠点として気勢を強めた。

揚州陥落と吉爾杭阿・劉存厚の戦死

  • 揚州知府世琨は油断していたところを急襲されて陥落し、参将祥林・世琨とも戦死。托明阿の援軍も間に合わなかった。
  • 都統徳興阿が着任して揚州を奪還したが、鎮江・瓜洲はなお太平軍の手にあった。
  • 江蘇巡撫吉爾杭阿は知府劉存厚に高資での糧道遮断を命じたが、太平軍の猛攻を受け、援軍に駆け付けた吉爾杭阿自身も砲弾を受けて戦死、劉存厚も力戦の末に討ち死にした。

江南大営の焼失と向栄の死

  • 張国梁は各地で太平軍を撃退していたが、鎮江・金陵の太平軍が呼応して江南大営を挟撃、大営は炎上し向栄は危地に陥った。張国梁が駆け付けて救出し、丹陽まで退いた。
  • 向栄は病により丹陽で没し、臨終に軍事を張国梁に託した。後任には和春が任じられた。

楊秀清の専横と東王府の内紛

  • 天王洪秀全は驕り、東王楊秀清は権勢をほしいままにし、次々と女性を東王府に召し入れて弄んだ。抵抗した女性たちは毒殺や自害、あるいは酷刑(点天灯)で命を落とした。
  • 楊秀清は洪秀全の妹・洪宣嬌を後妻に迎えるが、その放埓な生活の中で東府承宣陳宗揚が王娘たちと通じる事件が起き、楊秀清は陳宗揚を処刑した。

天京事変

  • 陳宗揚の処刑を恨んだ韋昌輝(陳宗揚の義兄)は、洪秀全の密旨を受けて南京へ戻り、楊秀清を宴席で謀殺、その一族も皆殺しにした。
  • 東王の残党と韋昌輝が交戦する中、翼王石達開・燕王秦日綱が調停に入るが、韋昌輝は納得せず石達開の一族を殺害。石達開は脱出して兵を集め、韋昌輝討伐に向かった。
  • 洪秀全は韋昌輝を見限り東王残党と結んで攻撃、敗走した韋昌輝は捕らえられて処刑された。石達開が呼び戻されて輔政するも洪秀全に疑われ、まもなく南京を去った。

曾国藩の江西方面での戦況

  • 曾国藩は江西で南康を攻略し、官文・胡林翼は武漢を奪還、湘軍は湖北を平定して九江へ迫った。
  • 曾国藩が九江で諸将を慰労する中、父の訃報が届き喪に服すため軍務を離れた。

評語

  • 琦善が向栄に劣るのは衆知の事実だが、向栄も三年にわたり金陵を落とせず士気・軍紀が緩んだ点は兵家の忌むところと指摘する。
  • 江南大営の陥落は分兵による寡兵化が原因であり、吉爾杭阿の高資攻めのせいではないとし、太平天国側の韋昌輝・楊秀清の自滅劇こそ天下の趨勢を左右したと総括する。