清史演義第四十九回 浩罕を征し王師再び出づ/叛傜を剿し欽使功を報ず (征浩罕王師再出  剿叛傜欽使報功)

献俘の儀と論功

  • 張格爾は道光帝により大学士・長齢を二等威勇公、楊芳を三等果勇侯に封じるなど手厚く賞し、久しく行われていなかった献俘の礼を挙行して太廟に告祭し、張格爾を寸磔梟示とした。慶祥・烏淩阿の遺児には張格爾の心肺を父の墓前に供えさせた。功臣四十人は紫光閣に肖像を掲げられた。
  • 朝臣は皇太后への尊号加上を上奏し、道光帝は許可、盛大な儀式が挙行された。出師から献俘まで数千万両の帑銀が費やされた。

那彦成の対応と道光帝の批答

  • 那彦成は、浩罕などに逃れた張格爾一族の引渡しを求めるべきか伺いを立てたが、道光帝は「辺境をただ厳重に守り、貿易を禁じて相手が困窮するのを待てばよい、無理に索取するな」と消極策を批答した。那彦成は多くの善後策を上奏したが、実効性に乏しいものであった。

安集延の侵入と諸将の失態

  • 道光十年、那彦成が浩罕の在留商人を追放・財産没収した報復として、浩罕王は張格爾の兄・摩訶末玉素普を擁立して侵入させた。参賛大臣・札隆阿は酒に溺れて警報を軽視し、対応が遅れて幫辦大臣・塔新哈らが戦死する事態を招いた。
  • 伊犁参賛大臣・容安は迂回して安全な和闐に駐屯し敵と交戦を避けたため革職。哈豊阿が代わり、長齢・楊遇春・楊芳らが再び派遣された。札隆阿は責任を部下(回族の郡王伊薩克)になすりつけようとしたが、長齢の調査で虚偽が露見し、枷にかけられて処罰された。

浩罕との和議

  • 長齢は伊犁・烏什・喀城の三路から浩罕を討とうとするが、浩罕はロシアへの援軍要請を拒まれ、和議を求めてきた。長齢は「賊酋の引渡し」「捕虜の返還」を条件に交渉し、最終的に通商再開と納貢を条件とする和約が成立し、西域の事態は収束した。

湖南・広東の傜族の反乱

  • 湖南永州では、天地会の奸民に牛を奪われた傜族が官に訴えるも受理されず、趙金龍が挙兵。総兵・海凌阿は道案内に扮した傜族に騙されて伏兵に遭い全滅した。
  • 湖広総督・盧坤と湖北提督・羅思舉は、山岳に籠る傜族を平地におびき出す策を用い、洋泉鎮で包囲殲滅、趙金龍は戦死し、藍山の残党(趙仔青)も捕らえられた。
  • 欽差の禧恩・瑚松額は羅思舉の手柄を疑って難癖をつけたが、遺体の剣印などで確認され、最終的には手柄を称えた。

広東連州の八排傜の乱と招撫

  • 広東連州でも奸民・胥吏の搾取に端を発して八排傜が蜂起。総督・李鴻賓らは偽って和睦を持ちかけ投降者を斬るなど不誠実な対応で反乱を悪化させ、官兵も大敗して罷免された。
  • 後任の禧恩・瑚松額は実際の攻略を避け、按察使・楊振麟に金品で懐柔させて少数の首謀者を差し出させ、これを「粛清」と偽って報告し、道光帝を欺いた。

尊号加封と六合同春

  • 道光帝は南北の実情を見抜けぬまま、禧恩ら関係者を加増した。宮中では全妃鈕祜祿氏が七巧板で「六合同春」の文字を作って献上し、道光帝は喜んで彼女を皇貴妃に封じた。

評語

清朝の最大の弊は「欺」の一字に尽きる。道光帝は西域平定を誇示し、献俘の礼や尊号加上で虚飾を極めたが、それ自体が自己欺瞞であった。上が下を欺けば下も上を欺き、札隆阿・容安・禧恩・瑚松額のような欺瞞に満ちた報告が横行した。那彦成・長齢らの功績も実質を伴わぬものが多く、浩罕や土着の傜族という小勢力ゆえに事なきを得たに過ぎない。宮廷が太平を謳歌する裏で、大患は静かに根を張りつつあった。