清史演義第二十九回 寇警を聞き発兵し蔵衛を平ぐ/苛政に苦しみ乱を倡え台湾に拠る (聞寇警發兵平藏衛 苦苛政倡亂據臺灣)

チベット黄教の由来と達頼・班禅

  • ヒマラヤ以北のチベット(西藏)は唐代に吐蕃と呼ばれ、文成公主の降嫁で仏教が伝わった。元代には紅教が管領し、明代に宗喀巴が黄教を開いて達頼・班禅の二大喇嘛の転生相続制が確立した。第五世達頼羅卜蔵堅錯の代、近臣の桑結が「第巴」として国政を代行し、和碩特部固始汗の力を借りて紅教の藏巴汗を滅ぼし、前藏・後藏の分治体制ができた。

桑結の専横と拉藏汗による粛清

  • 固始汗の後、和碩特部は清に服属し勢力を伸ばした。桑結は達頼五世の死を秘して偽命を発し、噶爾丹とも結んで清に敵対的な動きを見せた。清に矯偽が露見した後も誤魔化しを重ね、さらに拉藏汗の暗殺を図って失敗、逆に拉藏汗に討たれた。拉藏汗は桑結の擁立した達頼を偽物として清に献じ、新たに伊西堅錯を第六世達頼に立てた。
  • しかし青海の蒙古諸部はこれを認めず、別に噶爾蔵堅錯を達頼として擁立し、達頼が二人並立する事態となった。

策妄阿布坦の台頭とラサ襲撃

  • 準噶爾の策妄阿布坦は土爾扈特部を策略で併呑した後、拉藏汗の姉を娶り、さらに自分の娘を拉藏汗の子丹衷に嫁がせて人質同然に伊犁に留めた。丹衷夫婦の帰国に護送兵を同行させ、拉藏汗が歓迎の宴で泥酔した隙に、准部の大策零が護送兵と結んで急襲、拉藏汗を殺害しラサを制圧、擁立されていた達頼を幽閉した。

清軍のチベット出兵

  • 康熙帝は傅爾丹・祁裡徳・額魯特らを派遣したが、大策零の誘引策にかかり、額魯特・色稜の軍は糧道を断たれて全滅した。
  • 続いて皇十四子允禵を撫遠大将軍として西寧に派遣し、青海路の延信軍と四川路の年羹堯・噶爾弼・岳鍾琪軍で挟撃。岳鍾琪は三巴橋を策略で奪取し、猛将黒喇瑪を陥穽で生け捕るなどの活躍で、独断で拉薩へ急進しこれを占領した。延信も大策零を破り、准部軍は伊犁へ敗走する途中で多数凍死した。
  • 清軍は新達頼をラサに送り込み、康済鼐・頗羅鼐にそれぞれ前藏・後藏の政務を委ね、チベットは一応平定された。康熙帝は大招寺に平定の碑文を刻ませた。

台湾・朱一貴の乱

  • チベット平定の直後、台湾で大乱が起きた。知府王珍の苛政に民が憤る中、アヒル売りの朱一貴が明の太祖と同姓であることから、酒友の黄殿・李勇・呉外らに担がれて即興的に皇帝に祭り上げられた。
  • 一貴らは略奪と挙兵を重ね、総兵欧陽凱の討伐軍を撃破(欧陽凱は部下の裏切りで刺殺)、わずか七日で台湾全土が陥落した。朱一貴は中興王を称し永和と改元、黄殿らを諸侯に封じたが、「五月に永和を称し、六月には康熙に戻る」との童謡が流行し、その政権の脆さが暗示される。

評語

  • 達頼の転生説は仏教の欺瞞であり、それを利用する者たちの権勢争いから真偽の達頼問題が生じ、内紛と外患が相まってチベット全土の混乱を招いたと指摘する。清朝がチベット平定後に賢吏を置いて教化を進めず、無知な達頼を送り込んだだけで済ませたことを「その場しのぎの策」と批判し、同様に台湾も長年版図にありながら適切な統治者を得られず、アヒル売りの反乱がわずか七日で全島を陥落させたことに、聖祖ほどの英主でも辺境の政教には意を用いなかったと嘆いている。