清史演義第四十七回 警を聞き回鑾し詔を下し己を罪す/喪を護り統を嗣ぎ辺報心を驚かす (聞警回鑾下詔罪己 護喪嗣統邊報驚心)

皇次子綿寧の奮戦と罪己詔

  • 塀を撃ったのは上書房にいた皇次子・綿寧であった。異変を知った綿寧は自ら銃を取り、貝勒・綿志と共に養心門で応戦し、塀を登ろうとする教徒を次々と撃ち倒した。教徒は火を放とうとしたが大雨に阻まれ、留守の王大臣が兵を率いて残党を捕らえた。宦官の劉金・高広福・閻進喜の内応も露見した。
  • 嘉慶帝は皇次子を智親王に、綿志を郡王に格上げし、自らの不徳を認める罪己詔を発した。詔では、即位以来の白蓮教の乱に続き、宮禁にまで賊が侵入した衝撃と、官吏の「因循怠玩」を厳しく戒める内容が述べられた。
  • 平乱に功のあった儀親王・成親王も加増され、教首・林清と内通の宦官らは凌遲処死となった。

李文成の討伐と滑県攻略

  • 河南では李文成が脚の傷で身動きできぬまま、道口鎮に籠る教徒を那彦成・楊遇春が討伐。楊遇春(通称「髯将軍」)の猛攻に教徒は次々と敗走し、山東・直隷の教徒も鹽運使・劉清らに鎮圧された。
  • 滑県は城壁が厚く容易に落ちなかったが、楊芳の献策で北門をわざと開けておく計を用い、李文成を誘い出して輝県山中で討ち取った(火災で焼死体となって発見)。滑県本城も楊芳が旧坑道を利用した爆破戦術で攻略し、天理教徒はほぼ全滅した。
  • 那彦成・楊遇春・楊芳・劉清らは加増され、密告により犠牲となった強克捷には忠烈の諡と専祠が与えられた。その後各地の小規模な反乱(陝西三才峡、江西の胡秉輝、安徽の方栄升、雲南の高羅衣ら)も次々と鎮圧された。

嘉慶帝の崩御と道光帝の即位

  • 嘉慶二十五年、木蘭での秋の狩猟中に嘉慶帝が発病し急逝。あらかじめ密建されていた皇太子・綿寧(智親王)が即位し、道光帝となった。名を「旻寧」と改め、翌年を道光元年とした。
  • 道光帝は倹約を志し、宮中費用や后妃の贅を大幅に削減させたが、朝臣は表面だけ質素を装い、退朝後は元通りの贅沢に戻るという形式主義がはびこった。

豫親王裕興の醜聞

  • 豫親王・裕興は侍女・寅格に横恋慕し、大祭の隙に暴行に及んだ。寅格は辱めを受けた後、縊死して抗議した。事件は宗人府の調べで発覚し、道光帝は激怒して裕興に極刑を望んだが、親王らのとりなしで王爵剥奪・三年の禁錮にとどまった。

回疆の不穏と斌靜の乱行

  • 回疆では和卓木の末裔・張格爾が辺境を騒がせ始めた。伊犁将軍・慶祥の調査で、参賛大臣・斌靜が回族の女性を弄び、部下や伯克と結託して収賄・搾取を重ねていた実態が暴かれた。張格爾はこの民心の乱れに乗じて祖先の仇討ちを唱えて挙兵し、当初は撃退されたが、斌靜の罷免と後任・永芹の着任で幕を閉じる。

評語

木蘭秋狩は本来講武の意を示す清の祖法であったが、仁宗(嘉慶帝)の度重なる巡幸は宮禁の乱、そして崩御を招いた。宣宗(道光帝)は倹約を志したが、それは末節にとどまり根本の政治には及ばなかった。宮中の裕興、辺境の斌靜のような荒淫失徳の臣を見抜けなかったことこそ、君主が反省すべき本質であった。