清史演義暢春園にて聖祖崩ず/乾清宮にて世宗嗣を立つ(第三 十回 暢春園聖祖賓天 乾清宮世宗立嗣)
台湾平定の完了
- 朱一貴が台湾を占拠した後、澎湖に逃れた官吏・住民は動揺したが、守備の林亮が渡海を止めて人心を鎮めた。
- 水師提督施世驃と南澳総兵藍廷珍が澎湖に集結し、林亮・董芳を先鋒として鹿耳門を攻撃。折しも朱一貴は杜君英と内輪もめを起こし、民心も離反していたため、清軍は連戦連勝した。
- 台湾城に迫った清軍に対し、軍師黄殿は夜襲を企てるが、藍廷珍の伏兵に敗れる。黄殿は城が閉ざされて逃げ場を失い、濠に身を投げて自害した。城は、かつて捕らえられていた清の遊撃劉得紫が民を率いて奪還していた。
- 施世驃は降伏者を許す方針を示し、叛徒は次々投降。朱一貴は捕らえられ、杜君英らとともに北京へ送られ凌遅刑に処された。逃亡した地方官も処罰され、既に自殺していた王珍は棺を暴いて梟首された。
康熙帝の千叟宴と発病
- 康熙六十一年春、台湾平定と天下太平を喜んだ康熙帝は、六十五歳以上の満漢の官吏・旧臣約千人を乾清宮に招いて千叟宴を催した。帝の七律に唱和させたが、多くの老臣は代作や取り次ぎで急場をしのいだ。
- 同年冬、次年の七十歳の祝典を控えていた矢先、康熙帝が発病。高熱と激しい息切れに見舞われ、薬でいったん持ち直すも本復には至らなかった。
- 皇四子胤禎は看病中も夜な夜な理藩院尚書(自身の母方の叔父)隆科多と密談を重ねていた。
康熙帝の崩御と雍正帝の即位
- 病後の気晴らしにと胤禎は暢春園への転地を勧める。冬至の郊天の儀を代行するよう命じられた胤禎は当初ためらいを見せたが、結局承知して斎戒に入り、その夜も隆科多と密議した。
- 暢春園で病が重くなった康熙帝は昏睡がちとなり、隆科多にのみ皇十四子(允禵)を呼び戻すよう命じようとしたが、言葉が続かず「四子」とだけ発した。隆科多はこれを皇四子胤禎への使いとして処理した。
- 翌朝参内した胤禎に、康熙帝は「好!好!」の二言を残して崩御した。
- 隆科多は諸皇子に遺詔を読み上げ、「皇四子は人品重厚で朕によく似ており、大統を継ぐべし」として胤禎の即位を告げた。允禩・允禟らは真偽を疑うが、隆科多は強く言い切り、胤禎が即位した(世宗雍正帝)。後世、この即位の経緯を「斧声燭影」の疑案になぞらえた宮詞が伝わる。
康熙帝の治世評価
康熙帝在位六十一年は、南征北討と内治を兼ね備えた時代であった。鼇拜失脚後は大学士明珠がやや驕慢だったほかは、魏裔介・李光地・湯斌・于成龍・張伯行らの清廉な名臣が輩出し、彭孫遹・高士奇らの文臣も治世に彩りを添えた。康熙帝自身も学問を好み、天文・音楽・法律・兵事から医薬・蒙古語・ラテン文字まで通じ、倹約と寛政により民に慕われた名君であったとされる。
雍正帝の治世初期
- 雍正帝(四阿哥)は即位後、允禩・允祥を親王に封じて隆科多・馬齊とともに内外の政務を統括させ、允禵には撫遠大将軍の任を解いて奔喪を命じ、軍務は年羹堯に引き継がせた。
- 元日の朝賀の後、雍正帝は官吏の綱紀粛正を求める諭旨を連発。翌日、正直に牌遊びをしていたと申告した侍郎に対し、雍正帝は失った牌一枚を密かに贈り、その正直さを褒めた逸話が語られる。これにより宮中に暗躍する密偵「血滴子」の存在が仄めかされる。
- 血滴子とは、革袋に仕込んだ刃物で標的の首を斬り、薬品で溶かすという暗殺道具とされる。その首領格が四川総督年羹堯で、若い頃は乱暴者だったが名師に鍛えられ武芸を修め、雍正帝(即位前)と結んで重用され、累進して総督にまで至った経歴が語られる。
- 雍正帝は年羹堯・隆科多を頼みとして即位した後、允禵(西域の兵権を握り最大の対抗者)を奔喪の名目で呼び戻し、年羹堯にその任を継がせた。允禵は後に盛京へ移され陵墓造営を命じられ、猜疑を含んだ諭旨で郡王に封じられるなど、恩威を織り交ぜて牽制された。
立儲密建の制
- 雍正帝は満漢の大臣を集め、皇太子を公然と立てることの弊害を説き、皇位継承者の名を密かに記した詔書を匣に収め、乾清宮の「正大光明」の額の裏に隠す新方式を発案。大臣らは異論なく賛同し、密匣は額の裏に安置された。
- 後に雍正帝崩御の際にこの匣が開けられ、中には皇四子弘暦の名が記されていた。弘暦の生母鈕祜祿氏をめぐっては、実は女児を産んだが海寧の陳家の男児とひそかに取り替えたという巷説があり、これを詠んだ宮詞も伝わる。
- 立儲が定まった直後、四川総督年羹堯から「青海で反乱」の急報が届き、次回に続く。
評語
冒頭の台湾平定は前段の締めくくりに過ぎず、主眼は康熙帝崩御と雍正帝の継位である。世を煬帝になぞらえ隆科多・年羹堯を佐命の重臣に例える説もあるが、著者は確証のない憶測には与しない。ただし「十」を「於」に改竄したという伝承には一定の根拠があるとしつつも、正史とは必ずしも一致しないとして慎重な立場を取る。雍正帝の即位劇が終始秘密めいていた点を、司馬光の「事無不可対人言」の語を引いて、父帝の寛仁とは対照的な陰険さとして批判している。