清史演義第二十七回 三部内訌し禍蕭牆に起こる/数次親征し朔漠を蕩平す (三部內哄禍起蕭牆 數次親征蕩平朔漠)

蒙古三部の情勢

  • 長城外の蒙古は内蒙古(漠南)、外蒙古(喀爾喀)、厄魯特蒙古の三大部に分かれる。厄魯特はさらに和碩特・準噶爾・杜爾伯特・土爾扈特の四部に分かれ、準噶爾部が最も強大で、噶爾丹が甥を殺して汗位を奪い他部を併呑していた。

喀爾喀内訌の発端

  • 喀爾喀の土謝図汗は、隣接する札薩克汗の寵姫の美貌に懸想し、賀礼を装って腰刀を隠し持たせた部下を送り、札薩克部に乗り込んでその寵姫を奪い去った。
  • 激怒した札薩克汗は車臣汗と結んで反撃したが敗走。噶爾丹が調停を装って介入し、要求を拒んだ土謝図汗の使者を殺させたことを口実に、三万の兵で土謝図部を急襲し寵姫をも奪って喀爾喀全域を制圧した。

清朝の介入と第一次親征

  • 喀爾喀三部の民は清に投降し、康熙帝は救済を施す一方、噶爾丹に喀爾喀からの撤退を勧告したが拒絶され、噶爾丹は逆に内蒙古へ侵攻した。
  • 康熙帝は裕親王福全らを撫遠大将軍として親征を決断。烏蘭布通の戦いで噶爾丹の「駝城」の陣を清軍の火砲が突破し、噶爾丹は敗走して謝罪した。

外蒙古の帰属と第二次親征

  • 康熙三十年、多倫泊で会盟し、土謝図汗の罪を赦して外蒙古を三十七旗に編成、清の版図に組み入れた。
  • その後も噶爾丹が挑発を続けたため、康熙帝は薩布素・費揚古らを率いて三方から進軍する第二次親征を行った。噶爾丹は清軍の威容を見て退却し、清軍は昭莫多で噶爾丹軍を大破。噶爾丹の妃阿奴(可敦)が自ら武装して奮戦したが戦死し、噶爾丹はかろうじて逃げ延びた。

噶爾丹の最期と第三次親征

  • 噶爾丹は準噶爾故地への帰還も甥の策妄阿布坦に拒まれて窮迫し、康熙帝は三度目の親征で寧夏まで進軍。噶爾丹は兵糧も尽き部下も離反し、進退窮まって服毒自殺した。
  • 遺児や部衆は清に投降し赦免された。喀爾喀三部は旧牧地に帰り、外蒙古一帯は完全に平定された。康熙帝は狼居胥山に功績を刻んで凱旋した。

評語

  • 美姫が原因で札薩克・土謝図・車臣の三部が次々と災いを被り、ついには噶爾丹の興亡にまで及んだ経緯を、妹喜・妲己・褒姒の故事になぞらえ、傾国の美女の禍を史書の戒めとして重ねている。康熙帝の三度の親征と朔漠平定は偉業だが、石碑を建てて誇ったことについては、秦始皇や竇車騎の故事を引き、聡明な康熙帝がなぜそれを真似たのかと、暗にその驕りを戒める筆致だとする。