清史演義第四十六回 両軍門仇に復い英魄を慰む/八卦教乱を煽り皇城を鬧す (兩軍門復仇慰英魄 八卦教煽亂鬧皇城)
清安泰の弁護と阿林保への叱責
- 嘉慶帝は阿林保の密奏に半信半疑で、浙江巡撫・清安泰に真相を調べさせた。清安泰は詳細な上奏で、李長庚が自ら舵を取り、私財を投じて船を建造し、士卒に先んじて危険を冒す姿や、海戦特有の風・潮・季節の制約、船の性能が戦の帰趨を左右する事情などを丁寧に説明し、長庚の功績を強く弁護した。
- 嘉慶帝はこの上奏で阿林保の妒みを見抜き、厳しく叱責する諭旨を下し、以後の討伐は長庚に一任し阿林保の妨害を禁じた。あわせて大型軍船三十艘の建造を命じたが、阿林保は逆上し、内心で長庚の死を望むようになった。
李長庚の戦死
- 総督である阿林保は水陸諸軍への指揮権を持ち、連日出撃を促す檄文を送りつけて長庚を追い詰めた。長庚は「賊に殺されずとも奸臣の謀に落ちるなら、いっそ賊と刺し違えよう」と覚悟を決め、家族への遺書を残して出撃した。
- 各地で蔡牽を追い詰め、嘉慶十二年には黒水洋で決戦となり、長庚は自ら太鼓を打って指揮し、蔡牽の船の帆を破って火を放つところまで追い詰めたが、蔡牽側の反撃の弾丸を喉に受けて戦死した。
- 阿林保の腹心である提督・張見升は救援せず撤退し、蔡牽は残った船で安南へ逃れた。嘉慶帝は長庚の死を悼み、壮烈伯を追封し諡「忠毅」を贈った。後任として王得祿・邱良功が長庚の旧部を率いて仇討ちを命じられた。
蔡牽・朱濆の最期
- 閩督・浙撫が交代して協力体制が整うと、許松年が朱濆を撃破し、弟の朱渥は降伏した。王得祿・邱良功は蔡牽を追跡し、激戦の末に黒水洋で包囲。邱良功は負傷しながらも奮戦し、王得祿は蔡牽側が銀貨を撃ち込んでいる(弾薬が尽きた証拠)ことに気づき士気を鼓舞、蔡牽は自ら船を爆破して海に沈み、余党は降伏した。閩浙の海賊はここに平定され、広東の海賊も総督・百齢によって鎮圧された。
対外交渉と天理教の蜂起
- 嘉慶帝は西洋人の布教を厳禁し、密書を伝えた者や布教者を摘発・処罰した。イギリスは通商を求めて艦隊を派遣したが拒絶され、使者・墨爾斯の入京交渉も跪拝礼を拒んだため決裂した。
- 嘉慶十六年、彗星の出現により兵乱の兆しありとされ、閏八月を移す弥縫策が取られたが効果はなかった。
- やがて天理教(八卦教)が直隷・河南などに広がり、林清(直隷)と李文成(河南)が結んで蜂起を計画。滑県知県・強克捷はこれを察知し、上申が黙殺される中、独断で李文成を逮捕し拷問するが自白を得られず、まもなく李文成の党三千人に城を襲われ、強克捷は一族もろとも殺害され、李文成は救出された。
紫禁城襲撃
- 李文成は脚を負傷して直隷への合流ができず、河南・山東で散発的な蜂起にとどまった。京師の林清は文成の来援を待つが音信がなく、側近・曹福昌の勧めで予定通り決行を決断。二百名の同志を城内に潜入させ、宦官の内応を得て東華門・西華門から突入させた。
- 東華門は撃退されたが西華門は突破され、教徒たちは方向を見失いながら宮中を彷徨い、文穎館・尚衣監などに乱入するも目的を果たせず、隆宗門・養心門は固く閉ざされていた。一人が塀を乗り越えようとしたところで、塀の内側から放たれた弾丸に撃たれて落命した。
評語
海寇平定後まもなく天理教の変が起こったのは、内外の緩みと人材登用の誤りに起因する。閩では玉徳・阿林保のために蔡牽・朱濆が数年跳梁し、良将・李長庚が理不尽に死に追いやられた。教徒の伏在についても温承恵・高杞らは無為無策であり、強克捷の密告さえ黙殺された。宮禁においても宦官の買収を見逃し、賊が斬関して進むまで気づかなかった清の大官の怠慢は、嘉慶帝の巡幸への耽溺と表裏一体であった。