清史演義第三十一回 青海を平げ叛酋を駆除す/硃諭を頒ち同胞を惨戮す (平青海驅除叛酋 頒硃諭慘戮同胞)
青海の反乱と平定
- 青海の和碩特部を継いだ羅卜藏丹津は、清の冊封を離れて独立を図り、雍正元年に諸部を集めて自ら「達賴渾台吉」を名乗り、策妄阿布坦とも通じて挙兵を企てた。
- 同族の額爾徳尼・察罕丹津は従わず清へ帰順。清の侍郎常壽は調停に赴くが丹津に拘束された。
- 雍正帝は年羹堯を撫遠大将軍、岳鍾琪を奮威将軍に任じて西寧に進駐させ、南北から丹津を牽制。岳鍾琪は郭隆寺付近の番僧勢力を撃破するなど各地で丹津軍を切り崩し、丹津は常壽を送り返して降伏を願い出るが清廷はこれを許さず、さらに進撃を促した。
- 岳鍾琪は上策として先制急襲を進言し、雍正二年二月、精鋭を率いて夜間強行軍で丹津の本営を急襲。丹津は女装して白駱駝で単身逃走し、その部衆・弟妹は捕らえられた。わずか半月ほどで大勝を収め、年羹堯・岳鍾琪は爵位を賜り、青海の地は蒙古諸旗に分割・編入されて西寧に弁事大臣が置かれた。
允禩・允禟・允禵らへの粛清
- 雍正帝は隆科多と謀り、允禟を西寧犒師に、允䄉を張家口巡閲に赴かせるなど、兄弟を都から遠ざけていく。允䄉は命に従わず張家口に留まったとして郡王を剥奪され宗人府に幽閉、允禟も西寧での不法行為を咎められ貝子を剥奪された。
- 廃太子允礽はこの年に病死。雍正帝は理密親王を追贈し手厚く弔うが、これは兄弟への情というより体裁を整える措置と見られている。
- 允禩・怡親王允祥・隆科多らは総理事務の任を退くが、允禩は私心をもって事を妨げたとして評価されなかった。密偵(血滴子の一味)による監視で、允禟が西洋人穆経遠と暗号を用いて允禩と通信していること、允禵が「真主」と記された投書を隠蔽したこと、允禩が帝の死を呪詛していることなどが次々報告される。
- 雍正帝は激怒し、允禩の王爵剥奪・宗人府幽閉、允禟の保定移送、允禵の召還を命令。廷臣らに命じて允禵・允禟・允禩それぞれの大罪を数十カ条にわたり弾劾させ、極刑を求める上奏が相次いだ。雍正帝は形だけ再三の合議を求めたのち、允禩・允禟を宗籍から除名し、それぞれ満洲語で「豚」「犬」を意味する「阿其那」「塞思黑」と改名させた。
- 雍正帝自ら長文の硃諭を発し、両者の「奸邪」ぶりと自らの寛容・苦衷を縷々弁明し、天下に周知させようとした。
阿其那・塞思黑の獄死
- 諭旨発布後まもなく、幽閉先で阿其那(允禩)、次いで塞思黑(允禟)が相次いで急死したと報告される。雍正帝は表向き驚き悲しんでみせるが、暗殺を疑わせる書きぶりで語られる。
- 諸王大臣は両者の戮屍・妻子処刑、允禵・允䄉の斬決までも上奏するが、雍正帝は「すでに冥誅を受けた」として妻子は実家に戻し禁錮するに留めた。後人はこの顛末を詠んだ詩を残している。
評語
青海平定の功は実質岳鍾琪によるものだが、恩賞は年羹堯に厚く、その父・子にまで爵位が及んだ点に不審が残る。世宗の即位は内に隆科多、外に年羹堯を恃んだとされ、允禩・允禟らは康熙帝在世中に嫡位を窺った罪はあるにせよ、世宗はこれを目の敵にし、初めは懐柔しつつ後には拘禁・暗殺に及んだ。「阿其那」「塞思黑」と改名して辱めたことは、兄弟や祖先まで辱めるに等しいと厳しく批判している。