清史演義第三十九回 傅経略、暫く南服を平ぐ/阿将軍、再び金川を定む (傅經略暫平南服 阿將軍再定金川)
明瑞の最期
小猛育で大軍に包囲された明瑞は決死の覚悟を諸将に告げ、夜陰に乗じて突囲を図る。哈国興の先鋒は血路を開いて脱出に成功するが、中隊の観音保は包囲され、明瑞自ら援護に向かうも力尽き、観音保は銃弾に倒れ、明瑞も銃創を受けて壮絶な戦死を遂げる。生還できたのは哈国興率いるわずかな兵のみであった。
北路軍の遅滞と木邦の陥落
北路を進んでいた額爾景額は病死し、弟の額爾登額が代わって指揮したが敗退を重ね、木邦への救援要請にも応じず遠回りをしたため木邦は陥落、参贊珠魯訥らが戦死した。乾隆帝は激怒し、額爾登額を凌遲、譚五格を斬刑に処した。
傅恒による再遠征と老官屯の攻防
新たに経略大臣に任じられた傅恒は、阿裡袞・阿桂・舒赫德らを率いて大軍を編成し緬甸へ進撃する。暑熱と疫病に悩まされながらも蠻莫まで進み、阿桂の造った水軍で緬兵の水陸両軍を撃破するが、老官屯の堅固な陣地には苦戦を強いられる。あらゆる攻城策を試みるも効果なく、阿裡袞は病没、傅恒も病に倒れる中、和議が成立し、緬甸は朝貢を約し双方の俘虜・侵地を返還することで清軍は撤兵した。
遠征の代償と両金川の再燃
この遠征は多大な出費と明瑞の戦死という犠牲を払いながらも実質的な成果は乏しく、傅恒は帰京後、憂憤のうちに病没した。折しも大金川では、老いた莎羅奔に代わり兄の子郎卡が台頭し、近隣を侵略し始めていた。郎卡の死後は子の索諾木が小金川の僧格桑と結び、両金川は攻守同盟を結んで清の統制を離れていった。
温福・阿桂の出征と温福の戦死
清廷は温福・桂林を派遣するが、桂林の怠慢で薛琮の軍が全滅する不祥事もあった。阿桂が桂林に代わり参贊となり、小金川の要衝美諾を攻略、僧格桑を大金川へ追い、老父澤旺を捕らえて京師に送る。続いて大金川攻略に移るが、温福は木果木で油断から番兵の急襲を受け、混乱の中で戦死した。海蘭察の救援で辛うじて潰兵を収容する。
阿桂の大金川平定
温福の戦死を受けて阿桂が定西将軍に任じられ、小金川を奪還したのち大金川への総攻撃を開始する。海蘭察が険しい那穆山を奇襲で陥落させるなど各所で激戦を制し、索諾木は僧格桑を毒殺してその首と家族を差し出して和を請うが、阿桂はこれを退けて攻撃を続行する。乾隆四十一年、ついに烏勒圍・噶爾崖を陥落させ、索諾木・莎羅奔らは投降、京師で凌遲に処された。大金川は阿爾吉庁、小金川は美諾庁として四川省に編入され、阿桂ら諸将は厚く恩賞を受けた。
緬甸・暹羅との和解
その後、緬甸は新王孟雲の代に至り朝貢と俘虜の返還を申し出て、清は緬甸国王として冊封する。西隣の暹羅(タイ)も鄭昭・鄭華父子の代に清へ入貢し、緬甸・暹羅はともに清に服属することとなった。
台湾の動乱の予兆
功臣の肖像を紫光閣に掲げて功業を称える中、突如台湾より林爽文の乱の報せが届く。
評語
傅恒と阿桂は乾隆朝の名将であると同時に「福将」(幸運に恵まれた将)でもあった。明瑞の小猛育での敗死があったからこそ傅恒はその後を慎重に用兵し、温福の木果木での戦死があったからこそ阿桂は堅忍の末に成功を収めた。世の物事は一度の失敗を経て初めて教訓を得るものであり、明瑞・温福の不幸はかえって傅恒・阿桂の成功を成り立たせたと言える。両者の死後、名将は現れても福将は現れず、乾隆朝は最盛期であると同時にすでに衰退の兆しを内包していた。この回で傅恒・阿桂の事績を描くのは、実は清朝史の転換点を暗示するものである。