清史演義第三十七回 准部を滅し余孽殲さる/回疆を蕩し貞妃節に殉ず (滅准部餘孽就殲 蕩回疆貞妃殉節)
アムルサナの離反と班第・鄂容安の死
達瓦齊の捕縛後、班第・鄂容安は少数の兵とともにアムルサナと共に伊犁の戦後処理にあたっていたが、アムルサナは密かに諸部に自分を大汗に立てるよう働きかけ、清の誅殺の密命を察知して逆に班第らを攻撃した。班第・鄂容安は敗走の末、自刎した。
清軍の追討とアムルサナの逃亡
清は策楞・玉保らを派遣したが、アムルサナの偽りの投降情報に翻弄され失敗、両者は革職となった。続いて達爾黨阿・兆惠が派遣されるが、達爾黨阿もまたアムルサナの計略にはまり、額魯特三部の新封台吉たちも次々と反乱に加わった。
兆惠の孤軍奮闘
兆惠は伊犁からウルムチへ撤退する途上、糧食・武器が尽きる中、番兵の包囲を受けて絶体絶命となったが、侍衛図倫楚の援軍によって九死に一生を得た。
成袞紮布・兆惠による反撃と准部の壊滅
清廷は達爾黨阿を召還し、成袞紮布・兆惠を再派遣。折しも准部内でも内紛や疫病が広がり、兆惠は破竹の勢いで敵を破った。アムルサナはハザフに逃走し、清は交渉の末に引き渡しを求めたが、アムルサナは天然痘で病死し、遺体のみが清側に引き渡された。乾隆二十二年から二十五年にかけての討伐で、額魯特二十余万戸のうち多くが死亡・逃散・討滅され、残された者はわずか二万戸ほどとなった。
回疆平定への布石
准部平定後、清は伊犁将軍を置いて統治体制を整えた。続いて天山南路の回疆にも目を向ける。回疆はもと元裔の領地であったが、回教の指導者一族(大小和卓木)が実権を握るようになっていた経緯があり、准部の内乱に乗じて小和卓木霍集占が反清勢力に加わった。
大小和卓木の自立と清軍の失敗
兄の那布敦(大和卓木)は当初清への服従を望んだが、弟の霍集占の説得で自立を決意し、巴図爾汗を称して諸城に檄を発した。清の招撫使阿敏図は庫車の城主鄂対の忠告を聞かず単身で庫車に赴いて謀殺された。続く靖逆将軍雅爾哈善の庫車攻めも、地下道作戦の失敗で大敗し、大小和卓木を取り逃がした。
兆惠の苦戦と葉爾羌の包囲
乾隆帝は雅爾哈善を処刑し、兆惠に南征を命じた。兆惠は寡兵で葉爾羌に進撃するが、橋を落とされて分断され、総兵高天喜の戦死など大きな損害を出し、包囲された中で自給自足しながら耐え抜いた。
富德の救援
阿克蘇に留まっていた富德は兆惠救援に向かうが自らも回兵に包囲され、愛隆阿・阿裡袞の来援によってようやく脱出、両軍合流して兆惠の囲みを解いた。
大小和卓木の最期
乾隆二十四年、清の大軍が喀什噶爾・葉爾羌に進撃、大小和卓木は蔥嶺を越えて西へ逃れたが、清軍に追われて巴達克山に逃げ込む。巴達克山の部酋は使者を斬られた恨みから大小和卓木を捕らえて処刑し、清の要求に応じてその首と家族を引き渡した。凱旋した兆惠・富德らは厚く恩賞を受けた。
香妃の登場
凱旋の際、乾隆帝は捕虜の中に霍集占の妃であった絶世の美女(後の香妃)を見出し、その哀れな様子に心を動かされ赦免を命じる。和珅の進言により香妃は宮中に召し入れられるが、彼女は亡国の身を悲しみ、ひたすら拒み続けた。乾隆帝は回式の衣食住を整えるなど懐柔を試みたが心は動かず、ついに匕首を取り出して自害をほのめかす事態となる。これを知った皇太后は、乾隆帝が危害を加えられることを恐れ、香妃に殉節を命じた。
評語
アムルサナや大小和卓木は徒党を煽動したに過ぎない小人物であり、兆惠に討滅されるのは必然であった。もし智勇兼備の敵将を相手にしていれば、兆惠は塞外に屍をさらしていたかもしれない。一方、捕虜となった香妃は天子の威に屈することなく貞節を貫いて命を絶った。異国の女性にすらこのような気概があったことは、多くの人々を恥じ入らせるに足る。作者はここに彼女の名を特に表彰する。