清史演義第三十二回 兎死し狗烹られ功臣驕り戮せらる/鴻魚網に罹り族姓株連す (兔死狗烹功臣驕戮 鴻罹魚網族姓株連)

年羹堯の驕慢

  • 青海平定の功で一等公に叙され父・子まで爵位を得た年羹堯は、雍正帝の少年時代からの友人・擁立の功臣であることも重なって驕り高ぶり、些細な失態でも従僕を斬るほど苛烈になった。
  • 自邸に招いた家庭教師の王先生は、館僮が処刑されるのを見て恐れをなすが辞去もできず、三年勤めた末にようやく郷里へ帰される。帰郷すると、年羹堯が密かに手配した邸宅・使用人が既に整えられており、さらに子息を人質同然に預けられる逸話が語られる。

年羹堯の粛清

  • 西寧では蒙古貝勒の娘を無理やり奪うなど専横を極め、夜警を怠ったとして提督・参将を即座に処刑するなど軍中でも恐れられたが、賞金も気前よく与えたため兵の離反は防がれていた。
  • 允禩・允禟の粛清が一段落すると、雍正帝は年羹堯を杭州将軍に左遷。王大臣は上意を汲んで弾劾し、雍正帝は年羹堯を十八階級降格して城門守衛に落とし、最終的に九十二条の大罪で弾劾させ、自尽を命じた(家族は連座を免れ、子の年富のみ処刑・財産没収)。

隆科多の失脚

  • 都察院・刑部の弾劾により隆科多も次第に地位を落とされ、最終的に大不敬・欺罔・紊乱朝政・奸党・不法・貪婪など四十カ条もの罪状で斬刑相当とされる。
  • 審問で隆科多は「首犯は皇帝その人だ」と言い放つが、雍正帝は「即位の宣旨を承ったのは隆科多一人のみ」であることに配慮し、正法は免じて幽閉に留め、家族の処罰も免除した。

文字の獄

  • 年羹堯事件に連座し、汪景祺(『西征随筆』の記述で処刑)、銭名世(詩で年羹堯を賛美し「名教罪人」の額を掲げられる)などの筆禍が続く。
  • 江西の考官査嗣庭は試題の文言が「雍正」の文字を暗に貶めるものと難詰され、獄死のうえ戮屍・子の処刑・家族流罪に処された。前御史謝濟世も注釈書が朱子学批判とされ軍台送りとなり、そこで病死した。

呂留良一件

  • 種族思想を説いた学者呂留良の遺著を通じて感化された湖南の曾静は、門人張熙を川陝総督岳鍾琪(南宋岳飛の後裔)のもとへ遣わし、清朝打倒を説く書を届けさせる。
  • 岳鍾琪は張熙を捕らえて拷問するが自白させられず、偽装工作(同郷の密偵を装わせ、岳鍾琪自身も内応するふりをする計略)によってようやく曾静の名を引き出させることに成功する。
  • 曾静・張熙は捕らえられ尋問の末、呂留良への傾倒の経緯が明らかになる。呂留良は戮屍、著書は焼却。子の呂毅中は処刑、弟子の厳鴻逵は死後梟首、沈在寬は凌遅、家族は黒竜江へ流罪となった。曾静・張熙自身は「訛言に惑わされた」として赦免され、事件の顛末は『大義覚迷録』として頒布された。呂留良の娘・呂四娘だけは老母を連れて遠くへ逃れたと伝えられる。

評語

年羹堯・隆科多はともに擁立の功臣でありながら、世宗によって次々と粛清された。功をなした後もあえて抑制せず驕らせ、後に罪を着せて誅殺する手法は、著者いわく「処心積慮」の陰険さを示すものである。文字の獄では一件で数十百人が連座する惨酷さがあり、専制の淫威が臣民に及んださまが読み取れると総括している。