清史演義鴆毒を飲み姑婦疑案を成す/阿片を焚き中外兵端を起こす(第五 十回 飲鴆毒姑婦成疑案 焚鴉片中外起兵端)
皇貴妃鈕祜祿氏の出世
- 侍衛頤齡の娘・鈕祜祿氏は幼少期に蘇州で育ち、七巧板の遊びに巧みで聡明の評判が高かった。
- 道光帝の秀女選抜で入宮し、たちまち寵愛を受けて貴人・嬪・妃と次々に位を進め、「全」の号を賜った。
- 道光十一年に皇子弈詝(後の咸豐帝)を産み、折しも皇后佟佳氏が病没したため、皇貴妃から皇后へと昇った。
皇太后との確執
- 冊立後、皇太后の六旬万寿の際に鈕祜祿氏は御製の祝詩に和して才を示したが、皇太后はかえって「才芸に頼る者は福薄し」と危惧を漏らした。
- 鈕祜祿氏はこれを不満に思い、自分が国母となり皇子まで儲けた身であるとの自負から、次第に皇太后との間に溝ができた。
- 双方に仕える宮女・宦官が中傷を吹き込み、姑嫁の不和は年を追って深まっていった。
皇后の急死
- 道光十九年末、皇后は病んだが年明けにいったん快方に向かい、皇太后から酒を賜って飲んだところ、その夜のうちに急逝した。
- 朝廷は喪儀の体裁を整えて発表したが、道光帝は密かに疑念を抱きつつも家法を憚って口を噤み、後に「孝全皇后」と諡した。
- 世間ではこの死を毒殺と噂し、後人の詩にもその疑いが詠まれている(詩:寵を恃んだ皇后の急死を毒殺かと仄めかす内容)。
アヘンの流入と英国の通商
- 折しも英国が海路で通商圏を広げ、インドを従えて印度産アヘンを中国に大量に売り込み始めた。
- アヘンは中毒性が強く、明末以来細々と入っていたものが、道光期には輸入量・銀の流出とも激増し、朝廷内でも厳禁論が高まった。
- 湖広総督林則徐が最も強く厳禁を説き、道光帝はこれを容れて林則徐を欽差大臣として広東へ派遣した。
林則徐の禁煙断行
- 林則徐は両広総督鄧廷楨と意気投合し、まずアヘン貯蔵船の取り締まりを図り、水師に港口を封鎖させた。
- 洋行を通じて英商にアヘンの引き渡しを命じたが、英領事義律(エリオット)は応じず、林則徐は洋館を包囲し貿易を停止させる強硬策に出た。
- 追い詰められた義律はついに二万余箱のアヘンの供出を約束し、虎門で受け取ったアヘンは焼却ではなく石灰と海水で溶かし海に流す方法で処分された。
英国との対立激化
- 道光帝は林則徐の上奏を容れてアヘンを現地で処分させ、英国商人には「アヘンを持ち込めば没収・処刑」との誓約を求めたが、義律だけはこれを拒み澳門へ退去した。
- 義律は英艦を集めて九龍島を攻めたが、清の参将賴恩爵に一艦を撃沈され、英国貿易は全面停止となった。
- その後も英艦が挑発を続け、関天培の水師と交戦して敗走するなど小競り合いが続いた。
英国の開戦決定
- 清の一部大臣は強気論に傾いたが、林則徐は英国のみを通商停止とする穏健策を進言し、道光帝もこれを容れた。
- 英国では議会が紛糾しつつも僅差で主戦派が勝り、インド駐留軍を動員して艦隊を中国へ差し向けることを決定した。
- 章末は次回、英軍の来襲の顛末を語ると予告して結ばれる。
評語
皇后急死の一件は真偽定かならぬが、才を恃み寵に驕った鈕祜祿氏と皇太后との確執が背景にあったことは疑いない。宮中の暗闘が収まらぬうちに、海外との戦端まで開かれた。道光帝の慢心が禍根となり、事態が収拾つかぬ域にまで至ったことを、著者は家庭の乱れが国家の乱れに通じるとして戒めている。