清史演義第三十六回 御駕南巡し名園に駐蹕す/王師西討し叛酋擒えらる (御駕南巡名園駐蹕 王師西討叛酋遭擒)

那拉氏の立后と鄂爾泰・張廷玉の処遇

孝賢皇后の一周忌に際し、皇太后は嫻貴妃那拉氏を後任の皇后にと勧め、乾隆帝もこれに従った。乾隆帝はすぐには冊立せず、まず那拉氏を皇貴妃として六宮を摂させ、二周忌を経てようやく正式に皇后とした。折しも重臣鄂爾泰は死去、張廷玉も老齢で辞職を願い出ていたが、両者の派閥争いを不快に思っていた乾隆帝は、張廷玉が退任に際して太廟配享を強く求めたことに立腹し、恩賜品を取り上げ伯爵を剥奪、配享も一旦取り消した。張廷玉は病没したが、乾隆帝は結局配享を許した。

和珅の抜擢

宮廷の不満を紛らわすため乾隆帝は各地を巡幸するようになり、圓明園にもたびたび足を運んだ。ある日、御蓋を忘れた従者を叱責する乾隆帝に対し「典守者其責を辞せず」と発言した若い官学生・和珅が目に留まり、乾隆帝はその容姿と機転を気に入って身近に召し使うようになった。和珅は乾隆帝の意を先読みして立ち回り、瞬く間に寵愛を得て宮中総管に任じられた。

南巡の計画

乾隆帝は南方への巡幸を望みながら費用を懸念していたが、和珅は康熙帝の南巡の先例や国庫の充実を理由に強く勧め、乾隆帝はこれに従って南巡を決定した。和珅は龍船の建造や行宮の整備を取り仕切り、私腹を肥やしつつ侍郎に昇進した。乾隆十六年正月、乾隆帝は皇太后を奉じて南巡に出発、和珅が先導役を務め、各地の督撫はこぞって和珅に取り入った。

江南巡遊と海寧陳家訪問

一行は運河を南下し、揚州・蘇州・杭州などで長期に滞在し、西湖などの名勝を巡った。さらに海寧の陳閣老(陳世倌)邸を訪ね歓待を受けたが、乾隆帝の容貌が陳閣老に似ているとの評判があり、乾隆帝自身も内心これを気にかけていた。

和珅が探った出生の秘話

乾隆帝の密命を受けた和珅は、夜、陳家の使用人たちの立ち話を盗み聞きする。かつて陳家に生まれた男児が、当時皇太后であった人物に取り上げられた際に女児にすり替えられ、今の皇帝がその取り替えられた子ではないか、という噂であった。和珅はこれを乾隆帝に報告するが、乾隆帝は「根拠のない話だ」として取り合わなかった。

漢装の一件と巡幸の終わり

一行は蘇州・江寧などを経て帰京した。乾隆帝が漢族の服装への改変を望んだ際、皇太后は不忠不孝であると強く諭し、乾隆帝はこれを断念した。

準噶爾の内紛とアムルサナの投降

数年後、準噶爾では噶爾丹策零の死後、後継争いが続き、達瓦齊が実権を握っていた。輝特部のアムルサナ(阿睦撤納)は達瓦齊に敗れて清に内附を願い出た。清の軍機大臣舒赫德はアムルサナの人相を怪しみ重用に反対したが、乾隆帝は聞き入れず、傅恒の追従もあってアムルサナを親王に封じ出兵を決定した。

アムルサナの正体

アムルサナは策妄アラブタンに父を殺された丹衷の遺児で、後父の輝特部を継ぎ、達瓦齊と結んで喇嘛達爾札を殺した後、逆に達瓦齊と対立するようになった経緯があった。清の力を借りて達瓦齊を滅ぼし、自ら準噶爾を支配しようという野心を秘めていた。

達瓦齊の敗走と捕縛

乾隆二十年、清は班第・永常を将軍とし、アムルサナと薩拉爾を先導として二路から進軍、諸部落は次々と帰順した。達瓦齊は格登山に敗走し、清の降将阿玉錫の夜襲を受けて総崩れとなり、頼った回酋霍吉斯に裏切られ捕縛されて京師に送られた。

献俘と論功行賞

乾隆帝は達瓦齊らを赦免し、傅恒・班第・薩拉爾・アムルサナ・瑪木特らに爵位を与えた。旧額魯特四部の再興にあたり、噶爾藏・巴雅特・沙克都・そしてアムルサナに各部を分封したが、これはかえってアムルサナの野心を刺激することになった。

アムルサナの謀反

まもなく伊犁の留守大臣からアムルサナ謀反の報がもたらされ、乾隆帝は驚愕する。

評語

この回で陳閣老の一件を語るのは陳閣老を伝えるためではなく、乾隆帝その人を語るためである。アムルサナの一件を語るのも同様である。乾隆帝の第一次南巡はすでに莫大な浪費を伴っており、以後の数度の南巡は民を疲弊させ財を費やしたことが察せられる。陳閣老の一件は本回における脇筋にすぎず、古老の伝説を借りた彩りにすぎない。南巡の後に西征を議するくだりは、乾隆帝の功名を好む気質を描き出すもので、アムルサナの投降もまた偶然の機に乗じたものであり、達瓦齊はさらにその添え物というべき存在である。