清史演義第三十八回 江南に遊び中宮髪を截る/緬甸を征し大将軀を喪う (游江南中宮截髮  征緬甸大將喪軀)

香妃の死を知った乾隆帝

郊祭から戻った乾隆帝は香妃の死を知り、深く傷心する。宮監から皇太后が郊天中に密かに死を賜ったこと、遺体は穏やかな死に顔であったことを聞き、乾隆帝は涙を流して弔った。以後しばらく気を病み、加えて皇十四子永璐・皇三子永琪の相次ぐ死も重なって沈み込んだ。

二度目の南巡

傅恒・和珅らの慰めもむなしく、和珅の提案で再度の江南巡幸が決まる。皇太后も賛同し、今度は皇后も同行することとなった。

済寧州の顔希深の一件

済寧州の知州顔希深は、飢饉に際し独断で倉を開いて賑済を行ったため、御駕を出迎える手配が遅れた。和珅は激怒し山東巡撫を叱責、顔希深の母何氏まで呼び出されて詰問される事態となったが、何氏が涙ながらに事情(河工の危機に際し息子を説き伏せて放粮させた経緯)を説明すると、皇太后はその孝心と義心に感じ入り、赦免を命じた。乾隆帝もこれに従い、顔希深母子は罪を免れた。顔希深は後に河南巡撫まで昇進する。

秦淮河の遊興と皇后の怒り

一行は江寧に至り、和珅の手引きで乾隆帝は身分を隠して秦淮河の妓船に微行し、妓女たちと酒宴を楽しんだ。この一件は宮監を通じて皇后の耳に入り、杭州への道中で皇后は乾隆帝と激しく口論となる。憤慨した皇后はついに自らの髪を切り落とした(満族の風習で忌まれる行為)。激怒した乾隆帝は皇后を先に京師へ送り返し、以後夫婦の情は絶えた。

皇后の死

皇后は憂憤のうちに病を得て一年余り患い、乾隆帝が木蘭で秋の狩猟に出ている間に息を引き取った。乾隆帝は上諭で皇后の「跡瘋迷に類す」との行状を非難し、喪儀は皇貴妃の例に従うよう命じ、正式な皇后としての葬儀を許さなかった。以後乾隆帝は正式に皇后を立てず、後継の嘉慶帝の生母魏佳氏が没後に孝儀皇后として追封されるに留まった。

緬甸との関係の悪化

乾隆十八年頃、雲南の民が緬東で銀山を開き朝貢の仲介をしていたが、地方官の誣告で獄死する事件が起きた。緬甸国内でも新王雍藉牙が台頭し、桂家・木邦の土司を撃破。桂家の土司宮裡雁は雲南に逃れるが総督呉達善に財貨を要求され、これを拒んで孟連土司刁派春に捕らえられる。

囊占の復讐

刁派春は宮裡雁を雲南へ引き渡し、その妻囊占を側室にしようとしたが、囊占は計略で刁派春を酔わせて殺害し脱出、夫が呉達善に殺されたことを知ると孟艮土司に助けを求めて滇辺に侵攻させた。

緬甸出兵の失敗が続く

雲南総督は次々と交代し、劉藻は敗戦の責任を取れず自刎、楊応琚も緬甸への進攻を試みるが趙宏榜の敗走などで失敗を重ね、最終的に自らも自尽を命じられた。

明瑞の緬甸遠征と苦戦

伊犁将軍明瑞が雲貴総督となり緬甸への本格的な遠征を行うが、深入りしすぎて糧食が尽き、退却を余儀なくされる。緬兵の追撃を受けながらも一度は伏兵で撃退するが、退路の要衝・小猛育で大軍に包囲され、絶体絶命の窮地に陥る。

評語

高宗(乾隆帝)の南巡と皇后の断髪の一件は、当時の史官が真相を隠し「跡瘋迷に類す」との上諭のみを記録したが、実際には秦淮河での遊興という原因があったと伝えられる。多くの責は和珅の先導に帰せられるべきであろう。後半の緬甸遠征の記述は、呉達善・劉藻・楊応琚らがいずれも任に堪えず、賄賂の横行と辺境官吏の腐敗によって清の勢いに陰りが見え始めたことを示している。猛将明瑞が孤軍で緬甸に深入りし空しく命を落としたことは痛惜に堪えない。それでも高宗はなお功名を求める姿勢を改めなかった。