清史演義第二十八回 儲位を争い冢嗣黜けらる/文網に罹り名士冤を沈む (爭儲位冢嗣被黜 罹文網名士沉冤)
康熙帝の巡幸と統治術
- 康熙帝は明裔平定・三藩鎮圧・台湾平定・対露和議・喀爾喀服属・準噶爾平定など数々の功業を成した。五台山への巡幸(順治帝出家の噂による探訪説あり)や江南巡幸(治河の名目だが実際は威徳を示し人心を籠絡する狙い)について、著者は「表面の記述を鵜呑みにせず著者の意図を読み取るべき」と評している。
皇太子允礽の立太子と晩年の憂い
- 康熙帝には多くの皇子があり、長子允礽(正妃所生の嫡子)は二歳で立太子された。以後、四皇子胤禎、八皇子允禩、九皇子允禟らが成長し寵愛を得るようになった。
- 噶爾丹平定後、康熙帝は編纂事業(『佩文韻府』『康熙字典』等)に力を入れる一方、後宮では允礽廃嫡を巡る讒言が絶えず、康熙四十七年、康熙帝はついに允礽を廃して咸安宮に幽閉した。
允禩の陰謀と允禔の告発
- 皇八子允禩は相面師の張明徳に「万歳」と持ち上げられ密かに野心を抱いたが、皇長子允禔にこれを知られる。允禔は允礽の復立を阻むため蒙古の喇嘛による呪詛を允禩に勧めた。
- 允禔は後にこの陰謀を康熙帝に密告し、張明徳は凌遅処死。允禩も投獄されたが、允禔の関与を暴露した。喇嘛の呪具が允禔邸で発見され、康熙帝は激怒して允禔を殺そうとしたが、生母の惠妃の哀願で思いとどまり、允禔を王爵剥奪・幽禁に処した。
允礽の復立
- 康熙帝はこの一件で病に倒れたが、四皇子胤禎の看病と允礽の冤罪の訴えに心動かされ、允礽を釈放。翌年、允礽を再び皇太子に立て、他の皇子たちも各王・貝子に封じた。呪詛に関わった喇嘛巴漢格隆は磔刑に処された。
南山集の獄
- 康熙初年の莊廷鑨『明史』筆禍事件(開棺戮屍等の惨事)に続き、翰林院編修戴名世が『南山集』で方孝標の著述を引用したことが誹謗と咎められ、六部九卿の審議で戴名世は極刑、方孝標も戮屍、両家の一族が連坐して処罰された。進士方苞は大学士李光地の弁護で辛くも助命された。
允礽の再廃黜
- 康熙五十一年、允礽は再び康熙帝の怒りを買い、廃黜・禁錮となった。康熙帝は硃諭で允礽の「狂易の疾」がなお改まらないことを理由に挙げ、以後立太子の議を封じた。
- 諸皇子は儲位を窺うが上奏すれば咎めを受ける状況となり、折しも策妄阿布坦がチベットに侵攻したとの報が届く。
評語
- 皇太子の廃立や名士の冤罪は専制の弊害によるものであり、専制ゆえに皇位への羨望が絶えず、聖祖ほどの英明な君主でも巫蠱の禍を免れなかったとする。同時に専制の苛烈さは天下の怨みも招き、後世の批判を免れないとし、本回は聖祖のための憐憫であると同時に、専制の影を後世への戒めとして描いていると評している。