清史演義第六十四回 羅先生、陣に臨み軀を傷つく/沈夫人、夫を佐け敵に抗す (羅先生臨陣傷軀 沈夫人佐夫抗敵)
武漢三たび陥落す
- 湖北巡撫陶恩培は着任早々で防備が薄いところへ太平軍の大攻勢を受け、漢口・漢陽が相次いで陥落し、武昌にも迫られる。
- 湖北総督楊霈は広済に駐屯していたが、大晦日の宴の最中に夜襲を受けて陣を崩され、部将李士林の奮戦で辛うじて脱出、徳安府まで逃げ延びて留まった。
- 太平軍はさらに武昌を包囲。陶恩培の兵はわずか二千で防戦もままならず、江西の曾国藩へ救援を求める。
- 曾国藩は水軍統将の兪晟や、新たに湖北按察使に任じた胡林翼の陸軍六千を派遣したが、援軍到着前に武昌は陥落し、陶恩培・知府多山・遊撃陶徳燾らは戦死した。胡林翼らは金口を確保して立て直しを図る。
曾国藩、江西と湖北の間で苦慮す
- 朝廷は胡林翼を湖北巡撫に抜擢し、曾国藩にも湖北救援を命じる。曾国藩は江西を離れがたく、幕僚の劉蓉と協議。
- 劉蓉は「江西を捨てて湖北へ走るのも得策ではない。まず水軍を整え九江攻略を進めるべき」と献策し、曾国藩もこれに従い、塔斉布には九江包囲の維持を命じて自らは南昌へ移り軍備を整える。
- 饒州・広信の陥落の報に羅沢南が出陣を志願し、部下の李続賓と共に出征、両城を奪還する戦果を上げる。
塔斉布の死と九江戦線
- 楊載福・彭玉麟は装備未整のため一時帰郷を許される。まもなく九江の陸軍から、塔斉布病没の報が届く。
- 塔斉布は侍衛から身を起こした勇将で、鄱陽湖の激戦でも陸戦で敵を食い止め水軍を救った功労者であったが、九江包囲の長期化に憤り病を得て陣中で没した。
- 曾国藩は自ら船で駆けつけて弔い、周鳳山に塔斉布の後任を命じて軍を鎮める。塔斉布は部下への恩情が篤く、その死後も軍の結束は乱れなかった。
湖口攻防と羅沢南の進言
- 曾国藩は湖口攻撃を試みるが一進一退。その間に義寧県が陥落するが、羅沢南が広信から取って返して奪還。
- 羅沢南は「武漢を回復してこそ江西も安定する。自分が湖北へ出て武昌を攻め、東進して九江の敵船を挟撃したい」と進言する。曾国藩は理は認めつつ、塔斉布亡き後の人手不足から即答を避ける。
羅沢南の湖北出征
- 数日後、羅沢南自ら曾国藩のもとへ赴き、五千の精兵を得て出発することとなる。劉蓉は「頼みの将が去れば大帥はどうするのか」と案じるが、曾国藩は東南全体の大局のためやむを得ないと答える。
- 劉蓉も自ら羅沢南に同行することを願い出て許される。
- 羅沢南は出発に際し曾国藩に「九江方面の陸軍は堅守に徹し、無理な攻撃を控えるように」と進言。両者は水際で別れを惜しみ、これが今生の別れとなる。
- 見送りの郭嵩燾に対し、羅沢南は「曾公さえ健在であれば大局は保てる。事を成すは天にあり」と述べて西へ向かう。
羅沢南、湖北で連戦連勝
- 湖北では楊載福・彭玉麟の水軍、胡林翼の陸軍がそれぞれ動き出しており、羅沢南は軍を三隊に分け、自ら中軍を率い、李続賓・劉蓉に左右を任せて通城・崇陽・蒲圻・咸寧を次々に攻略する。
- 漢陽で敗れて撤退してきた胡林翼と合流。胡林翼は鮑超の活躍を語り、羅沢南も鮑超の経歴を語って評価する。
- 湖北総督が楊霈から官文に代わり、西凌阿が欽差大臣となって攻勢を強めていることも話題になる。
- そこへ翼王石達開の大軍が蒲圻に迫ったとの報が入り、羅沢南が先鋒、胡林翼が後詰めとして迎撃、激戦の末に石達開を撃退する。石達開は江西へ転進し、羅沢南・胡林翼は合流して武昌を包囲すべく洪山・五里墩に布陣する。
羅沢南の奮戦と戦死
- 官文が徳安・漢川を破って漢陽に迫る一方、武漢の太平軍は堅守を続け、江西の危機は日増しに深まる。羅沢南は必死の攻城戦を続け、夜襲してくる敵を伏兵で迎え撃つなど激戦を重ねるが、なかなか城を落とせない。
- 三月一日、大霧の中で太平軍が総力を挙げて城外に討って出て激戦となり、羅沢南は指揮中に額を銃弾で負傷、軍を退く。
- 見舞いに来た胡林翼に対し、羅沢南は「武漢も江西も両方は救えぬのが無念。私が死んでも弟子の李続宜(迪庵)を後継として支えてほしい」と遺言し、まもなく息を引き取る。朝廷は彼を巡撫戦死の例に準じて手厚く弔い、諡は忠節とされた。
江西の危機と沈夫人の奮闘
- 羅沢南没後は李続賓がその軍を率いて洪山に留まり、胡林翼も五里墩に駐屯を続ける。江西からの救援要請に応じ、胡林翼は四千の兵を派遣するが、江西はすでに大半が荒廃していた。
- 太平軍の翼王石達開が安徽省城を占領して民心を得つつあり、続いて秦日綱が廬州を陥落させ江忠源を敗死させるなど、安徽もほぼ太平軍の手に落ちる。石達開はさらに湖北へ迫るが胡林翼・羅沢南に撃退され、江西に転じて義寧・新昌・瑞州・臨江を次々に陥落させる。加えて広東の反乱勢力も江西に侵入し、安福・分宜・万載などを陥れ、南昌も戒厳態勢となる。
- 曾国藩は周鳳山軍を九江の囲みから樟樹鎮へ転じさせ省都の守りとするが、江西の陸軍はこの一隊のみで、水軍の主力も湖北に出払っており苦境が続く。そこへ彭玉麟が徒歩二日半をかけて曾国藩のもとに駆けつけ、臨江の防衛に当たらせる。
- まもなく周鳳山軍が樟樹鎮で敗れたとの報が入り、曾国藩は自ら南昌に赴いて防衛を助けるが、吉安・撫州なども次々に陥落し、江西七府一州五十余県の大半が失われ、清朝側に残るのは南昌・広信・饒州・贛州・南安の五郡のみとなる。
- 広信府には太平軍の楊輔清が撫州方面から迫るが、署広信知府沈葆楨とその妻(林則徐の娘)が民兵を励まし、城を守り抜く。
沈夫人、夫を助けて城を守る
- 沈葆楨は本来九江に赴任予定だったが、九江陥落のため広信に転じていた。太平軍来襲の報に城中の官吏・住民は逃げ散り、残ったのは夫人林氏のみであった。
- 林氏は「妻は夫に従い、夫は城を守るのが道理」と夫を励まし、私財の金銀を軍資として供出し、大鍋で炊き出しの用意をするなど、夫を助けて防衛態勢を整える。
- 沈葆楨は集まった兵民に「この孤城は守り切れぬかもしれぬ、逃げてもよい」と告げるが、兵民は「共に城を守り、共に死のう」と応じ、沈葆楨は深く感謝して一礼する。
- 林夫人自ら炊事を担い、兵民のために飯を作って労をねぎらう。兵民は感激し、士気を高めて登城する。
- 兵力の不足を案じる沈葆楨に対し、林氏は先父・林則徐の旧部下である浙江総兵饒廷選に援軍を求めるよう提案し、自ら血書をしたためて使者に持たせる。
広信の防衛成功と戦局のその後
- 血書を受け取った饒廷選は急ぎ広信へ駆けつけ、太平軍を撃退。翌日も沈葆楨の援軍と合わせて追撃し、太平軍は退却する。
- この勝利は曾国藩を通じて朝廷に伝えられ、沈葆楨は兵備道に抜擢され、後に江西巡撫にまで昇進する。夫婦で城を守った功績は長く称えられた。
- その後、湖北・湖南からも援軍が江西に送られ、曾国藩の弟・曾国華も兵を募って新昌・上高を奪還するなど戦況は好転し始めるが、咸豊六年五月、江南大営が崩壊し向栄が憂死するに及び、太平天国の勢いは再び強まった。
評語
塔斉布・羅沢南はともに曾国藩麾下の代表的な将であり、武人の塔斉布に対し、羅沢南は書生の身で一軍を率いて大敵に当たった点で稀有な存在である。太平天国は民を害する盗賊集団に過ぎず、これを討つのは周公が管叔・蔡叔を誅したのと同じ大義であって、羅沢南の行いに非難すべき点はない。また沈夫人が一婦人の身でありながら丈夫の胆略を示したことは、まさに巾幗の中の鬚眉というべきであり、父・林則徐の家風がその娘に受け継がれた証といえる。この回は名士と烈女を併せ伝えるもので、士気を鼓舞し女性の模範ともなり得る内容である。