清史演義海島を平げ一将冤を含む/外藩を定め両邦懾服す(第四 十回 平海島一將含冤  定外藩兩邦懾服)

台湾・林爽文の乱

台湾では朱一貴の乱の後、清朝が彰化県や北淡水同知を増設したが、官吏が増えるほど民の負担も増した。乾隆五十一年、彰化の土豪林爽文が天地会を組織し、次第に勢力を広げる。総兵柴大紀が台湾知府孫景燧らに取り締まりを命じたが、討伐隊は近隣の無関係な村落を焼き払い略奪したため、逆に住民の恨みを買い、爽文の勢力に加わる者が増えた。爽文は夜襲で官軍を破り、彰化・諸羅を陥落させ、淡水を脅かした。柴大紀は府城を死守し、福建から派遣された水師提督黄仕簡・陸路提督任承恩らの援軍は役に立たず、柴大紀のみが諸羅を守り抜いた。

諸羅籠城と柴大紀の奮戦

清廷は黄仕簡・任承恩を罷免し、常青を靖逆将軍に任じ、李侍堯・藍元枚らも動員したが、いずれも敵の勢いに怖れをなして進めなかった。爽文は十余万の兵で諸羅を包囲したが、柴大紀は寡兵ながら糧道を確保し、内応者や偽りの投降者を見破って斬った。乾隆帝は柴大紀の死守の上奏に感涙し、義勇伯に封じ、諸羅県を嘉義県と改めた。

福康安の到着と爽文の捕縛

乾隆帝の寵臣傅恒の子・福康安が海蘭察を伴い援軍として渡海。海蘭察の奮戦で嘉義の囲みを解き、大理杙の爽文の本拠を攻略した。柴大紀は出迎えの際に略式の礼で福康安を迎えたため、福康安の不興を買う。爽文は集埔に逃げ込むが、海蘭察の別動隊に捕らえられ、一族もろとも京師で処刑された。

柴大紀の非業の死

福康安・海蘭察は公爵に進んだが、柴大紀はかえって福康安の讒言により「戦功を偽った」と弾劾され、革職・拿問された上、乾隆帝の尋問でも冤罪を訴えたにもかかわらず処刑された。任承恩・恒瑞ら実際に無為無策だった者はむしろ命を全うし、佞臣和珅はこの機に乗じてさらに昇進した。

安南(ベトナム)出兵

両広総督孫士毅の上奏により、安南の内乱(黎氏と阮氏の争い、阮文岳・文惠兄弟の台頭)が伝えられる。清は亡命した黎氏の遺臣阮輝宿を保護し、孫士毅・許世亨が出兵して黎維祁を安南国王に復位させた。しかし阮文惠の反撃で清軍は富良江で大敗し、許世亨らは戦死、士毅は辛くも逃れた。

阮光平の恭順と乾隆帝の八旬万寿

後任の福康安のもとに阮文惠(改名して光平)から降表が届き、清への臣従と入朝を約したため、乾隆帝はこれを認め安南国王に封じた。翌年の乾隆帝八十歳の祝典は空前の盛儀となり、諸国が使節を送って祝賀した。

チベット・グルカ戦争

チベットでは班禅ラマ死後の遺産をめぐり、その兄仲巴胡土克図が独占したことに弟マルパが憤り、ネパールのグルカ族を誘い入寇させた。駐蔵大臣保泰や侍衛巴忠らは戦わずして賄賂で和議を図ったが破綻し、グルカが再度チベットを侵した。乾隆帝は福康安・海蘭察を派遣して反撃させ、幾多の激戦の末(海蘭察の援護に福康安が救われる場面も含む)グルカを和議に応じさせ、五年一貢の約を結んで撤兵した。

乾隆帝「十全老人」を称す

乾隆帝は準噶爾平定、回疆平定、金川平定、台湾平定、安南・ビルマ服属、グルカ服属などの十度の武功を数え、自ら「十全老人」と号し、満・漢・蒙・蔵の四体文字で碑を建てさせた。乾隆帝はすでに在位六十年に及び、皇位を子に譲る内禅を思い立つ。

評語

本回は福康安を中心に描くが、台湾平定・安南出兵・グルカ征討いずれも実際の功は海蘭察の奮戦によるところが大きく、福康安の功績とするのは実情に合わない。とりわけ柴大紀は忠勇に優れながら、単に略式の礼を欠いたことで讒言により死に至らしめられており、名将の器量とは言い難い仕打ちである。乾隆帝が福康安を偏愛したことは、後世に彼を「龍種」(乾隆帝の落胤)と疑う説を生んだのも無理はない。本回から福康安の人柄と乾隆帝の将帥の用い方が窺える。