清史演義第四十八回 愚なる慶祥、回疆に敗死す/智なる楊芳、首逆を誘擒す (愚慶祥敗死回疆  智楊芳誘擒首逆)

永芹の無為と巴彦図の暴挙

  • 永芹は斌靜ほど荒淫ではないが無能で、張格爾の跳梁を許した。道光五年、領隊大臣・巴彦図は張格爾を追う途上、無関係な回族の遊牧民(老幼婦女)を虐殺してしまい、これに怒った回族の首領・汰列克が二千の兵で報復、巴彦図の部隊は全滅した。永芹は更迭され、伊犁将軍・慶祥、続いて大学士・長齢が派遣された。

張格爾の挙兵と慶祥の失策

  • 慶祥は伯克・阿布都拉の「張格爾は偽者」という進言を鵜呑みにして油断したが、張格爾は先祖の墓(瑪雑)を参拝して民心を集め、清側が墓を壊すという流言も広めて数千の回衆を糾合。舒爾哈善・烏淩阿が討伐に向かうも内外挟撃を受けて舒爾哈善は戦死、烏淩阿は敗走した。
  • 慶祥は喀什噶爾に籠城するが、浩罕国から援軍を得ようとした張格爾は逆に浩罕王を裏切って渾河で撃破し、勢力を拡大。西四城(喀什噶爾・英吉沙爾・葉爾羌・和闐)は次々と陥落し、慶祥は自尽した。

清軍の反攻と長齢の渡河策

  • 道光帝は楊遇春・武隆阿を参賛大臣に任じ、長齢を揚威将軍として大軍(二万数千)を派遣。東四城(喀喇沙爾・庫車・烏什・阿克蘇)は辛くも防衛された。
  • 長齢の軍は糧食が尽きる中で敵営を急襲して糧を奪い、渾河北岸で張格爾の十余万の大軍と対峙。長齢が敵の勢いに怯んで撤退しようとした際、楊遇春が「今夜こそ好機」と説得し、夜陰と風沙に紛れて上下流から渡河、砲撃と奇襲で張格爾軍を総崩れにさせ、喀什噶爾を奪還した。

論功と善後を巡る対立

  • 朝廷は張格爾を取り逃したことを咎め、長齢・楊遇春らの加増を一部剥奪する一方、西四城は次々に奪還された。楊遇春・楊芳は張格爾を追って辺境に進むが、浩罕の伏兵に苦戦し、朝廷は深入りを咎めて撤退を命じた。
  • 善後策で長齢(旧勢力の回酋の子孫を戻して懐柔)と武隆阿(西四城を放棄し東四城に集中)の意見が対立。道光帝は両案とも却下して激怒し、両名を革職の上留任とし、那彦成を新たな欽差大臣として派遣した。

反間の計と張格爾の捕縛

  • 長齢・楊芳は回族の内部対立(白山党=張格爾派と黒山党)を利用し、黒山党を通じて「清軍は撤退し喀城は空虚」との偽情報を流した。これを信じた張格爾は再び喀什噶爾に接近するが、楊芳の軍に急襲され、喀爾鉄蓋山まで追い詰められて逃げ場を失い、転倒したところを捕らえられた。

評語

張格爾は大小和卓木のような正統な権威も持たぬ小者であり、本来討伐は容易なはずだった。しかし斌靜・永芹・慶祥と続いた無策・失政が乱を拡大させ、慶祥の死後は長齢が指揮したものの渾河で怯んだところを楊遇春の決断に救われた。西四城放棄論は東四城の防衛すら危うくする悖論であり、道光帝が厳しく叱責したのは当然である。満人官僚に人材なく、事は常に漢将(二楊)の働きに頼らざるを得なかった点に、この乱の教訓がある。