清史演義第五十三回 屍諫に効い宰相軽生す/重鎮を失い将帥節に殉ず (效屍諫宰相輕生  失重鎮將帥殉節)

三元里の抗英と虚偽の奏報

  • 撤退する英軍が三元里で略奪を働くと、憤った郷民が平英団を組んで英兵を包囲し、統帥伯麥も負傷したが、広州知府余保純の仲介で英軍は脱出した。
  • 奕山はこの戦果を誇張し、賠償金六百万圓を「商欠の取り立て」と偽って上奏、道光帝はこれを信じて許した。

王鼎の屍諫

  • 大学士王鼎は奕山の罪を琦善以上と弾劾する上奏をしたが、権臣穆彰阿の庇護によって握り潰された。
  • 林則徐の伊犁遣戍や、林則徐を推挙した湯金釗の連座処分に憤った王鼎は、穆彰阿の罪を訴える遺書を残して縊死した。
  • 穆彰阿は腹心の聶澐に命じて遺書を密かに奪わせ、偽物とすり替えさせた。聶澐は褒賞を約束されたが、科挙不正が露見して恩恵は水泡に帰した。

厦門・定海の再攻防

  • 英国は璞鼎查(ポッティンジャー)を新たな全権として派遣し、艦隊は厦門を攻撃。顔伯燾は防戦したが砲台は次々陥落し、退いて守りを固めた。
  • 続いて浙江へ矛先が転じ、欽差裕謙は定海に総兵葛雲飛・鄭国鴻・王錫朋の三将を配して防備を固めさせた。
  • しかし裁兵の朝命により増強がかなわず、英軍の猛攻の前に曉峰嶺・竹山門が相次いで陥落し、王錫朋・鄭国鴻が戦死。葛雲飛も奮戦の末、壮絶な討ち死にを遂げた。

鎮海の陥落と裕謙の最期

  • 提督余步雲は定海救援を怠り、定海失陥後は鎮海でも招宝山の砲台を無断で放棄して英軍を招き入れた。
  • 裕謙は諸将を集めて神前で誓いを立てさせたが、余步雲は仮病を使って参加せず、まもなく招宝山に英国旗が掲げられているのが目撃された。
  • 総兵謝朝恩も金鶏嶺で奮戦の末に戦死し、裕謙は学宮の泮池に身を投げて自尽を図り、家人に救われたものの瀕死の重傷を負った。県丞李向南は絶命の詩を残して自ら首を吊った。

評語

王鼎と裕謙はいずれも清室の忠臣だが、いずれも愚忠のそしりを免れない。王鼎の屍諫は遺書自体が奪われて上達せず、たとえ届いても寵臣穆彰阿を一撃で倒せたとは思えない。裕謙は余步雲の奸を見抜きながら軍法で断じきれず、守り難い定海に精鋭を置き、両端を持す者に要害を委ねた結果、二城が相次いで陥ち力尽きた。見危授命の志は憐れむべきだが、国事への実際の益は乏しかったと言わざるを得ない。