清史演義第五十五回 江寧城、万姓兵を被る/静海寺、三帥約を定む (江甯城萬姓被兵 靜海寺三帥定約)
松江・鎮江の陥落
- 寶山から逃げ戻った牛鑒を尻目に、英艦は長江を遡って松江を攻めた。壽春鎮總兵の尤渤は伏せては撃つ巧みな指揮で英軍を二日押し返し、英軍は崇明・靖江・江陰へ矛先を転じるも郷民に撃退された。
- 英将バーカー・ウゴグと大使ポッティンジャーは、買収した漁船に水路を案内させて長江深部への侵入を決意した。
- 鎮江の紳士は防備を訴えたが、常鎮通海道の周頊は「長江は天険、英兵は座礁するはず」と楽観し備えを怠った。英艦は潮に乗って侵入し、参贊齊慎・提督劉允孝の陣は交戦もそこそこに退却。
- 鎮江城内は副都統海齡が守ったが、英軍は北門を攻めると見せて西南から火箭で火を放ち突入。海齡は妻子を室内に閉じ込めて焼死させ、自らも縊死して殉じた。城は陥落し、揚州の鹽商は五十万両の賄いで攻撃を免れた。
江寧包囲と和議の始まり
- 江寧に戻った牛鑒は「輪船は長江を遡れない」と布告して民心を安んじようとしたが、鎮江陥落の噂で動揺しつつも表面は平静を装った。やがて英艦八十余隻が下関に迫り仰天する。
- 浙江から伊裡布が到着し、和議を進言。牛鑒の家人張喜を使者に立てて英側と交渉させるが、英使ポッティンジャーは「耆英の到着まで城内で軍を養う費用として三百万両を出せ」と要求し、牛鑒を困らせた。
- 副將陳平川は開戦か籠城を進言するが、牛鑒は撫議を優先し取り合わず、独断で押し切った。
- 張喜は再び英艦に赴き、通訳マリソン(もと中国人で英国籍)を介してポッティンジャーと交渉。英側の要求は賠償金・香港割譲・五港開港・俘虜送還・平等な外交文書・被害商民への賠償など多岐にわたった。マリソンは「英国の目的は通商にあり金銭ではない」と内々に打ち明けた。
南京条約の締結
- 耆英が到着し牛鑒・伊裡布と合流。英側の条件はほぼそのまま押し通され、清側は駁論するも英艦が紅旗を掲げて開戦の構えを見せると屈服した。
- 交渉の末、賠償金二千百万圓(軍費・商欠・煙代の合計)、五港開港、香港割譲、俘虜送還、対英協力者の免罪、平等な外交文書、国璽の押印などの条款がまとまった。
- 道光帝は穆彰阿の進言により、国璽の代わりに大臣の印を用いることで妥協。英側は当初拒んだが、密使を通じ穆彰阿へ働きかけた結果、上諭が下り平行の礼で調印式が行われた。
- 道光二十二年七月二十四日(西暦1842年8月29日)、靜海寺にて南京条約が成立。英軍は賠償金の一部受領後、江寧を退き舟山に留まった。
- 和議後、牛鑒は罷免・逮問、弈山・弈經・文蔚も同様に処分、余步雲は処刑された。伊裡布のみ功により欽差大臣に昇進し、広東で通商規程の協議にあたった。
台湾獄事件の発端
- 翌年、道光帝は閩浙総督怡良に台湾での案件審理を命じ、台湾総兵の達洪阿と兵備道の姚瑩が職を解かれた。両人は英艦侵攻時に雞籠口・大安港で英艦を撃退し、俘虜を捕らえて多数を処刑した功労者であったが、英使ポッティンジャーが「俘虜は遭難民に過ぎない」と訴え、審理を求めていた。
評語
戦は禁煙に端を発しながら、和議では禁煙の一語すら触れられず、著者はこの点を強く批判する。耆英・牛鑒・伊裡布は英側の要求に唯々諾々と従い、道光帝も事なかれで済ませた。五口通商そのものは非とせずとも、虎頭蛇尾に終わった禁煙問題への態度こそ真に問うべきであり、本回の牛鑒・伊裡布・耆英の描写は暗に道光帝(宣宗)への批判を含むと結ぶ。