清史演義第五十四回 弈統帥、間に因り敗を致す/陳軍門、砲に中り仁に帰す (弈統帥因間致敗 陳軍門中炮歸仁)
裕謙の最期と余步雲の逃亡
- 重傷を負った裕謙は寧波、余姚と運ばれるうちに息を引き取り、浙撫劉韻珂が屍を収めて上奏した。
- 招宝山を無断で放棄した余步雲は寧波、上虞へと逃げ延び、英軍は慈渓まで攻め込んだ後に引き上げた。
奕經の出師と「因間」の策
- 清廷は奕經を揚威将軍に任じ、諸道から兵を集めて浙江へ進発させた。旧知州張応雲は漢奸を利用した内応策(因間の計)を献じ、奕經はこれを容れて各路に兵を配した。
- しかし鄭鼎臣の水勇は暴風で出鼻をくじかれ、王用賓の別動隊も孤立し、段永福・張応雲の寧波奇襲も内応の漢奸に裏切られて失敗した。
大寶山の激戦と朱貴父子の壮烈な死
- 慈渓に出た劉天保・朱貴の両軍は連携を欠き、朱貴・昭南父子は寡兵で英軍の猛攻を受けながら奮戦したが、ついに討ち死にした。
- 味方の劉天保軍は救援に間に合わず、参賛文蔚も朱貴の求援に応じなかったため、奕經の作戦は総崩れとなり杭州へ退いた。
乍浦の激戦と庶民の殉節
- 英艦は浙西の要地乍浦を攻め、副都統長喜・同知韋逢甲ら官兵は奮戦の末に相次いで戦死した。
- 城内では佐領の妻子の入水や、脅迫に屈せず殺された職人・自刃した女性など、多くの庶民が節義を守って命を落とし、著者はこれを「稗史の光栄」と称えている。
呉淞口の攻防と陳化成の戦死
- 伊裡布・張喜の交渉で英軍が乍浦から退くと、戦線は長江口の呉淞に移り、提督陳化成が果敢に砲台を守って英艦を数隻撃破した。
- しかし総督牛鑒が戦場を軽々しく訪れて英軍の砲火に驚いて敗走したため、味方の士気が崩れ、東西砲台が陥落。陳化成は退却を拒んで奮戦の末、力尽きて戦死した。
- 英軍はそのまま宝山・上海を陥れ、長江を遡って牛鑒を追う。当時の童謡(詩:各地の戦いで武将は死に総督は逃げ、沿岸が次々失陥した様を風刺する内容)が引かれて回は結ばれる。
評語
奕經・牛鑒はもとより実績のない将であり、これを要職に用いたことが敗因である。朱貴父子や陳化成のような勇将も、文蔚の不救、牛鑒の遁走によって見殺しにされた。奕經にはなお已むを得ぬ事情もあろうが、臆病な牛鑒が砲声に驚いて軍心を乱し、陳化成を敵手に委ねた罪は許し難い。朱・陳の奮戦を詳しく描くことは、そのまま奕經・牛鑒の罪を際立たせるためであり、殉節した将卒・工役・婦女の姿は、いっそう彼ら庸将の恥を照らし出している。